135 ――託すよ
合同葬儀――戦没者の葬送は日が沈むころに全て終わった。
ディルは葬儀に出ないままに、執務室で一人執務机に着いて無為な時間を過ごしている。
何も考えることが出来ない。
何を聞いても、理解出来ない。
食事さえ、最後に摂ったのはいつだったか覚えていない。
空虚を見つめて、戦場帰りの体が痛むのにすら気付かない。
机の上で組んだ指に、自分の指輪が光っている。その掌の中にはもうひとつ号数違いの同じものがあった。
何度考えても理解が追い付かない。
最愛の人がいない世界の色は、これまでで一番白黒に見える。
秋という季節さえも恨めしかった。徐々に景色から色が失われていく。外に見える木々も、既に葉を色付かせ始めていた。しかしそれもディルの気を引くものになっていない。
その景色を、妻が隣にいた頃は美しいと思えていた。たったひとりの存在に、何処までも心を動かされていた自分の有様が、ディルにとって一番恨めしく感じている。
今のディルの気を引ける色があるとしたら、それは鈍い銀色。そして、その色を混ぜ込んだ茶色。
気を引けるのは色だけではない。ディルを呼ぶ甘い声、その声の主が作る料理、肌から感じる香り。世界で一番愛していると、臆面もなく語る言葉。
無意識に、指輪を強く握った。
本当に、二度と逢えないなどと考えたくない。祈るような面持ちで身を屈め、指輪を握った両手を額に寄せる。彼女が愛した白銀の髪が、ディルを捕らえる牢獄の檻のように流れた。
「………、……隊長」
執務室の扉が開いて、ディルを呼ぶ声がする。
その声に、ディルは返事が出来ない。
「……食事を、摂られていないと聞いております。用意して参りましたので、どうか……一口だけでもお召し上がりください」
聞きたい声ではなかった。
声の主であるフュンフは、儀を執り行っただろう合同葬儀が終わって着替え直したらしく、普段の神父服でディルの前に食事一式を置いて一歩下がる。
用意されたのは麦粥と薄い汁物、それから、妻がよく作ってくれたものを模したようなサンドイッチ。銀食器としてフォークとスプーン、それからサンドイッチ用のナイフが一緒に置かれている。
ディルはそれに一度視線を向けたが、食欲は一切湧かない。空虚を見るのと変わらない瞳が、次に見たのはフュンフの顔だ。
「――……」
フュンフは息を呑む。
それほどに失意に呑みこまれた彼の顔を見るのは初めてだった。結婚して以来健康的な肌艶になって、人形の汚名を脱却したような生命力を感じさせていた瞳とは違う。
フュンフが幾ら普段の彼女を厭おうと、ディルにはたったひとりの大事な人だった。
堪らずフュンフがその場に膝を付いた。同時に両手も床に付き、頭を垂れる。
「お許しください! ……いえ、お許しいただけるものでないことは承知です!! ですが、どうかお召し上がりください! でなければ、貴方の身が!!」
「………」
「お願い、します。私の事を、どれだけ恨もうと構いません。恨んでください!! ですが、貴方の身の無事は、あの方の最後の願いです」
「……『あの方』……?」
声に覇気すらない。戦争が終結し、ソルビットへ妻の死を伝えたことで、ディルのするべきことも無くなってしまった。
ディルの生きる意味が、消えた。
なのに無責任に生を願うフュンフの言葉が癇に障って、ディルが立ち上がった。手の中にあった指輪は、愛しい人へするように優しく指で掬いあげて机の上で待たせる。
無様に許しを乞う姿に近寄り、苛立ちのままにその頭を踏み付ける。
「ぐ、っ……!!」
「貴様如きが、我が妻を軽々しく口にするな。恨もうと構わぬ……? 恨んでください、だと? 貴様の立場でよくも言えたものだな」
躙るように靴裏を頭に押し付け、このまま踏み潰そうかとする程の力を掛ける。
