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アルセンの秋は駆け足で過ぎていく。気付けば秋も深まり、肌寒い気温となっていた。
戦争は終結した。これまで惰性で続き停戦で終わっていた戦争は、この年に終結する。
喪った命が多い戦争だった。敵味方関係なく、命が失われて二度と戻らない。
戦後処理に先んじて、アルセン国内では大々的に戦没者の合同葬儀が行われた。そこで神官として儀式を取り纏めるのは『月』隊長であるディルだった筈なのに、彼は葬儀の場に現れなかった。
代わりにその時、ディルは十番街の病院に足を運んでいた。病院の中でも奥にある個室だ。普通の見舞客であれば寄り付きもしないほどに施設の端にある部屋は、秋めいた季節の中とても静かだった。
入院患者の名前も無いその部屋で、ディルが入室の合図として扉を叩く。
返事は無い。しかしディルが来るのはあらかじめ伝えてある。遠慮なしに扉を開くと、うっすらとした戦場の死臭がディルの鼻を掠める。
死臭というのは正しくない。
まだ、件の宝石は生きているのだから。
「………」
中に居たのは二人。そのうち一人は寝台に横たわったまま。
寝台の隣に備え付けてある椅子に座っているのは、王子騎士であるアールヴァリンだった。
彼は無言で、ディルの入室を見守る。
「……」
ディルもまた無言だった。そして、寝台の上の人物に視線を向ける。
両目を失い、割れた果実のようになってしまった顔に包帯を巻き、両足の膝付近から先も失い、指すら欠けている、元の姿とはかけ離れてしまった人物。
命を今まで繋いでいる事自体が奇跡のようだった。
『花』副隊長、ソルビット。『宝石』とまで呼ばれ、国で一番美しいと言われた彼女の姿は、最早面影も無い。
「……ヴぁ、……ぃ、ん?」
彼女は目が見えないから、誰か入って来た気配がするのにアールヴァリンが何も言わない事態に疑問を覚えているようだった。
まともに名前も呼べない。それなのに彼女に向かって、アールヴァリンは愛しそうな笑顔を向けた。
「大丈夫だよ、ソル。俺はここに居る」
欠損した箇所が痛まないように、そっと指先で手を撫でるアールヴァリン。
ごぷ、ごぷ、とソルビットが軽く咳き込む度に喉に何かが絡んでいるような音がする。それは呼吸の時でも喘鳴として聞こえて来た。
傷から包帯に滲む黄と赤の混じる液体も、褥瘡が出来ているのに体位交換が出来ないような酷い怪我なのも、彼女の生命の蝋燭が今にも消えてしまいそうな状況をありありと伝えて来る。
ディルはそんなソルビットから視線を逸らさなかった。妻と最後まで共にいてくれたのが、ソルビットなのだから。
「……ディルが、な。来てくれたんだ」
「でぃ………ぁ」
以前、妻の事で険悪な仲になったりもした。
けれど妻はそんな彼女を心から信頼し、またソルビットも親愛を寄せた。
「……へ、へへ。……でぃ、る、さま。……んな……かっこで、ごめ……なさいね」
「………」
「でも、……あたし、……しぶとぃ、から。……んな、とこ、じゃ……しなな……っす」
強がりは、彼女の命を繋ぎ止める方法のひとつ。
「……だか、ら。……たいちょ、に。………まだ、みま、ぃ、こないで……って、いって……」
『花』隊長の存在は、彼女の心の支え。
アールヴァリンが顔を背けた。
彼女の事は帝国内外を探させているが未だ死体の欠片さえ出てきていない。王妃が降伏させたプロフェス・ヒュムネ達に聞いても所在不明のままだ。
ディルの妻は、ディルの傍に帰って来ていない。厳密には消息不明であったが、今回の合同葬儀にはディルの知らぬところで彼女の名前が入ってしまった。死亡とする状況証拠も充分だったから。
ソルビットはそのことを知らない。アールヴァリンが伝えさせていないそうだ。
まだ彼女が生きていると信じているソルビットに訃報を伝えてしまえば、彼女の心の支えは失われるから。
「………」
まだ、『花』隊長は生きていると信じてくれている。
ディルにはソルビットの言葉が慰みになる。けれど、いつまでも縋っているばかりではディルも前に進めない。進みたいとは露とも思っていないけれど。
「………ソルビット」
ディルが口を開くのを、アールヴァリンは止めなかった。
「あの者は、死んだ」
これ以上、真実を隠していても、誰の得にもならない。
ソルビットが真実を知る事で、どんな事になるかは誰もが予想していた。
けれど永らえる事で、身体的苦痛に呻き泣くソルビットを見ていられなくなったのはアールヴァリンだ。
彼女は美しかった。その美しさを本人も分かっていて、それを外交の武器として使用した事も数多い。そんな見た目が崩れてしまって泣き濡れて、傷の痛みで藻掻き苦しんで、それでも少しでもいいから長く生きてくれ、なんて、そんな事をアールヴァリンは言えなかった。
それで命の最後の一葉を落とす一言を伝えるのを他人に任せてしまったのは、アールヴァリンの弱さ。
「…………」
ソルビットの喉が、音を立てて息を呑む。
「……ぇ?」
やっと出てきた一言は、理解出来ていないが故の声。
「………は……? まっ、て。う、そ。なん、で? なん、で、ぁたし、いきてて、たいちょ、たいちょ……あたし、いきてる、ぁい、だ、しなせ、な、いって、いっ……た」
途切れ途切れの言葉は、鬼気迫るような音色だった。掠れた喉が、必死に訴える。
