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これまでも大きく前線を下げ、これ以上は退くことが出来ないという場所に布陣しているアルセン軍だったが、夜が二回明けた頃に少数の人物達が到着する。フュンフが連れて来る手筈になっている城下の残存部隊ではない。
騎士団から選出されて任命される早馬よりも尚早い、四人だけの小さな部隊だ。その部隊が乗って来た馬は本陣に到着とほぼ同時、無理な疾走を続けた事により潰れてしまった。
アルセン軍は騒めいた。四人という数のうち三人が女性だったのだ。それも、一人はまだ成人もしていないであろう少女。
簡素な皮鎧を身に付け、黒髪を晒して歩く姿は観光気分で来たようにも見える。物見遊山気分で、血が流れ命が失われる場所に来られたのでは騎士達もたまったものではない。
少女が跳ねるように機嫌よく本陣に近寄る姿に、一人の騎士が声を掛ける。
「待て、お前達は何だ。此処がどこか分かってるんだろうな。子供を寄り付かせていい場所じゃないんだが」
これ以上は行かせまいとする騎士の言葉に憮然とした少女が紫の瞳を不愉快そうに細め、一番年上だと思われる女に声を掛けた。
「姉様、私じゃ話が通じないと思うから……対応お願いしていい?」
「――ふ、任された。紫廉は下がってなさい、こういった時に出るのが姉の役目だろ」
姉妹に見える三人の女と、後ろに控えている男はそれでも本陣に近付く。
一番年上らしい女は、濃紺ともいえる暗い髪の色をしている。長い髪を纏めて結い上げた、淑女然とした姿。身に付けているのはこの場所を何処だと思っているのか、アルセンでは見慣れないような寛衣型の衣服だった。きっちりと首元まで隠す薄紫の衣服は、腰元の帯で留める形。裾は広がらないもののように見え、実際その女は着崩したりしていない。
今は何事も言葉を発しない別の女は、他の女二人の中間程の妙齢の外見をしている。一番年上の女と同じ形でありながら緑に染められた衣服を着ており、更にその上から申し訳程度の皮鎧をつけているが、何の意味があるのかその背は鎧が大きく開かれている。前髪は後ろ髪と同じく腰まで長さまで伸ばした黒髪だ。それらを纏めて首筋で結んだだけで上げてはいない長い髪が、時折風に靡く。
少女の外見をしている女は、結んだ髪の長さも背中に届く程度。同じ形ではあるが戦場では悪目立ちしそうな紫の衣服に皮鎧で身を包んだ姿は幼く、騎士に憧れを持つ少女が姿形だけ真似ているようにしか見えない。
後ろで控える男は顔に入れ墨でもしているのか――そう誰もが思った。顔を縦半分に割った左側に、緑色の菊のような文様が入っているのだから。この男も若く、少女と年は変わらないだろう。体を包んでいるのは髪の色と同じ深い黒。腰の線までもはっきりと出ているそれを身に纏い、三人の後ろに立っている。
応対した騎士は、姉と呼ばれた女の声に聞き覚えがあるような気がして狼狽えた。そんな。いやでも、まさか。沸いた疑念を振り解けずにいると、女が口を開く。
「此処はアルセン軍本陣と見受けたが、違うか? ……劣勢とは聞いていたが、我等アルセンの地を薄汚い帝国の下郎共に踏ませるなどと国の誉れが聞いて呆れる。我等が本陣に寄る事を許さぬと言うのならば『鳥』隊長を引っ立てて来い。この醜悪な戦線について責を問おう」
その言葉で、騎士の疑念が確信に変わったようだ。
いつもは顔から垂らしている濃紺の薄布が無いから一目見ただけでは分からなかった。
年齢を感じさせない素顔を晒したその女こそ、この国の現王妃ミリアルテアだ。
「確認が必要ならばヴァリン……アールヴァリンを呼べ。まさか私が名を名乗らぬと誰だか分からぬ愚物ではあるまいて? もしそうだった場合、貴様の進退を考えねばならぬなぁ」
粘ついた嫌味が騎士の耳に届いた時、彼は挨拶も無く本陣に向けて駆け出してしまった。
