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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.5 花鳥風月 下 散華し唯一世界
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 まだ妻と交際もしていなかった頃のことを覚えている。


 彼女は隊長職を与る前、ディルと他愛ない話で時間を潰したことがある。

 その頃からふとした時に彼女が頬を染める時もあったが、その時のディルは特に気にも留めなかった。


 彼女が隊長職を与ってからは、何故か急によそよそしくなった。

 最早無駄話にも興じるつもりがないのかと思っていたが、ディルは後からその過ぎ去った時間が『嬉しい』だったのだと知る。


 彼女と交際するようになる直前の事も覚えている。


 王子殿下の誕生祝いで纏っていた衣装(ドレス)はとても美しかった。その姿でアールヴァリンの隣に並ぶのかと思うと、言い表せない嫉妬の渦に飲み込まれそうになった。


 彼女から好きだと言われて、自分への失意に押し潰されそうになった。

 けれど直向きに想いを告げてくれたことが『幸せ』だった。やっと見ることが出来た、彼女が浮かべる満面の笑顔に眩暈がするほどの充足感を覚えた。


 交際し始めた時の事も忘れられない。


 彼女が作ってくれた昼食は『美味しい』。

 彼女が作る料理は何でも口に合ってしまって、残さず食べると嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。


 清廉な彼女を穢すのを躊躇った。

 ずっと前から触れたかったのに、欲で汚してしまう事を避けていた。


 結婚して一年が経った。


 彼女が側に居て、同じ家に帰り、同じ寝床で寄り添って寝起きする時の多幸感を例える言葉をディルは知らない。

 彼女の唇がディルに向かって愛していると告げる度に、何度も幸せを嚙みしめた。


 彼女に愛されるのも、躰に触れるのも、自分ひとりである事実に優越感を覚えていた。

 ディルにとっては世界で一番美しく愛らしい、ディルの恋焦がれる妻。

 彼女が、ディルに感情を与えた。人形と蔑まれていたディルに心を吹き込んだ。

 春も、夏も、秋も、冬も。永遠を誓い、巡る季節が一周して、これからも二人が重ねていく年月は変わらないのだと信じた。


 その世界が。

 永遠が。

 崩れ去る。




 ディルがファルミアへと向かう間に、赤霞に煙る一帯の霧は薄まっていく。馬に乗って駆けるディルの額には、風が吹きつけているというのに汗が滲んでいた。

 薄まった中に見えるのは、赤茶色に変色した瓦礫の山の町。赤色がそのまま降り注いでしまったようだった。

 近付けば近づくほど、暴力的なほどの血腥さを鼻腔が感じ取ってしまう。まるで、ディルが瞳に捉えた赤色の霧がすべて血液から出来ていたかのように。そしてその赤色は、残らず瓦礫に降り立った。

 瓦礫の上で馬を走らせる気にはなれない。町へと到着すると馬を乗り捨て、ディルは自分の足で瓦礫の上を進もうとする。一瞬、その足が縺れそうになって驚いた。ディルの動揺は足から訪れていたのだ。


 敵の気配も消えていた。プロフェス・ヒュムネの大多数がこちらへ向かっていると聞いていたのだが、ディルが到着する頃には生き残りは撤退していったようだ。

 大多数、が三十名の中の割合でいうとどのくらいなのか分からない。しかし瓦礫の中で点々と、プロフェス・ヒュムネと思しき者達の死体が転がっている。

 襤褸を纏い、所々晒された肌には点々と、或いは広範囲に及ぶ緑色。その緑は葉緑斑と呼ばれ、種族がプロフェス・ヒュムネであることを示す特徴でもあった。そして肌には直接生えるように葉や花、あるものは蔦や根が伸びている。これが、単独で戦闘出来る彼らの能力だ。

