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ファルミアの町を放棄して、ディルはカリオンに引きずられるようにして本陣へ戻った。
その日のうちに戦争に決着がつくことは無かったが、代わりに襲撃も無かった。
夕暮れから夜の帳が下り、絶望的な空気がアルセン軍の周囲を覆っている。目に見えて、誰も彼もが意気消沈していた。
ひとりとして、明るい話をしに口を開こうとしない。
「………」
ディルは一人で過ごす事を許された天幕で、彼女が指に嵌めていた指輪を握りしめ、片膝を抱いた状態で地に座っていた。
とても静かな夜だ。近くで火が焚かれている音もせず、人の気配もなく、暗い。
持って来られた夕食は、保存食の干し肉と乾燥野菜。申し訳程度の不味い茶も供されている。それに見向きもせずに、ディルは寝台の上をただ見ていた。
寝台の上には、『月』の魔法部隊が凍らせた『花』隊長の左腕が乗っていた。
凍らせた後に幾重にも布で巻いている。これは要職に就いている者が戦死した時にされる遺体の保存方法だった。その腕を凍らせるときに、隊の者が指輪を外して渡してきた。ディルにとって彼女の指に指輪があるのは当然の光景だったので、外して形見として取っておくという考えがそれまで無かった。
巻かれた布の色は赤。『花』隊の色だ。
腕だけになってしまった妻を、ディルは見ている事しか出来ない。胴から離されてしまって、随分小さな腕だったのだなと痛感する。
左手は彼女の利き手だった。何を持つのもこちらが優先された。その手を失って、今頃彼女は苦労していないか――。
――死んだんですよ。
脳裏に暁から言われた言葉が蘇って来て、ディルの心を苛む。
違う。彼女が自分を置いて死ぬ筈が無い。永遠を誓ったのだ、ずっと側に居ると言ったのだ。
今でも妻を愛している。
離れる未来など、有り得てはいけない。
――あの方は貴方のせいで死んだんですよ。
「っ……!!」
実際に今聞こえている訳でもないのに、ディルが耳を塞いで顔を伏せた。その弾みで、握り締めていた指輪が地に落ちて転がる。
聞きたくない。思い出したくない。悪い夢ならばどうか醒めて欲しい。
こんなに視界が不明瞭なのは、きっと夢の中にいるからだ。目が覚めれば、絶対に、妻は隣でまだ寝ている筈。
こんな小さな塊だけになって、二人の誓った永遠が終わったなんて認めたくない。
早く起こして。誰でもいい。こんな悪夢など、醒めたら二度と見たくないから。
それなのに胸から全身にかけて這い回る苦悩に悶えるディルを、誰も助けてくれない。
まだ、愛していると言えていない。
「何故、我から……、……離れた……。」
認められない。
ディルは今でも妻を愛している。自覚した日を覚えていれど、いつからなんて覚えていない。
結婚式の時より前から愛していた。
交際していた時も、きっと愛していた。
初めて戦場で出逢った日、何故あんなに鮮明に覚えているのか疑問だったけれど、その時既に好意を持っていたのかも知れない。
あの出逢いから始まっていたのか。ディルは涙に歪む視界で、何かに妻の面影を探そうと必死に周囲を見渡した。
姿。
形。
声。
笑顔。
そんなもの、彼女が居ない今何処にも無い。
「――……」
笑顔。
手繰っていく記憶、その中にしか無い彼女の笑顔を、唐突に思い出した。
しかし今思い出されたそれは、妻になるよりも、交際する前よりも、ずっと前の笑顔だ。
遠い昔。
ディルが、孤児院の神父の屋敷に監禁されていた時の窓の外。
運命が変わるきっかけになった、窓の外に見た二人連れ。
金の髪の男と、石畳色の髪の子供。
今まで忘れていたような些細な記憶だ。数秒しか見ていない筈の、けれど今更蘇る記憶。
ディルとは遠い場所に居た、彼らだけで完成されていた光景で笑顔を浮かべた、自分より年上のような女の子。彼女の笑顔で、ディルの世界は変わった。
――あれは、妻ではなかったか。
今となっては確認することも出来ない。
