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王妃が連れて来た女性二人の事は、その場で詳細に語られる事はなかった。
しかし王妃含む三名が姿を変貌させてまで敵本陣に向かった事と、返り血に塗れながら平然とした顔の少女が「姉様」と王妃を呼んだことで、おおよその事を誰もが理解する。
驚くべきことに、帝国にいたプロフェス・ヒュムネ部隊の生き残りはほぼ全員が降伏したという。同時に獣人とダークエルフの部隊も全滅。
状況はアルセン軍の圧倒的有利となっていた。アルセンとしても多大な犠牲を払ったが、万全の体制であった純血のプロフェス・ヒュムネには弱った帝国軍を血祭りにあげる事もそう難しい事ではなかった。
鏖殺、と命令を下した王妃の言葉の通りに、三姉妹が通った戦場に残るのは死体ばかり。
勿論それまで戦っていたアルセン騎士達の功績もあってのことだが――素直にそればかりを讃えられないのが騎士だ。
彼らが喪ったものは、あまりに大きい。
王妃到着から二日経ち、体勢を立て直し末端までの司令系統を編成し直したアルセン本陣、大天幕。
それまでと違うのは隊長格とは別にプロフェス・ヒュムネ三姉妹とその側仕えが存在していること。
王妃は王妃として振舞っているのではなく、かつて滅んだ国の元首のような態度で粗末な椅子に座っていた。こんな戦場で座るものにまで文句はつけないつもりらしく、座り心地の悪い座面に不満は言わない。
他の面々は立ったままだ。それは王妃の妹達に至っても。
「……『花』の二人の脱落は、痛いな」
そして王妃は口を開く。
「私達も王城から移動していた、連絡未達を咎めるつもりはない。フュンフについても、事が終わり次第責任を問おう。優先順最上位は帝国の滅亡。帝国の瘦せ衰えたような国土など我々には今更要らぬ、協力の礼としてアルセン含む近隣諸国へ割譲して構わん。……尤も、負債になるようなものを押し付けるなと拒否されるやも知れぬが」
どんなに愚かな国とはいえ攻め落として制圧してしまえば、その国で甘い汁を吸っていた者の中には愛国心という大義名分で反乱を企てようとする者が現れないとも言えなかった。王妃が帝国の領土をプロフェス・ヒュムネの復興の地として譲り受けるのも不可能ではないかもしれない。けれど王妃はその考えを自ら無いと言い切った。
王妃の表情は、薄布が無い今よく見える。濃紺の睫毛に象られた瞳が無感情に自分の指先を見ていた。日常生活で扱うようなもの以上に重い物を持ったことがなさそうな細く白い指は、先程湯で洗うまで血に染められていた。
勿論、返り血に塗れていたのは三姉妹だけではない。アルセンの騎士も皆、今以上の好機は無いと戦線に立った。その中でも、自らを省みず血雨の如き鮮血の中に身を投じていたのは他でもない――『月』隊長、ディル。
「………」
そのディルは、普段から白い顔色を更に青ざめさせて天幕の中に立っている。王妃の話も耳に届いているのかすら分からない。
ディルが、残された妻の腕に何をしたのかは全員の知り及ぶ所になってしまった。指の先から骨を残して半分以上肉を削がれた腕は、既にディルから引き離されている。
それを悲恋だ、美談だと有難がるものはこの国にはいなかった。
「さて、後々考える事は山とあろうが……今はどう動けば効率よく敵の首を取れるかを考えねばな? ……全く、過ぎた自己犠牲は望まれないというに……だが、あの者らしい」