それでもフュンフは耐えた。そうでもしないと、彼自身が自分を許せないのだ。
「何故だフュンフ。貴様は我の想いを知っていた筈だ」
ディルの声は、震えと失望が綯い交ぜになっている。
「振り向かれずとも構わない、それでもあの者に触れたかった。恋だ愛だと自覚するよりも以前から、我はあの者に焦がれていた。妻の為ならこの命など惜しくない、あの者の生は何よりも我が心を癒した」
フュンフの瞳から雫が垂れる。それを、ディルは見ることが出来ない。
見たとしても、することは変わらないだろうけれど。
「何故あの者を見殺した――答えろ裏切り者!!」
絶叫が響いた。
ディルは、フュンフを信じた。
フュンフは、彼女の願いを叶えた。
二人とも、後悔しかない結末だった。
後悔しかなくとも、ディルの命は繋がった。この先の未来を、後悔を抱え生きることに絶望が付いて回る。
「………託された、のです」
「託された……?」
「あの方の想いを。貴方の身を。あの方は、貴方のいない世界では生きていけないと言った」
涙で震えるフュンフの声が、ディルの鼓膜を揺らす。
既にフュンフに関する喚問は終わっている。しかし、その場にディルはいなかった。話を聞いて、本当に彼女がいなくなった世界を痛感するのが嫌で、出る事が出来なかった。
今話されている内容は、ディルにとって初めて聞く内容。
「貴方を死なせたくないと」
「……我は死なぬと言った」
「体勢を、立て直す時間が必要だと」
「そんなもの、あの者の身ひとつでどうにかなった訳ではないだろう」
「実際、あの方の奮戦のお陰で時間稼ぎが出来たと聞いております。……そして、こうも仰いました」
『――託すよ』
涙を浮かばせた笑顔は美しく、フュンフさえ否と言わせない決意を孕んでいた。
「貴方がいつか、本当に誰かを想うことが出来る日が来る世界を、私に託すと」
「――………」
「あの方は、貴方がいないと生きていけないけれど、貴方は違うと。貴方が生きている世界の方が何倍も価値があると。貴方の命以上に優先されるものはない。あの方は、最初からご自分を犠牲にする事を考えていらした。その強い決意に、私がどのような言葉を掛ける事が出来たでしょう」
どんな思いで、彼女がディルの言葉を強請ったのか今更理解した。
「一度も、貴方があの方をどう思っているか聞いた事がないと。それでも貴方に献身的に愛を示し続けたあの方の一番の願いは、貴方が生き続けることでした。私も、あの方もきっと、今でもそれを一番願っております!」
戦場に向かう前、彼女の催促に素直に応じていれば、こんなすれ違いは無かったかも知れない。
愛していると、たった一言伝えていれば。
「………ふ」
ディルの唇が、嘲笑に歪む。
フュンフの絶叫による嘆願を受け、それ以上は聞きたくないとばかりに足蹴にしていた頭を横から蹴飛ばした。呻きながらフュンフはそのまま横になり、痛む頭を抱えながら再び起き上がる。
「……ふ、……ふふふっ。……ああ………揃いも揃って……」
フュンフですら一度として見た事のない笑顔が、涙に濡れて暗い影を負っていた。
「以前よりあの者は阿呆だと思っていたが、まさか其処まで愚かだったとはな……。死んで何とも思わない者を、妻になど迎えようと思うかえ……? 愛してもいない女の肌に獣が如く喰らい付き、貪り、永遠を誓うとでも……?」
ディルが片手で自分の視界を覆う。零れる雫はまだ止まらない。
「今此の時でさえも、夢であれと願っている。醒めたらあの者が隣で寝ていて、寝顔を見て安堵し、二度と見たくない悪夢だったと忘れる事も出来よう。何故此の悪夢は晴れぬのだ。あの者が終わらせた永遠の続きを、我は此の先も一人で見続けねばならぬのか。重ねた時間が一年程度では足りぬ、我の全ては、あの者を、声を、肌を、吐息を、愛を未だ求めているというのに」
