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ディルがその場で口内に溜まった血を吐き出した。飛び散った赤が染み込み、地を汚す。
十人との戦いは僅かな時間で終わった。全員と戦った訳ではない。間合いを詰める前に全力で投げた石、それに気を取られている間に駆け出して速力を保ったまま三人ほど討ち果たした。それを見た二人が逃げて行こうとして首輪が絞まり、そのまま絶命している。
剣を振るう度とはいかなかったが、ディルの規格外の素早さと剣捌きにダークエルフの隊列は散り散りに乱れ、また乱した者をディルは見逃さなかった。
戦場という場所では、ディルの方が上手だ。一瞬で間合いを詰めた後は敵の腹を破り、首を飛ばし、そうして残ったのはディルの靴の下にうつ伏せに敷かれたたった一人となる。
「っ、う、……あ、がっ」
「……残るは貴様のみだ。耳から切り落とされたくなくば、帝国の情報を言え。布陣でも兵站状況でも構わぬ、何か有益なものを漏らせば首は繋いだままにするのも吝かではない」
持ち上げた刃を、ディルは躊躇わずに地に突き刺した。残されたダークエルフの伸ばしていた煤けたような金色の髪が、刃の位置からばっさりと切られて風に散らばる。
簡単に口を割らないと分かっている。そもそも何も知らない可能性だってあった。こんな尋問紛いの事をしているのは、ディルがディルなりに軍の役に立とうとしたからで。
踏み付けられて藻掻くダークエルフは、苦しそうに呻いた。
「……『剥がされ』なければ、貴様ぐらい……殺せたのに」
「剥がされ……?」
それはディルが求めていた情報では無かったが、ダークエルフにとっては重要な事らしい声色がディルの鼓膜を擽った。
言葉の意味に思い至る節が無い。ディルは剣の切っ先を持ち上げて首に据えた。そして身を屈め、僅かな呟きすら漏らさないように顔を近付ける。長い白銀の髪が、ダークエルフの体に降り立った。
「……仔細を聞かせろ。剥がされた、とはどういう意味だ? 貴様等の魔法が粗末な事と関係があるのかえ?」
「そこまで、……分かってんのか。その粗末さで命拾いしたのは貴様等のほうだろうが……!!」
ディルの問いは的を得ているようだった。
つぷ、と音を立ててディルの剣先が、そこにある首輪を避けて首筋に僅かに刺さる。浮き出た血液は流れる程ではない。
「答えを得ねば、我は手を退けはせぬ。首が落ちても暫くは生きていると聞く、運が良ければ己の首の断面を見る事も叶うと思うが、どうか?」
「っ……」
ディルの足許で、男が蠢いた。地面を掻くと指の跡が付き、伸ばされた爪の間に砂が入る。
どれだけ地で足掻こうと、ディルから逃れられる訳がない。
「っあ、あい……つに、剥がされっ……せい、れ……けいやく、」
「契約を剥がす?」
ディルは魔法が使えない。ヒューマンという種族は精霊との契約が出来ないのだ。
契約というものが具体的に何を示すかも、ディルは知らない。何を以て契約とするのかも。
足下のダークエルフが使用した魔法は火だった。しかし、話に聞いていたよりももっと貧相な炎はディルの身を焼くに至らない。その結果がこの現状。
「答えよ、あいつとは誰だ。どうやって契約を剥がした? 帝国に居る者か、それとも貴様が奴隷へと身を窶すことになった原因か?」
「っ、て」
ダークエルフが口を割ろうとした瞬間。
「――!!」
ディルの目の前で血飛沫が飛び散った。
「っ……!」
戦闘放棄や逃走の意思が見られた時やそれまで首輪が徐々に絞まって絶命していた筈の奴隷部隊だ。ディルだってその光景は何度も見て来た。
なのにそのダークエルフに限っては、徐々に、などという速度ではない。ほんの僅かな瞬きの間に、ディルの眼前で首が落ちた。あまりの勢いに、跳ね飛んだ首は僅かに浮き上がってディルから離れるように転がっていく。