 ひとり、ふたり、さんにん。

 死体の数を五と数える頃に、ディルはファルミアの広場だった場所へと辿り着く。


「――!!」


 最初に目に入ったのは、プロフェス・ヒュムネ二人の死体の側に転がる『なにか』だった。

 それには両の膝付近から先の足が無い。助けを求めるように地に伸ばされた手の先に指が疎らに途切れている。

 頭部と思われる血だらけの球体には、波打つような茶色の髪が生えていた。元は邪魔にならないように、と纏められていた筈だが、留め具さえも何処かへ行ってしまっていた。

 着ている隊服は大部分が茶色だ。それは、流れた血に染まり変色してしまっているのだと分かる。


「ソルビット!!」


 ディルの口から、その名が出た。

 名を呼ばれたその『なにか』は、己の名前を聞いて残っている指先をぴくりと反応させる。

 赤黒くなった血溜りに沈みながら、ソルビットが息を漏らす。首も動かず向けられない顔をディルが見て、言葉を失った。

 開かれた瞼の奥に、有る筈の眼球が無かった。

 美しいと褒めそやされ『宝石』との二つ名を戴いた彼女の顔は、直視できない程痛々しく崩れ去っている。

 まるで、柘榴のようだ。外皮が割れた中に赤い果肉を晒す果実のように、彼女の顔は痛々しく中身を晒す。


「ソル、ビット」

「……ぁ、……あ……」


 辛うじて息はある。しかし、このままでは永くは保たないだろう。

 ソルビットは、浅い息を繰り返しながら、指を僅かに逸らした。動かない腕で、それでも必死で十に足りない指を一方向へ向けようとしている。 

 ディルは直感で、それが何を表しているか悟った。『花』隊長の居場所だ。もしくは、そちらへ彼女が向かったという合図。


「……ぃ、ちょ……っあ、っち」


 瀕死の姿で、それでもディルに彼女の居場所を伝えようとしている。

 ソルビットの介抱か。

 それとも妻の捜索か。

 どちらかの選択を迫られたディルは足を止めてしまった。

 妻の身よりも優先したいものはディルには無い。けれど、大天幕でソルビットの名を呼びながら喚いていたアールヴァリンの気持ちだって、痛い程分かる。

 ディルだって、愛する者の生死が分からぬ状態では生きた心地がしない。

 けれどソルビットは、この傷では放置してしまえばすぐに息絶えてしまうかも知れない。そうなれば、アールヴァリンの絶望は如何程のものになるか。


「ソルビット、傷を圧迫する。今は止血のみしか出来ぬ。痛いだろうが、耐えろ」


 ディルが優先したのはソルビットの命だった。

 足の関節さえ無くしてしまっては、ディルのように義足で歩く事も難しくなってしまうだろう。それは生きて帰る事が出来れば、の話だが。

 破れた下衣の中に肉と骨の断裂面が見える。そこより上部を、ディルは自分の服を引き裂いて止血帯を作って強く結ぶ。ぎ、と、既に叫ぶことも出来ぬまま痛みを堪える声を漏らした彼女はそのまま気を失ってしまった。

 服の中の傷を確認しようとして、次は隊服に手を掛ける。しかし、それは未達で終わる。確認したところで、胴の負傷に関する応急処置の方法などディルは知らないからだ。

 せめて、とばかりに手の止血に取り掛かった。指の一本一本を縛っている時間などディルにはない。荒く手首を結び、救援が駆け付けるのを願うしか。


「ディル!! ソルビ、――」


 そして両方の手首をそれぞれ縛り上げた頃、エンダの声が聞こえた。


「……ぅあ、……そ、る……びっと」


 エンダが喉を詰まらせる。無残な姿になった彼女でも、彼には誰か判別がついてしまったようだ。

 二人はかつては同じように『風』に所属していた仲間だった。自身の命令を聞き届けて戦死した部下の死を悼むことが出来ても、気を許した戦友の瀕死を受け入れるのは難しいのだろう。