何を、誰を指しているのか名前こそ出されなくても、その場に居る者には伝わってしまう。
大きく吐息の音をさせたディルの方に、誰も視線を向けられない。
その時だった。大天幕の外から、目通りを願う声がしたのは。「何事だ」と、面倒そうな王妃の返事。
「帝国からの使者が来ています。追い返しますか」
アルセン軍としての心情は石でも投げて追い返したいくらいだろうに、律義に指示を仰ぎに来るあたり落ち着いている。
今本陣に居る者のなかで、一番冷静じゃないのは三姉妹。
「追い返してもいいけど、折角だから殺して左腕だけ送り返そうよ姉様。マスターがそうされたみたいに」
苛立ちと殺意を隠しきれていないのはマゼンタだ。浮かべているのが目元だけ取り繕った微笑のつもりだとしても、目が笑っていなかった。
何なら私が、と動き出そうとするマゼンタをオルキデが手で制した所で、王妃が口を開く。
「通せ。使者とやらの世迷言、聞くのも悪くあるまいて。丁度皆に休憩が必要であろ、その間に持ち掛けられる話次第で、即時攻勢に移る」
王妃の答えに、その場にいたほぼ全員が不快そうな顔をする。それは王妃の言葉に直接覚えた感情ではないものの、これから使者を名乗る者の発言を聞かなければならないのかとカリオンさえも顔を顰めた。普段の彼ならばそんな感情も笑みの下に隠せる筈なのだが、疲労は既に頂点を越えている。
そして使者が大天幕に入って来るまで十分程。現れた男は、金の装飾を身に付けた鼻につく外見の男だった。
口上もそこそこに、大仰な咳払いをして書簡を開く。そこに書きつけられている内容に、全員が唇を引き結んだ。
「――『我が軍を相手に善戦したアルセン国よ。此度の互いの犠牲を鑑みるにそちらも疲弊しているのではないか。アルセンが払った犠牲は大きいと推察する、その犠牲を以て我が方も停戦に応じる慈悲を備えることも視野に入れる。さすれば今暫くの安寧と友誼を約束しよう』」
失笑が漏れないのが不思議な程だった。先程まで使者を葬る不穏当な事を言っていたマゼンタさえも真顔だ。
「以上が帝国の主である皇帝陛下からの御言葉である。さあ、こちらの停戦協約書に署名を」
この期に及んで、使者が持ってきた書簡は自分達が優位だと疑っていない文面。それを読み上げた使者でさえも、アルセンを小馬鹿にしているような笑いが浮かんでいた。これで使者だと言うのだから、ろくでもない人材しか置いていないのだと思い知らされる有様。
こんな国に。
今までも、そして今現在も。
アルセンも、ファルビィティスも、数々の者が苦しめられて、そして。
『花』隊長達までもが。
話を聞いている王妃の顔色は変わってこそいないものの、座った膝の上で丸めている拳が震えていた。
カリオンも苛立ちに熱い吐息を吐き出すも、湧き上がる怒りは収まってくれない。
エンダもベルベグもアールヴァリンも、今すぐ使者を切り捨ててしまいたい程の怒りに駆られるのに理性が邪魔をする。
こういった場で、一番先に体が動いていたのは『花』隊長だったろう。怒りに任せて誰よりも先に動いて、使者の顔を殴り飛ばした筈だ。王妃の目の前での使者への非礼に、『花』副隊長は諫めこそすれ王妃は咎めはしない筈だ。だって、王妃も彼女の性質を知っているから。
何故、彼女はこの場にいないのだろう?
