129
ディルは崩れた町の中にいた。途中出くわした残党を片付けた折の返り血を頬に纏わせたままでいるが、少し顔に見える疲労以外は普段と大差ない。
「ディル隊長!!」
周囲の様子を伺っていると、耳に聞き馴染んだ声が届く。声が聞こえた方角を見ると、右腕である副隊長フュンフが血相を変えて走り寄ってきている所だった。
彼はフュンフを一瞥すると、その満身創痍振りに瞳を伏せる。服も体もぼろぼろだ。いつも落ち着きなく毛先が跳ねている癖毛の茶髪も、いつもより落ち着きがない。それで鳶色の瞳が僅かに逸らされたのだろうと、その時は思っていた。
「……此処だ」
フュンフは側まで寄ると、すぐさま跪く。
ディルに、今は顔を見られる訳には行かなかった。悟られてはいけない。せめて、彼を安全な場所に向かわせるまで、その瞳に動揺を気取られる訳には行かない。
片膝を地に付いて頭を下げるフュンフの脳内は、それで一杯だ。せめて彼が安全な場所に到着するまで。
「ディル隊長、こんな所にいらっしゃったのですか」
「ああ。……他の場所はどうなっている」
「隊長、お聞きください。……プロフェス・ヒュムネ、およそ三十名。敵陣より出撃した模様です」
「プロフェス・ヒュムネ……」
情報を伝えるフュンフの様子は、新手が出てきたことに動揺してのように見えた。
復唱した彼の唇が、躊躇いを以て引き結ばれたのをフュンフは見ていない。
エンダが言っていた『奥の手』というのはこの事だったのか。かつては国を興し、その独善的な性格とエルフの魔法に負けるとも劣らない戦闘力を誇った種族。身の半分が植物であり、王国の王妃もその種族だと本人が言っていた。
プロフェス・ヒュムネが出てきたとなれば戦場は更なる地獄を生み出すことになる。その予感が、ディルにひとつの問いを口走らせて。
「我が妻は、何処にいる」
フュンフの瞳が見開かれるが、伏せたままの顔ではそれを彼は見る事が出来ない。
「……『花』隊長でしたら、既に、本隊と合流し、今は」
「……そうか」
吐き出されたディルの声に僅かな安堵が感じ取れた。フュンフが口にしたそれが嘘だと知らず、彼は続ける。
「……あの者が無事だというのなら、これ以上の報告は無い」
フュンフは、まだ顔を上げる事が出来ない。
動悸が激しくなって胸が痛い。
「ならば、我等も撤退しよう。相手がプロフェス・ヒュムネともなれば、噂通りとするならば我等だけでは心許ない」
「……はっ」
「我も、疲れた。……、向こうに戻ったら暫く席を外す」
「隊長、理由をお伺いしても宜しいですか」
フュンフの額から、汗が流れ続ける。
暑くない。寒気ばかりが止まらない。
「……妻の顔を見に、な」
穏やかな声だった。恋い慕う相手を想っての言葉だ。
フュンフの血の気が戻らない。
「フュンフ、今より起こる戦闘はこの場での最終決戦となろう。余力を残すなど甘い事を言っていられぬ。全残存兵力を城より連れて来い。貴様の持てる全速力を以て、この戦争に終止符を打つとしよう」
「………」
フュンフは、返答さえ返すことが出来なかった。ただ立ち上がり、ディルに頭を下げて背を向ける。
ディルもその姿に違和感を覚えたが、ディルも実際それを指摘できない程度には疲れている。フュンフもただ疲れているだけなのだろうと、そう思っていた。
その場からの撤退は、思っていたよりも早く済んだ。
誰かが手を回していたのか、残党処理の後のファルミアにはアルセン軍は残っていなかった。ただ転がる死体だけが動けずに残っていて、そのどれもが、ディルの記憶に僅かに残るばかりだ。
何故、自分で確認もしないままフュンフの言葉をそのまま信じてしまったのか。
それだけフュンフを信頼していた、とも言えなくもない。
それよりももっと確実なものは。
妻は、何があってもディルの隣でこれからも生きて行くという未来を疑わなかったことだろう。
ディルが本陣に到着して、直ぐに目線は妻を探した。
『花』隊の者は実際聞いていた通り戻って来ていた。皆が皆疲労困憊と言った様相、損害も大きいようでこれからの戦いに耐えられるかは疑問が残る。足手纏いが増えるのは好ましくない、というのがディルの頭に最初に浮かんだことだったのだが。
大天幕が見えても、妻の姿は見当たらない。既に天幕の中に入っているのか、それとも別の場所で隊の調整に忙しいのか。そのどちらだろうかと思っていた。ディルの予想は半分外れて、中にも彼女の姿はない。
その場にいたのは、『鳥』隊長のカリオン、『風』副隊長のエンダとアールヴァリン。以上三名。
「……?」
その瞬間、ディルの中に再び違和感が訪れた。
フュンフが居ないのは分かる。自分が城に戻れと言ったのだ。
『鳥』副隊長のベルベグが居ないのも理解出来る。先程外で『鳥』の軍勢を纏めていた後ろ姿が見えていた。
『花』だけ、隊長も副隊長も居ない。副隊長のソルビットは、この本部側に布陣していた筈だ。隊長か副隊長のどちらかだけでも来ていると考えたのだが。
「ああ、ディル! 無事で良かったよ。怪我は無いかい、先に治療に向かわなくて大丈夫か?」
声を掛けてきたのは、アルセン国の全騎士の頂点に立つ『鳥』のカリオンだ。ファルミアでの激戦を聞いているのかディルを心配する眉根が下がっている。