本当にカリオンを呼んでくるつもりなのだろうか。王妃にとっては、もうどうでもいい話だ。
騎士が駆けていった方向に、天幕があると踏んだ王妃は騎士の遠ざかる背中を追って進んでいく。それに倣い、他の面々も付いて歩いた。
大天幕が見える前に、王妃の目に走って来る人影が二つ走って向かってくる。それが見知った顔だったので、四人はその場で足を止めた。
「王妃殿下!!」
見慣れた濃紺の髪の男と、落ち着きのない癖毛の黒髪の男。
なんとまあ、汚れた姿になったもので。隊服さえ汚して、みっともない。
王妃の親しみが籠る嘲りは口に上る事はなかった。
「ヴァリン、カリオン。よくも恥ずかしげもなく我が前に出る事が出来たものだな? フュンフより報を聞いて、何の冗談かと思ったぞ」
「っ……申し開きのしようがございません」
「義母上、何故……どうして、こちらへ」
「ああ、痛々しいなヴァリン。何も言わずとも良い。よく王家の一員として戦線に残った。その気骨を陛下も称えておったよ。……して、他の隊長格は何処へ居る? 私の目の前で懺悔する気概も無いのか」
「っ………」
「あの小煩い『花』も、可愛げがない『月』も居らぬな? まさかあの者達に限って戦死などしておるわけではあるまい? そうであったなら私が引っ叩いででも死の淵から蘇らせてやろうものを。っふふ」
王妃のそれは姿を見せない不敬について、王妃なりの軽口のつもりだった。肩を揺らして笑うが、その場にいる誰も笑わない。
それどころか、カリオンとアールヴァリンの表情が暗く沈んでしまっていた。その表情が意味する所に王妃も気付かない程愚鈍ではない。
「……。………なぁ、カリオン。ヴァリン。息災であろう? あの二人は、否、『花』は」
「………」
「答えぬか。……黙っているだけでは、分からぬぞ? あの者共がどうにかなるような輩ではあるまい? ………なぁ、二人とも……?」
アールヴァリンは口を開けなかった。噛みしめた震える唇から、血が滲みだす。彼女がいないことで、ソルビットがどうなったか――まだ王妃は知らないのだ。恐らくは入れ違いになったのだろう。目を覆いたくなるような彼女の姿を見れば、如何な王妃でもこんな軽口は叩かない。
カリオンは短く息を吸った。どう答えるべきか分からない。けれど、黙ったままでもいられない。
「王妃殿下」
カリオンの脳裏には『月』と『花』の隊長の姿が浮かんでいる。
『月』隊長ディルはまだ生きている。それが、唯一の救いかも知れない。でも、この場に出て来るなんて無理だろう。少なくとも、今はそっとしておくしか方法が無かった。
彼の中の大事な部品が失われてしまったのだ。彼は、壊れてしまっている。
「『花』隊長は――」
「ねえ、緑蘭姉様。私ね、あの人……マスターだけはそこらの人とは違って見えていたの」
ぽつりと呟いたのは紫廉だ。マスター、という呼称が誰を指しているかその場に居る者は知っている。
『花』隊長、生死不明。状況を確認したが、出血量を鑑みるに恐らく殉死。
その報告を受けて、四人は前線となり得る地に居た。
視線の先のずっと向こうには敵の本陣がある筈だ。受けた報告の中で、そこにプロフェス・ヒュムネも居る事を聞いていた。
帝国の残存兵力がどれほどのものか、四人は聞いていたがもうどうでも良かった。
王妃は放心したように遠くを見つめ続けている。
「マスターはずっと旦那さんの事を褒めてて、好きだってずっと私達にも惚気て聞かせて。あそこまで何も出来ない仏頂面のどこがいいんだろうって思ってたけど、本当に――ディルさんの事が好きだったのね。それで死ぬなんて、馬鹿だったんじゃないかしら」
「馬鹿、だったんだよ」
緑蘭は知っている。妹が『馬鹿』と言葉を向ける相手には、いつも親愛の情があるのだということを。
「でなければ、こんな結末なんて選ばなかっただろうね。……紫廉、それでもお前はあの人を気に入ってたんだろう?」