その形が最小になっているであろう地に落ちた首輪には、巻き込んだ肉片も付いている。ディルは乱雑に、自分の顔に付いた血を拭った。髪も濡れてしまったが、掻き上げるだけに留める。
「魔道具、というより」
その眼差しは、敵本陣があるであろう方向に向けられた。
「――呪い」
命あるものを死に至らしめる魔法はあれど、特定の条件下で遠隔から殺害するのは呪いとした方が正しい。ディルが首輪から漂う不浄な空気を感じ取った。それは気のせいかとも思ったが、神父としての教育を必要最低限しか受けていない身でさえ感じ取れてしまう程、それは『臭かった』。死臭とはまるで違う、熟れすぎて腐り落ちた果実のような。
この首輪を証拠品として持って行くことも考えたが、どういった呪いが付加されているか分かったものではない。ディルの身を害しないとも言い切れなくて、今はそのまま捨て置く。
この首輪が絞まる条件はもうひとつあった訳だ。
『敵に不利益を齎す情報を口にしようとすると即死する』。
大事な話は聞けなかったが、取っ掛かりは頭に入った。この件をどう考えるかは、他の隊長との話し合いで決まるだろう。
それより今は、目の前の敵を片付けるのが先だ。
片付けたと思った先から湧いてくる。ディルの視線の先には、送り出した部隊がどうなっているか確認する騎兵の斥候がこちらへ向かってくるのが見えた。
『なぁフュンフ、利害が一致するだろ』
ディルは知らない。
『そんな事をするまでもなく、あの方が負ける筈は』
『万全の体勢だったら、アタシだってそう思う。ディルが負ける訳ないって』
今の今まで、どんな感情で『花』隊長が、彼の妻が戦場に立っていたのか。
それはディルに対しての彼女も同じだけれど。
『フュンフ。お前さんに託すよ』
世界は変わる。
彼女が願った通りの、仄暗く歪な形に。
『アタシは、あの人がいないと生きてけない』
愛する人が生を繋ぐ世界が欲しいと。
ディルに生きていて欲しいと。
その為ならば、彼女は死をも厭わない。
『どうかあの人をお願いします』
妻が決心を告げるその声のか細さを、ディルは知らない。
最後にどんな顔でフュンフにそう言ったのかを、ディルは知らない。
ディルの知らない場所で、知らない声で、知らない顔で。
彼女は、自身の死を覚悟した。
戦場に立つ夫が、生き残ることができるのなら。
同じ騎士である妻として、これ以上の幸福は無いのだと。
ディルは何も知らない筈だった。
目の前にいる敵を鏖殺するのに全力だった。
それが愛しい妻の為になると信じた。
何度も何度も、小休止の度に愛する人の笑顔が浮かぶ。
今すぐにでも、彼女の声が聞きたい。笑顔を見たい。肌に触れたい。妻が帰陣を待っててくれるのなら、ディルは生きて帰れる気がしていた。望みも願いも期待も何もかもを無駄な事だと切って捨てた男が、人並みの感情を与えられたのは彼女がいたからだ。
二人が生きて城下に戻れたら、今度こそディルは彼女に想いを伝えるつもりだった。
もう一度、急かされて言った言葉ではなく、本心からの求婚の言葉を言ってもいいと思っていた。
そうすれば、彼女はきっと笑って頷いてくれる。もしかしたら、嬉しいと言って泣くかもしれないが。
甲斐性の無い伴侶だと分かっていた。けれど、妻を想う気持ちに偽りはない。今までと同じように何も出来なくても、努力はきっと出来る。
血飛沫に立ち尽くし、首を刎ね、屍の山を築いた数だけ、ディルが彼女を恋い慕う想いは強くなる。
新手の姿が見えなくなって、ディルは町の中にまた引き返す。今度は残党を片付けなければならない。妻はまさか倒されていないだろうとは思うが、彼女の姿を見ない事には安心は出来なかった。
ディルは何も知らないまま歩き出した。
地を踏み締める、その耳に。
ふと、硝子のような何かが割れる音が届いた。
それは工房のどれかで実際割れたのかも知れない。
似たような音を出す何かがこの町にあるのかも知れない。
音の発生源が何かを探る事もせず、ディルはその場を後にした。