「……申し訳、ありません」
「我が願いは、どうなる。――命に代えても、あの者を守りたいと思っていた」
ディルの願いだけ、二度と叶わない。
永遠が崩れ去った後の世界で、ディルは一人で生きて行けと言われている。幾ら呼んでも彼女は反応しなくて、愛を与えてくれる相手も与えたい相手も既に亡くて。
そんな馬鹿な話があるか、と、泣き喚きたいのに、もう既に全てが遅い。
「……っああ……何故だ……。何故……我を置いて逝く……。我に愛を、感情を与えておきながら、無責任にも程があるだろう……?」
散った花は種も残さぬ仇花となった。
本当に、あの女は。
他の誰かを愛せるディルが、未来の何処かに存在するとでも思っていたのか。
「……フュンフ、何があろうと貴様を許すことが出来ぬ。許せぬ我を狭量と思うかえ」
「………いいえ」
「で、あろうな。貴様は我に対して従順であった。一度限りの指示放棄だったとしても、我は貴様をこの場で殺したい程に憎んでいる」
この場で首をへし折ってやりたい。
頭を踏み潰してしまいたい。
けれど殺したって、彼女が戻ってくる訳じゃない。
「あの者が愛した我は、あの者と共に死んだ。此の場にある我は抜け殻だ――そう成したのは貴様だ、フュンフ」
「………はい」
「汝のような者を側に置いていた我の失態――、其れを、我が手で償わせよう。死した我が妻への餞に……其れをあの者が望まぬとしても、自ら選んだ愚かな道が何れ程の大罪であったか理解するであろう」
ディルはそう言って、机にあったナイフを手に取った。フュンフが持ってきたそれが光を反射させると、フュンフの涙に沈む鳶色の瞳が見開かれる。
ディルの殺意は今、その鳶色に向けて注がれる。戦場で奮迅した、国内最強と謳われる『月』隊長の殺意。
「っ……!!」
ディルの指に挟まれたそれがフュンフに向かう。
フュンフは、逆らう事も逃げる事も、命乞いをする事すら出来なかった。
自分を狙う銀色が、肉に食い込むその瞬間まで瞳を開き続けた。
それが、自分への罰だと分かっていたから。
「――!!!」
痛みは、ほんの一瞬だ。どれだけ覚悟していても、反射的に瞳を閉じる事さえ許されないような速度。
戦場で使うそれとは切れ味も段違いに悪い刃が、フュンフの肉やそれ以外を削るように抉る。
フュンフの身に訪れた激痛は、顔。
右目を肌ごと縦に裂いたナイフが、血を伴って床に落ちた。
「っぁ、……ぐぁ、……っあああああ!!」
意識とは別の所で体が動く。右目を抑えたフュンフが、激痛に身を捩った。
その姿を見下げながら、ディルが右腕として副隊長に据えていた男の無様な姿を視界に焼き付ける。
「其の右目が痛みに疼く度に、我が絶望を思い知れ。貴様は片目を失うが、我は半身を失えど尚生きねば成らぬ。……貴様に死など与えてやるものか」
あまりに醜悪な悲劇だ。
「我に望まぬ生と感情が与えられた地獄を、命尽きるまで味わい尽くせ」
最期の最期に彼女から与えられた呪いは、ディルが生き続ける限り続く。
生きて、なんて、そんな願いは要らない。
そんな愛なら、欲しくはなかった。
「………本当に、馬鹿ばかりだの」
謁見の間で、カリオンから事の顛末の報告を受けていた王妃。姿は戦場で見せたものとは違う、いつもの薄布を顔に垂らした姿。
『月』副隊長フュンフ、隊長ディルの乱心により右目を負傷。宮廷医師の見立てでは、視力が戻ることは無いという。
生活に支障は出るが、フュンフは神官としても優秀なので、騎士の位を返納するには至らないだろう。問題は、ディルの方だった。