凛々しい貴公子然とした姿を誰にでも見せる清廉な男だ。彼の実力を知らない下郎などは『鳥の巣頭』などと軽口を叩く時もあるが、陽光を思わせる爽やかな笑顔に隠した剣の腕はディルと同等。昔まだディルが魔剣部隊長以外の役職を持たない頃に、御前試合で試合ならぬ『殺し合い』をしたのがこのカリオンだった。
今では朗らかに、とまではいかずとも、付かず離れずの距離感を保てている筈だった。
「……問題無い。我の事など後回しで良かろう。現状はどうなっている」
「現状だね……。『鳥』はなんとか戦線保ててたかな。危険だったけど、『花』と『月』の後方支援あっての戦況だったよ。部隊、出してくれてありがとう」
「『風』は今のところ拮抗状態だな」
――違う。
今すぐ聞きたい話はそれではない。
「プロフェス・ヒュムネが出てきたって話を聞いた時は焦ったが、直ぐにファルミアにソルビットが馬を走らせてくれてな。そうそう、そのプロフェス・ヒュムネだが、大多数がなんでか今ファルミアに向かっているそうだ。ディル、お前何か仕掛けたか?」
「……いや」
「まあ、ディルは無事に戻って来てくれたんだから良しとしよう。……それよりディル」
カリオンの言葉に、ディルが凍り付く。
「『花』の二人も、こちらに向かっているんだろう?」
それは今まで聞いて来た言葉の中で、何よりも鋭利な音となってディルの鼓膜を貫いた。
「――……何、だと?」
「え、だって、ディルが戻ってきたということは二人も……一緒………なん、だろう……?」
カリオンも、ディルの様子の変化に顔色を変える。一瞬にして青褪めたカリオンは、反射的に天幕の外へと視線を向けた。
「フュンフは先にあの者達が戻っていると言っていた」
「そんな」
「どういう事だ――何故あの者が居らぬ!!」
本陣に、『花』の二人がいない。カリオンの言葉で理解出来た言葉に、ディルが天幕の外へ走り出そうとした。
しかし、呻くような声を聞いてディルが意識を絡め取られてしまった。
「――……あ……? ……ソル、いな……い……?」
振り返ると、喘ぐような切れ切れの声を紡ぎながら顔を真っ青にしたアールヴァリンが目に入る。
一歩踏み出した王子騎士の足さえ、膝から崩れ落ちそうに不安定なものだった。動き出そうとした彼の肩を、エンダが掴んで引き留める。
アールヴァリンが口にした愛称は、『花』副隊長ソルビットのものだ。異母兄であるフュンフも、彼女を同じ愛称で呼んでいる。
蒼白になった表情と、王子殿下が情を込めて呼ぶ愛称に、ディルもその心に今更気付く。
アールヴァリンの想う相手が、ソルビットであることに。
「アールヴァリン、駄目だ。俺が見て来るから、残ってろ」
「っあ。だ、が、ソルが。……ソルが、いない、って」
「アールヴァリっ……!?」
尚も足を踏み出そうとしたアールヴァリンを、肩を強く引くことで引き留めようとした。しかしそれが要因となり、アールヴァリンはエンダを強引に振り払う。
「ソルが! あいつがまだ来てないんだよ!! 止めるな! 離せ、邪魔するな殺すぞ!!」
「アールヴァリン! お前に何かあったら国はどうなる!! お前王子なんだぞ!!」
尚も天幕の外へと駆け出そうとするアールヴァリンを、今度はカリオンが抑え込んだ。
狼狽する肩を掴んで無理矢理羽交い絞めにする。それから地面に引き倒し、背中から体重を掛けて身動きを取れなくさせる。
「離せ!! ソルがっ……、ソルがまだファルミアにいるんだろ!? あいつに何かあったら、お前ら責任取れるのか!!」
「アールヴァリンっ……! 王子殿下!! 御身に何か起きたらいけません!! どうか落ち着いてください!!」
「煩い、俺に指図するなカリオンっ!! だったらお前がどうにかしてくれ、ソルを、あいつを無事に連れて来い!!」
尚も藻掻くアールヴァリンの体を、エンダも抑え込む手伝いをする。
泣き喚くアールヴァリンの声を背に、ディルは大天幕から駆け出した。
頭で理解するより先に、体が動いている。
そんな馬鹿な、と、頭の何処かではまだ冷静だった。
妻と永遠を誓ったのだ。どちらかが死ぬまで側に居ると。その時に先に命尽きるのはディルだと思っていた。
彼女からの愛を身に受けながら、これまでもこれからも共に並んで生きて行けるのだと何の疑いも抱かなかった。
死が二人を引き裂こうとも、否、引き裂いたとしても、ディルは永遠を違えるつもりは無くて。
「――あ」
大天幕を出た瞬間、一方に顔を向けるアルセン軍の者達の姿が見えた。ディルに気付かず、呆然とした様子で何かを見ている。
その先に何があるか、ディルは知っている。まだ『花』の二人が残っているであろうファルミアだった。
「―― 」
ディルの口が、勝手に妻の名を呟いた。
その場にいる者達と同様、ディルが視線を向けたその先で。
遠くに見えるファルミアの町が、血のように真っ赤な薄霧に覆われている光景を見た。
美しくも禍々しい、赤に染まる町から景色から目を離す事は出来ない。
祈るような気持ちで、ディルは妻の名を再び口にする。
名を呼ぶことで好転する事態ではないにしても、呼ぶ名前に縋らなければ立ち尽くしてしまうだけになってしまいそうだったから。