 こうして、ディルが妻の身を案じて焦っているのと同じように。


「エンダ、後は任せる。担架を用意させよ、服の中の傷までは確認しておらぬ。丁重に運んで処置せよ」

「………」

「エンダ!!」


 放心している様子に声を荒げると、エンダは体を震わせて反応した。それから部下を呼ぶために踵を返す。

 これで、一時の安心は手に入る。誰かにソルビットを託すことで、ディルは妻を探しに迎えるから。

 ソルビットが曖昧に示した方角へ向かって進める足が、次第に速くなる。

 瓦礫の山を駆け抜けるように、ディルは赤茶に染まった町中を走った。


 彼女の笑顔を今すぐに見たい。

 彼女が名を呼ぶ声を聞きたい。

 けれどその身が無事であれば、それだけでいい。


 駆けても妻の姿はない。

 焦りと不安でディルの胸が締め付けられる。

 ディルはもう、彼女の存在なしにヒトとして生きてはいけないのに。


 息が切れる頃、ディルは失速した。


 そして瓦礫の山の上、まるでディルを待っていたかのように、それが何かを判別しやすい場所に腕が見えた。


 引きちぎられたような断面を晒している腕だけだった。


「――……あ」


 それは腕飾りに見覚えのある、『花』隊長としての隊服の袖を纏っている。

 白い肌が血の気を失い、更に青白くなっている。

 親指の位置から見るに、左腕だ。

 その薬指に、とても見覚えのある指輪が嵌められている。


「………ぁ、……あ」


 きめ細やかな肌も。

 小さな爪の形も。

 細い指先も。

 折れそうな手首も。

 その全てをディルは知っているのに、目の前にしても理解出来なかった。


「――    」


 名を呼んだ。

 腕は返事をしない。


「    」


 周囲を見渡した。

 生きている者は誰もいない。

 見慣れた隊服を着た死体すらない。


「っあ」


 血腥い町で。

 薄く赤茶に染まった光景で。

 ディルは、残された腕に歩み寄る事しか出来なかった。


「    」


 名を呼んだ。

 返事がない。

 ディルに向ける甘ったるい声が聞こえない。


「    」


 名を呼んでも、誰も返事を寄越さない。

 身を屈めようとしたら、意に反して膝から崩れ落ちた。

 腕に触れた。

 もう、かつて愛したぬくもりは消え失せている。


「何故」


 本隊と合流したと聞いた。

 だからファルミアを離れたのだ。

 顔が見たくて、声が聞きたくて、だから妻が自分を待っているであろう場所に身を引いた。

 プロフェス・ヒュムネと全力で戦うには、今の状態では心許ないとも判断したから。


 ――汝が残っていると知っていたなら、この命に代えても守り抜いたものを。


「何故だ」


 声が震えた。

 今まで感じた事のない程の苦しさが胸を襲う。

 腕を持ち上げてみた。もう、血は殆ど滴らない。

 腕を失くしたとしても、まだ生きているかもしれない。冷たい腕を胸に抱きかかえて、周囲に再び視線を巡らせた。


「ディル!!」


 声以上に体が震え始めるディルに、男の声が掛かる。視線を向けると、カリオンがこの場にまで来ていた。

 聞きたいのはこんな声じゃない。もっと甘やかで、高い音で、酒に焼けて少し掠れている声。ディルの為に存在している筈の女の声。

 腕を抱いて、その場に立ち上がろうとする。けれど膝が言う事を聞かず、体の向きを変えるだけで精一杯だ。自分の体なのに、不思議な現象だと頭のどこかでは冷静に考えていた。


「良かった、ディル。此処にいたんだね。『花』隊長は見つかったかい? こちらも人手を割いて探しているけれど、一時退却したプロフェス・ヒュムネがまた戻って来ているそうで」