「……ちょっとだけよ。ほんのちょっと。でも、話してて楽しかったなぁ。酒場の仕事は大変だったけどマスターは優しかったし、酒場自体も……最初はなんで私がこんなこと、って思ってたけど、慣れたら面白くなった。……そっか、私、思ってたよりもマスターのこと気に入ってたんだなぁ。嫌だなぁ、マスターもういないなんて、そんなの、つまらないじゃない」
少女の言葉は、自分の感情のことなのにどこか他人事。けれど喪失感が滲んだか細い声が、姉妹の耳に届く。
「だって、そしたら、どうして、私達、エイスさんを」
王妃ミリアルテアは、妹二人が話している事に口を挟めなかった。
気に入っていたのはミリアルテアだって同じだ。だから、王妃の立場を濫用してでもディルから彼女を引き剥がし、城仕えに引き留めようとした。
ひとりの男を想って、けれど積極的になることも出来なかった奥手で生真面目な女。王妃ミリアルテアは彼女に、かつての自分を重ねて見ていた。彼女と違ったのは、王妃が愛する者の元から自ら去った経験があることだ。
「……ああ、もう。憎いなぁ。憎いよねぇ。私達の祖国だけじゃなくて、マスターまで取っていったのよ。アルセンも帝国も、どっちも滅んでしまえばいいのに。信じらんない。異種族の力を借りないと戦争にも勝てない下劣な奴らなのに、どうしてファルビィティスは――祖国は滅ぼされてしまったの?」
「………考えても、詮無い事ですよ。マゼンタ様、どうか……気を付けてください。今から相手にするのは下劣とはいえ、戦う力を持った者共です」
「分かってる。ロベリアこそ気をつけて。貴方、私より弱いんだもの」
ロベリアと呼ばれた男はマゼンタという名前を紫廉に向かって呼んだ。それはここ一年と少し前から、『花』隊長の所有する酒場で働くことになった少女の名前だ。
本名で生きにくい存在が市井で暮らす時に仮の名を付けることがある。マゼンタの名はそれだった。
自分が滅んだ国の生き残りだと、知られないための。
「紫廉。緑蘭。準備は出来ているな?」
「はい、姉様」
「出来てるよ、姉様」
「重畳、重畳」
マゼンタは紫廉として。
オルキデは緑蘭として。
ミリアルテアは、誰も呼ばない名を自らも口にしないまま。
三姉妹とひとりは、かつての屈辱を晴らすように戦場に立つ。
「良いか三人とも。同族であれば可能な限り仲間に引き入れよ。奴隷獣人など放っておけばどうせ死ぬから捨て置いても構わん。ダークエルフも然り。ヒューマンは敵であれば殺せ。敵意がなくても殺せ。投降しても等しく殺せ。復讐に繋がる禍根を残すな、鏖殺だ」
冷酷な命令を聞き届けた三人は、三様の表情をしていた。
オルキデは沈痛な表情。マゼンタは笑顔。ロベリアは無表情。
「行くぞ――痴れ者共に制裁を。劣勢の我が国の愚図共に叱咤激励を。『花』隊長に、弔いを」
三姉妹の姿が変貌する。
王妃の腕の衣服を破り、その肌に現れるのは狂い咲き乱れる葵の花。
緑蘭の背の布地を散らし、そこから生える茎の長い緑色の蘭の花が天に伸びた。
紫廉の姿はまるで大樹だ。足だったものは樹の根となっている。太く長いそれが地を這う。
男の姿は変わらなかった。影だけを見れば普通のヒューマンと変わらない。手にした鈍銀色の紙札以外、武器になりそうなものはなかった。
姉妹の変貌後の姿は、醜悪な異形のようにも見え、凄絶な美しさを備えた存在のようにも見えるだろう。
三姉妹は殺すために、その体になった。
今から散るのは自分達ではない。帝国の者の命だ。
「ディルの居らぬ地獄はさみしかろう、『花』隊長? ……私はな、其方がどう思っておろうと其方を気に入っていたのだよ」
王妃の口から零れる声は、その場にいる者が聞き届けられる声量ではない。
「今、ディルの代わりに帝国の者共を大量に送り届けてやる。……有象無象の背を踏み付けてでも、……奈落の底から戻って来ぬか」
居ない者へと語るような口調は、誰にも聞き届けられず風に溶けて消えた。