こんな昔の記憶を海底のような場所から浚っても、残るのは苦痛と後悔だけなのに。
あの日、ディルの運命を決定づけた光景の主役がもし本当に彼女だったのなら。
ディルが『ディル』として生きているその大部分を、彼女が齎したというのに。
彼女は死という形で永遠を一人で完成させ、そして離れていった。
残されたディルは、彼女が完成させた『二人の永遠』を、喪失感を抱いたまま覚えてなければならない。
忘れられるならどれほどいいだろう。
ディルの頬が再び涙で濡れる。
希望を抱いてもいつか失われるのなら、そんなもの二度と欲しくない。
絶望なんて、尚更いらない。
ただ彼女が側に居てくれるだけで良かった。愛していると、その声でこの先何度でも言ってくれると信じていた。
忘れたい。
忘れたい。
――忘れられない。
ディルの口から嘆息が漏れて、忘れられないならどうすればいいのかを考えた。
例えこの先記憶から何かが抜け落ちることがあったとしても、全てを綺麗に忘れ切れる訳がない。残された腕さえ弔えば、本当に何も残らない愛になってしまう。
弔ってしまえば、彼女の死を受け入れることになる。
ディルの思考が、その言葉で埋め尽くされるのにさして時間は掛からない。
もうこれ以上、永遠に、離れたくない。
離れられる訳も無い。彼女だってそれを望んでいた。
自分が在る限り、永遠に側に居たい。
それはディルの願いでもあった。
――『今よりも少しだけでいい』だなんて。それ、絶対後から後悔します。絶対に足りなくなるんです。
かつてソルビットに言われた口頭の呪い。
その呪いを受けて間もなく、本当にその通りになった。
――その『恋人』がな、お前を行かせたくなくてわざわざ会議に噛みついてんだよ。
エンダの心配が、杞憂で終わってくれたなら良かったのに。
もしあの時に自分以外の者の心を思う想像力があったなら、こうはならなかっただろう。
――騎士じゃなくなったアタシは、貴方に全部捧げたい。
今の妻は何なのだろうか。残された腕は『騎士』のままなのか。
どうか、腕だけになっても離れて行こうとはしないで欲しい。
見据えた寝台に妻の笑顔を幻視する。彼女が今のディルの有様を見ることが出来るなら、きっとその笑顔は掻き消えてしまうだろうけれど。
ディルの足が意識の外で勝手に立ち上がる。
ふらりと体を揺らしながら、左腕だけが横たわる寝台へと近づいた。
その頃の大天幕では、手の空いている隊長格が揃っていた。とはいえ、特に話が交わされることもない。
カリオンは椅子も無い天幕の中の机に凭れ掛かって、悲哀に苛まれて痛む頭を抱えている。
エンダも地面に腰を下ろしたまま、柱に体重を預けて仮眠を取っている振りをしていた。けれどこんな状態で眠れる訳が無い。
アールヴァリンはその場に居なかった。想い人であるソルビットが辛うじて応急処置を受けて城下に向けて搬送されたが、到着までに息絶えてもおかしい状態ではなかったのだ。少し抜ける、とだけ言い残すと、彼は人気のない場所を選んで身を休めに行ってしまった。
ベルベグは残って雑務をしていた。しかし戦場の雑務となると、今更戦況を覆すようなものでもなくて。気もそぞろに各地からの報告が書きつけられている書状を手に、何度目とも知れぬ溜息を吐く。
「……どうして……。あの人は、誰かが死ぬことの重さを知っていた筈でしょう……」
カリオンが呻くように漏らした声に、誰も返事をしない。
『花』の隊長である、ネリッタという名だった男は先代も戦場で死亡している。そんな彼を慕っていて、副隊長として死を悼んだのがディルの妻だった筈だ。彼の死が国に何を齎したか知っていたのに。
けれど彼女の死は、先代の時以上に暗い影を落とす予感を感じさせた。
ネリッタの穴を埋めるがごとく尽力していたのが彼女だ。今ではあれだけ部下に慕われて、皆を引っ張っていった背中を皆が追いかけた。そして、そんな彼女を『月』隊長も愛した。
カリオンだってエンダだって、彼女が本当に死んだなんてまだ信じられていない。