「……乱心、そして同隊の騎士を私怨で害したのなら処罰対象にせねばなるまいな……。……ああ、本当に……『花』は、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して居なくなるなど」
「……王妃殿下、畏れながら申し上げたい事がございます」
「ん……?」
王妃としても、既に疲労困憊状態だ。外交面でも内政面でも、王家の者は皆くたびれている。肘掛けに肘を置き、頬杖を付いてカリオンの言葉を待つ。発現許可の返事すらおざなりに済ませた。
「『月』隊長ディルの処罰……何卒、寛大な処置をお恵みいただけないでしょうか」
「……ふ。どうしたカリオン。其方のそれは憐憫か? 神の子孫住まうこの王城で、王と国を守る騎士に血を流させた罪は重いのだぞ。……それも、醜い私怨ともなれば庇いようがない」
「彼も、相応の事をしたと思っています。双方の痛み分けとして、どうか……」
「……」
痛み分け、の言葉に王妃が苦笑する。確かに、フュンフにも相応の罰が必要とは考えていた。
如何なる理由があれど、騎士隊長の死亡は避けなければならない事柄だ。そうなる状況を知っておいて最善でない手段を取ったフュンフだ。だからこそ、既に罰が与えられてしまった今の状況でどう咎めようか頭を抱えている。
王妃の口から溜息ばかりが漏れる。国王が判断を下すであろうが、その国王も今は多忙だ。王妃に国内に纏わる幾らかの権限を渡してしまうくらいには。
「……そうさな」
王妃は口許に指を運び、唇を撫でる。
本当に、面倒だ。面白みが無い。面白おかしかった女も、二人ほど居なくなってしまった。
「………ディルは、騎士隊長及び騎士の位を剥奪。追放までは不要だろう、国外に放り出してしまえばあの者は今度こそ生きてはいけぬだろう、死ぬまで『花』隊長の墓守をさせておけ」
「……ありがとうございます」
「其方に礼を言われる事はしない。……『花』が居なくなった後の、あの酒場を任せようと思っている」
「酒場……? まさか」
「『j'a dore』のマスターに就任してもらうとしよう。……丁度良かろう。亡き妻に代わり、この国の影として生きて貰う」
面白おかしかった女の夫が、同じ様に面白い男だったら良かったのに。
その願いは叶わない。明るかった彼女たちは、もういない。
この暗い影はいつか晴れるだろうか。彼女達を失った事を覆す程に明るい話が、いつか入って来るだろうか。
それはきっと無理だろう、と王妃が天を仰いだ。
「……カリオン」
「はっ」
「もし、あの戦場から生きて戻って来たのが……あの男でなく、『花』隊長であったなら、この国はどう変わっていたろうな?」
「……その問いに、お答えしなければ……なりませんか」
「いや」
誰が死のうと、絶望を免れる手段はない。
けれど、もし『花』隊長が生きていたら。
否。
もし、隊長格が誰も欠けず生きている未来があったのなら。
「答える必要はない。私の独り言として流せ。……今は構わずとも良い」
「……」
「ああ、それでも……また、あの者が屈託もなく、笑顔を浮かべる時があったのなら」
彼女の笑顔を見ながら思うこの国の未来のカタチが、少しでも変わったかもしれない。
「……命ある限り、我が駒として使ってやったものをなぁ……?」
それは独り言だ。しかし尊大な口調に隠しきれていない親愛があった。
本心で言った事に間違いは無いのだろう。けれど、それに付随する意味については王妃にしか分からない。
カリオンは頭を垂れて、その独り言を聞かなかったことにした。
王妃の声が震えてさえなければ、カリオンだって反感を覚えたかも知れないような言葉選びだ。王妃がこんな言葉しか口に出来ないのは、想像しか出来ないような、生きている世界での重圧があるからで。
彼女のいない夜はまた来る。
そして彼女が騎士として存在する朝へと明ける日は、二度と訪れない。