「しん……だ……? うそだ、あたし、なんの、ために。なんで、あたし、いきて、なんで、なんでなんでなんでなんで」
声が掠れ、聞き取りづらくなる程にしゃがれても、何度も何度もソルビットが繰り返す。
「死体は見つかっていない」
「っぁ、……じゃ、あ、………ぃぎで、る、かも」
「………何処にも、無い」
「…………」
ディルは、この言葉がソルビットを死に至らしめるであろうことが分かっていた。
でもそれは、ソルビットに訪れる死が早くなるか遅くなるかだけだ。伝えずとも、彼女が永らえる事はきっと無い。
言葉を失うソルビットに、これで伝えるべきことは全てだとばかりにディルが背中を向ける。勿論、彼女はもうそれを見る事すら叶わないのだけど。
「………っぁ」
ディルが部屋を出た音がしてから、ソルビットの声が漏れる。
「……たい、ちょ……もぉ、あっち……ぃ、るんだ………。……ぁは。じゃあ、も、……しぬ、の、こわく、ない、ね」
全て吹っ切れたような声がして、堪らずアールヴァリンが立ち上がった。引き留めるように手を握る。優しくしようとしたはずなのに、力が籠ってしまってソルビットが呻く。
「……ソル。……ごめんな。ごめんなぁ、俺、お前の事……守ってやれなくて」
「ヴぁ、り。……ぁあ、ヴぁり、そこ、いる?」
「居るよ。俺はずっとお前の側に居る。お前が嫌だって言っても側に居るからな」
「……ごめ、あた、し。もう、……きれいじゃ、ない」
「綺麗だよ。いつだってお前は綺麗だ。俺の知っている女の中で一番綺麗だ。いつもみたいに胸張ってろよ、お前は世界で一番綺麗だよ」
この手を離す時が最期だという気がしていた。
ソルビットはもう笑えもしないが、アールヴァリンにかける声は温かいものだった。
「……ヴぁ、り、ん。……さむ、い」
「寒い? 大丈夫か、毛布持ってこようか?」
「……はなれ、ないで」
「分かった。離れないよ。手を握ってる。俺はここにいるから大丈夫だよ」
「だき、しめて」
希望を伝えられた瞬間、アールヴァリンの喉奥が鳴った。苦しみを呑み込んで押し殺す音だ。
言われるがまま、アールヴァリンはソルビットの背中に手を差し入れた。褥瘡がある背中だが、ソルビットはもう痛みを訴えない。
「……力入れてもいいか? 痛くないか、大丈夫か?
「……だい、じょ」
「じゃあ抱くぞ。抱き締めるぞ、ソル。大丈夫か、俺、此処に居るからな。温かくなったか? 寒く、ないか?」
アールヴァリンの声が震えている。普段のソルビットだったら、それに気付けば即座にからかってくるような性質をしていたが、もうそんな軽口さえ出ない。
力を込める。鼻につくソルビットの浸出液の臭いは、普段彼女が纏っている香水の香りとはかけ離れている。それでもアールヴァリンは構わなかった。
「ヴぁ、り」
「うん」
「あたし、いま、まで……ごめんね、」
「大丈夫だ」
「しぁわせに、なって、ね」
「今が一番幸せだよ。ソルがそんなに素直で、俺は嬉しい。お前はいつも俺の事小馬鹿にしてばっかりだったからな」
「……しあわせに、なって」
「幸せだよ。幸せだ。ソルが一緒に居る。一緒に居てくれる。俺もソルも此処に居る。ソル、聞いてるか。俺はお前がいるから幸せなんだよ。俺、お前じゃなきゃ駄目なんだよ」
「…………ヴァ、リン」
「なあソル、ずっと一緒にいよう。俺、今まで以上に頑張るから。絶対にお前を離さないから。何があったってお前が一番だ、お前以上の女なんて何処にもいないんだよ、ソル。なあ」
ソルビットはもう涙さえも流せない。
なのに眼光に包帯が巻かれたその場所に、液体が滲んだ。
ソルビットの涙だったか、アールヴァリンから零れた涙かはもう判別できない。
「……幸せになってよ。……ばぁか」
それがソルビットの最期の言葉になった。
「………ばかでも、いいよ」
馬鹿だ。
大馬鹿だ。
ディルもアールヴァリンも、愛の言葉ひとつ本人に向かって満足に囁けない馬鹿者だった。
ソルビットの体を強く抱きしめ直しても、もう反応は返って来ない。
「馬鹿で良い。馬鹿でいいからさ、ソル。そんな馬鹿のお願い聞いてくれ。ずっと一緒にいてくれ。俺の傍にいて、ずっと……俺と、生きてくれよ」
心臓の鼓動が、聞こえない。
「頼むよ、……なぁ、俺が、ここまで、頼んでるんだぞ。お前の我儘も、同じくらいに聞いてやるから。生まれてきて良かったって、俺の傍に居て良かったって、幸せだって、いつか絶対言わせてやるからさ」
ソルビットを抱き締める力は強くなる一方。
それに反比例するように、柔らかかった筈の体から熱が抜けていく。
「いかないで」
その熱を手放すまいと、アールヴァリンは小さくなってしまった体を抱き締め続けた。
「傍に居てくれよ」
涙が幾筋流れても、泣き喚かなかっただけ冷静だと思いたかった。心の中で考えていた最悪の未来が目の前に起こっただけだ。最悪過ぎて頭が痛くて、もうこの世界は何があっても覆すことが出来ない。
最期を腕の中で看取れただけ、アールヴァリンは幸運だった。
最愛の人の最期の姿を見ることが出来なかった者も、確かにいたのだから。
貴族の落胤であり、孤児として育ってきたソルビットの葬儀は彼女の異母兄とアールヴァリンだけで執り行われた。
灰になった彼女はその後、およそ五年以上もの間アールヴァリンが側に置き続けることになる。