「……あいつ、本当に……死んだのか。死んでないのかも知れない。まだ、左腕を失ってもどこかで生きられているかも。隻腕でも生きてる奴、いない訳じゃないだろ」
まだ左腕以外が見つかっていないのだ。もしかしたら、などという希望が生まれるのも当然の事で。
しかしその希望が更なる絶望を呼ばないよう、ベルベグは言いにくそうに、現実を伝える。
「……ファルミアを染めたあの血霧が本当に『花』隊長のものでしたなら、あまりに量が多すぎる……。恐らくは、もう」
「……」
深く検証が出来た訳ではないが、『月』隊の魔法部隊が町に漂う魔力の残滓を感じ取っていた。薄化粧程とはいえ、町中を染めるほどの量の血が体から失われていれば、それは致死量に等しい。
生きていると希望を持つことと、死んでいると諦めることと。どちらを取るか、答えは出ない。
士気に関わる問題だった。けれどソルビットの戦闘不能は知れ渡ってしまっている。『花』隊長だって行方不明のままでは動揺が広がるばかりだ。
フュンフがいれば喚問も出来たものを、彼はもう周辺にはいない。城下に向かって走らせる彼の馬は、副隊長が乗っているだけの事もあって足が速かった。
「……ディル、一人にしろって言ってたけどな……大丈夫だろうか。あいつが一番辛いだろうし」
「確かに……心配だね。エンダ、見て来てくれるかい?」
「俺が?」
「私が行っても……彼に掛ける言葉が、見つからないんだ。正直、私だって……まだ、混乱している。お願いだ、少しだけでいい……様子を見に行ってくれ」
騎士団の全権を掌握している騎士団長に腰低く頼まれれば、エンダだって断り切れなかった。
俺だって、混乱してるのは一緒なんだぞ。
その言葉こそ出さなかったが、不機嫌に歪んだ表情で言いたい事は伝わったと思う。カリオンも「助かるよ」とだけ言葉を漏らして、再び俯いてしまった。
大天幕を出たエンダは空を見上げる。
晴れている。満点の星が見える。月は出ていない。それとも新月か。
言われるままにディルが居る筈の天幕に歩いて向かう。所々で夜の見張りの為に待機している騎士達の姿も見えたが、皆一様に俯いていた。
アルセン軍を覆うのは、絶望だ。
『花』を率いていた二人のうち、少なくとも副隊長は、もう戦線に立つことも出来なくなるのだから。もし隊長が生きていたとしても、片腕が無ければ騎士として勤めることも無理だろう。
「ディル」
そしてエンダはディルの天幕に辿り着いた。中の陰気臭さが外からでも分かる程に静まり返っている。
こんな状況でなくても普段から鼻歌さえ歌えない男だから、それに関しては仕方ない。エンダだって、同じ立場になったら気楽ではいられないだろう。
「調子、どうだ? ……メシは食えたか。少しでも食わないと、明日からまた大変だろうし体がもたないぞ」
声を掛けるが、反応はない。
生きてはいるらしく、何か僅かな物音が聞こえる。
「ちょっと邪魔するよ。……折角だし、何かあいつの思い出話でもしないか」
エンダは、その時中で何が起こっているかを深く考えずに天幕の入口を開けた。僅かな星明りが、天幕の中に差し込む。
暗いその中は、異様な空気に包まれていた。
持って来させた食事が、手つかずのまま残っていた。
ディルは入口に背を見せたまま、体を寝台に向けて膝をついている。
僅かな量の吐瀉物が、彼の膝下近くに広がっていた。
「――ディル」
咀嚼音が聞こえる。
「お前、まさか」
そうして呆然と問い掛けるエンダに、ディルが振り返り顔を向ける。
ディルの唇から下は、変色した赤褐色で斑に染まっていた。
細かい氷を噛み砕くような、半解凍の冷凍物を磨り潰すような音がディルの口から聞こえる。
エンダが、震えを抑えきれない声で問いの続きを紡ぎ出す。けれどもう、問わなくても答えは分かっていた。
「まさか――食ってるのか」
心の底から愛したものを。
もう側に居ないものを。
いつぞやにエンダ達に言われた軽口を実行するかのように。
「あいつの、」
妻が遺した、つめたい欠片を。
永遠に、離れられないようにする為に。