「……り、……か、りおん、……妻、が……我が、妻が」

「――」


 ディルは赤子を抱えるようにして、妻のものと思わしき腕をカリオンへ見せた。

 カリオンさえ言葉を失った。彼だって、この隊服の欠片には見覚えがあるのだから。

 違う、と思いたいディルと、妻に他ならない、と確信するディルが心の中でせめぎ合う。

 決着のつかない思考では何も理解出来ていない。なのに、ディルの視界が突然歪んだ。


「――妻が、居らぬのだ」


 歪みは収まることがない。ディルの頬に、雫が流れ落ちる。

 ディルの見開かれた両の瞳から、涙が零れ出した。幾筋も頬を辿る雫が、頬から顎を通って地を濡らす。


「……ディル、撤退しよう」

「あの者が見つからぬ」

「本陣に戻らないと、このままじゃ危険だ」

「まだ! 我が妻の姿が見当たらないのだ!! あの者を残して、我は退けぬ!!」

「ディル!!」


 今度はディルが怒鳴られる側になった。けれどディルはエンダと違い、その場に膝を付いて嗚咽を漏らすだけ。

 何故。

 どうして。

 妻が、いない。


「――あいして、いるのだ」


 ずっと言えなかった言葉を聞かないまま、何故姿を見せない。

 どうして、そばにいない。


「あのものが、いないせかいで――いきては、いけぬ」


 聞きたかったなら、聞けるまで待っていて欲しかった。

 いつか言うつもりだった。そのいつかを先送りにしていたのはディルなのに。

 花の蕾を綻ばせるような満開の笑顔が好きだった。愛おしそうに名を呼ぶ声が好きだった。

 その存在全てを愛していた。

 『愛』どころか怒りの感情以外が不明瞭だった男に、他の全てを与えたのが彼女だ。

 喜びも悲しみも欲しいと思ったことは無い。なのに、彼女の存在と一緒に勝手についてきた。

 今更捨て去ることも出来ないのだろう。彼女がくれた温かな感情は、今になってディルに冷たく牙を剥く。


「ディル、……ディル。ごめん。ごめん、でも、私は……君まで、こんな戦場で死なせる訳には行かないんだ。ディル、行こう。私も後から一緒に彼女を探す。きっと大丈夫だ、彼女は、きっと生きているよ。君を置いて死ぬ訳がない。そうだろう? 」


 早口で宥めようとするカリオンだが、ディルは頭を下げて何度も横に振る。

 駄目だ。ここを離れる訳にいかない。

 もしかしたら彼女は自分の腕を探すかもしれない。いつも大事にしている指輪がここにあるのだ。肌身離さずつけてくれた婚姻の証を、彼女が失ったと気付いたら困ってしまうだろう。

 此処に居る。

 此処に居るから、早く来てくれ。

 どれだけ酷い傷を負っていてもいい、生きて側に居て欲しい。


「……あの者が、現れるまで、此処で、待つ」

「ディル……!」


 彼女が最後に与えてくれたものが、苦しみだなんて受け入れたくない。


「――いい加減にしてくださいませんか、隊長」


 ディルを責める声が耳に届いたのも、その時。

 涙に濡れる顔を上げ、ディルが向けた瞳に映ったのは、ディルの白銀の髪よりも尚白い色を持つ男の姿。

 いつも細められている瞳が、この時も開いていた。嫌に濁った緑色が、ディルを見据える。

 ――暁だ。


「そこであの方を想って呻いているだけとか、隊長職はそんなに楽でいいんですかねぇ? あの方は貴方のせいで死んだんですよ。不甲斐ない夫の為に戦地に残って討ち死にとか、とんだ恋愛話もあったものですねぇ?」

「――しん、だ……?」

「死んだに決まってるじゃないですかねぇ……? ねぇ隊長、この町を覆った赤い霧は見てなかったとでも? 気付きませんか、この町を覆う魔力。――この変色した赤茶色、全部あの方の血ですよ。……あの方も混じりとはいえエルフですからね。そういった魔法を使えてもおかしくないんじゃないですか?」


 ディルは疎かカリオンまでもが息を呑んだ。

 遠目から見ただけでも分かる程町を濃く覆っていた赤色がすべて彼女の血だというのなら――死んでいてもおかしくはない。

 死んだ、という言葉がディルの頭の中を巡り出す。考えていた中で一番最悪の未来が、現実となって訪れてしまった。


「………っあ」

「……こんな無様な男の為に死ぬつもりだったなんて、本当に腹が立つ……!! なんでウチじゃ……俺じゃなかったんですか!? 俺だったらあの方をこんな形で死なせなかったのに! なにがあろうと絶対に守って、ずっと一緒に居て貰いたかったのにっ!! 俺以外の男を選ばれて、それで死なれたくなんて無かった!! 死なせるくらいだったら離れてあげればよかったのに!! 貴方の何倍も何十倍も、俺はあの方を生きて幸せにして差し上げられたのに!!」


 暁の言葉を、戯言だと切って捨てる事もディルには出来た筈だった。

 けれどその時のディルには、もうそんな気力も残っていなかった。

 どんな顔で暁が怒鳴り散らしているのかさえ、見ることが出来なかった。


「………っ」


 彼女は、本当に幸せだったのだろうか。

 不甲斐ない甲斐性なしの、愛のひとつも囁けない男の伴侶として側に居て、心から幸せだと言えていたのだろうか。

 もし、彼女が自分を選ばなければ。

 もし、自分が彼女を愛さなければ。


 もし、彼女にもっと早くに愛していると伝えてさえいれば。

 

 そうした世界の先では、彼女は生きていてくれたような気がしてならなかった。


「っあ………」


 ディルの涙は止まらない。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」



 その時ディルは人生で初めて、喉が潰れそうになるほどの慟哭を天に響かせた。

 この声を、妻は何処かで聞いただろうか。

 もし彼女が天に召されてから聞いたとしたら、この声を聞いて彼女はどう思っただろうか。


 それを知る術を、最早ディルは持ち得なかった。




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