答えが分かりきっている問いが全員の頭に浮かぶ頃、突然銀色が閃いて、目の前で鮮血が噴き出す。
一拍遅れてごろりと転がる音がして、使者の首が地に落ちた。
血飛沫が辺りに飛び、その場に同席していた者達の頭や服を汚していく。
「……ディル」
誰もが我慢していた場所で一人だけ、動いたものがいた。
ディルは抜剣した武器もそのままに、軽く振って刀身に付いた血を飛ばす。
その瞳には、光は無い。
「……『濁りし沼はどれだけ清き水を注ごうとも、注いだ水の清さに到達する事は不可能である』。濁ったものへ、神が取りし手段はいつも一つだった。どれだけ苦心して浄化しようとも、汚れた者が元から清いものへと近付くことは困難を極める。神はいつでも、粛清を以て浄化とした」
沈んだテノールは、悲哀とともにその場に居た全員の耳を掠めていく。
ディルが諳んじたのは聖書の一節だった。この場に居た者は、聖書自体に目を通していない者さえもその意味を推察する。
神は生き物が子にするように人に付き添わない。道を違えた者を導きもしない。
道を踏み外した者に待っているのは奈落だけなのだから。
「間違いは正さなければならぬ。しかし正す対象に間違えている自覚が無い場合、其れは罪へと成り下がる。罪とは、裁かれねばならぬ。裁くのは誰だ。このような汚れた世界に神は居らぬ。居らぬなら如何する。――知れた事、帝国を裁くに値するのは我々しか居らぬのだ」
光の無い瞳で、沈んだ声で、そう宣言するディルには殺意があった。
誰を彼をも、殺した所でまだ足りぬ。敵と味方の判別がついているだけ、ディルはまだ冷静な方だ。その基準も、疲弊しきった彼には曖昧なものとなりつつある。
妻が居ない憤りをぶつける先を探していた。それが誰であれ何であれ、今のディルは構わない。
「陣頭は我に。罪は裁かねばならない、汚辱は雪がれねばなるまい。帝国皇帝の血液を以て、穢されたアルセンの不名誉を返上しよう――さすれば二度と同じ間違いは起きるまいて」
「……ディルよ」
虚ろな瞳の『月』に、王妃が問いかける。
「返上したいのは、本当にアルセンの不名誉か? 其方の願いはそれで終わるか?」
「……願い、など。希望など。我は器用ではない故に、ひとつしか持ち合わせぬ」
答える彼は、自身の腹部を軽く撫で擦っただけ。
「我の望みを叶えられるのは一人だけだ。……その一人が居ない今、どのような手を使っても、二度と、離さぬ」
その腹に何が収まっていたか、知っている者全員が顔を顰めた。
これで終わるなら、寝覚めの悪い醜悪な悲劇だ。残された者の事を考えない彼女の終幕は、その場にいる全員の表情を強張らせる。
オルキデとマゼンタさえも、ディルが『花』隊長に愛を囁かなかったのを知っているからこそ向ける視線は冷たい。
王妃は、ディルの言葉を受けて目を伏せた。
「好きにせよ」
プロフェス・ヒュムネとしては、もうこの戦地でやる事は無くなった。あとはアルセン軍が片付けなければならない問題だ。
「面白くも無い帝国の寝言で耳が汚れてしまったな。休憩は終わりだ、攻勢に転じよ。陣頭指揮は『鳥』に一任する。お膳立ては此処までで良かろう、弔い合戦なり殺戮なり後の判断は任せる。……私は疲れた、先に帰城する」
立ち上がった王妃はそのまま天幕の出入り口まで、直線上を進む。
その先には使者の死体もあったが、それを平然と、苛立ちを込めて踏み付ける。
姉様汚い、と、妹二人が非難するように声を上げたが王妃は意に介さない。
使者の死体を帝国に送り返す事もせず、アルセンは即座に帝国本陣へと攻め入った。
前線を張る『鳥』『風』の者達さえも差し置き、殲滅の言葉に相応しい程の働きを見せているのが『月』のディル。
王城からの残存兵力が到着する前であったが、疲弊した帝国軍本陣はそのまま壊滅してしまった。
それだけで収まらなかったのは、怒りに震えるディルだけじゃない。
愛する人を死の間際まで追い込まれて激昂したアールヴァリンが副隊長を勤める『風』。
隊長と副隊長を同時に戦闘不能に追い込まれてしまった『花』。
『鳥』は軍に渦巻いた怒りと悲しみを止めることが出来なかった。絶望は憎しみに転じ、理性のないまま武器を振るう。
帝国皇帝の首が、荒廃した領土の空き地に晒される事態になったのは一週間も経たないうちだった。