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「――どうして」
彼女から溢れた問いは、至極当然のものだ。見開いた瞳にディルの姿が映り、彼女の視界全てがディルで埋まる。
「我が出来るのはそれだけだ。汝は『花』であるが故に、我はこの戦況にて生き残れる道を唯一提示する」
「……えぇ?」
その声が、先程の会議の時とは比べ物にならない程に震えている。
最初は呆然と聞いていた。次にディルの姿を映す瞳が揺らいだ。その揺らぎが怒りを湛えるのを、初めて間近で見た。
怒りに顔が染まろうとも、妻は変わらず美しい。細く白い両手の指先が、可憐な見た目とは裏腹に荒々しくディルの胸倉を力一杯掴み上げて離さない。
「どういうことだ!!」
怒りに任せて叫ぶ声は、ディルに想いを告げた囁きと同じ所から出た。
いつかは見る事になるだろうと思っていた、妻がディルに苛立ちを向ける顔。その顔を見るのが結婚して一年以上経ってからなんて、本当にこの女は懐が広い。
今までディルに苛立ちを感じたことくらいあるだろう。男としても夫としても不甲斐ない所も見せてしまった。けれどその度に、この女はいつも笑って、大丈夫だよ、と、愛してるよ、と繰り返し言ってくれた。
甘やかな蜜月の期間は、二人の意思とは関係ない所で引き裂かれる。もしかしたら、この戦争によって永遠に終わりを告げるかも知れない。
「……」
「死ぬつもりなの? アタシを置いて、むざむざ戦場で散ろうって!?」
そうだ、と言えば彼女は殴って来るだろうか。口より先に手が出る性分だと知っている。なのにディルは今まで一度も、妻の拳どころか怒りも受けたことが無かった。
ずっと、一度くらいは本音を聞きたいと思っていた。無理をさせていないだろうか、本当に今のままで満足なのか。ディルに向けられた淡雪のような柔らかい優しさは、降り積もった奥に何を隠しているのか分からなかった。
ただで死ぬつもりは無い。愛する人を守りたいだけ。その為になら命を賭けてもいい、というだけの話だ。
それを口では言わず、胸倉を掴み続ける彼女の手に手を添えた。
「我は、死なぬ。だが、汝は死ぬぞ」
触れた手は、苛立ちのままに握りしめられたせいで血の気を失って少し冷えていた。
ディルの言葉は、彼女の痛い所に刺さったらしい。わざと刺した。そうでもしないと、彼女は話を聞いてくれないだろうから。
「――」
「汝はエルフの混ざり子。精霊魔法もまともに使えぬ脆弱な汝が、獣人とダークエルフに勝てるのか」
この熱が永遠に消失する世界では、ディルはきっと正常に生きていられない。
妻の愛情は、とっくにディルの心に深く根付いていて、このぬくもりを与えられなくなってしまえば凍えて死んでしまうかも知れない。
「……わ、かん……ないよ、でも」
問い掛けた彼女は目に見えて動揺して、掴んでいた手も離れる。彼女の力不足は、どう足掻いたって挽回できないものだ。それは性差であったり種族差であったりするけれど、その責任は彼女自身にはない。
相手が純粋な帝国軍だけの敵だったら、ディルだってこんな提案はしていない。
「死ぬか死なないかなんて、まだ死んでないから解んないよ」
その提案を跳ねのけるのは彼女の意思。
「それに――ごめん」
謝罪は、『月』隊長に向けてではない。夫としてのディルに対してだ。
「『花』としてのアタシは国に捧げた」
彼女は高潔だった。国に良い様に扱われ、騎士として以外の能力も求められているのに、それでも国に命を賭けようとしている。ディルはそんな彼女を愛し、妻に迎えた。
こうと決めたら譲らないのだ。背に負う万もの命と、それから寄せられる期待から逃げることはしない。逃げようとしても、きっと国家は彼女を逃がさないだろうけれど。
「……知っている」
知っていた。
知っていて、尚愛した。
望んだ。
求めた。
欲した。
願った。
どうか、傍に、と。
愛せ、と。
「行こう」
「……」
もう彼女はディルに振り返らない。背を向けて、天幕の外に視線を向ける。
「……皆が待ってる」
彼女が言う『皆』の中にディルだけがいない。
事実でしかないその現象が、堪らなく悔しかった。
人の感情というものは、ここまで思うとおりに行かないものなのか。
ディルは彼女の存在で感情を宿し、自分から発生するものだというのに振り回されてばかりだ。
悔しくて苦しくて、彼女が死ぬかもしれないと考えるだけでも堪らなく嫌で。
彼女の背を追うように天幕から出ると、カリオンとエンダが二人が出て来るのを待つようにそこにいた。四人は最後に軽く言葉を交わすと、振り返ることなく自隊の待つ場所へと向かう。
「お待ちしておりました」
ディルを待っていたのはフュンフと、『月』隊に属する残存部隊だ。
人数の減った隊はフュンフや中隊長の裁量で再編が行われ、既に整列してそこに居る。
ざっと見渡した中には、ディルが名前すら把握していない者もいる。顔も覚えていない者さえいた。
ここまでよく残った、とは言わない。今からまた減るのだろう。その合間に油断した言葉を投げてはいられない。
「フュンフ。今からの布陣だが……三割を後方部隊として残し、町に向かうことになる。『風』が住民を退避させ、その場で我等が帝国を迎撃する」
「は、いつでも出発できます」
「……ああ」
この期に及んで、逃げたいと泣き喚く者はいなかった。
今残っている者達は全員、ディルに命を預けている。ディルが望む望まざるに関わらず、戦えと言えば自分の身を顧みることはしないだろう。なのに多かれ少なかれ大切に思う人が故郷で待っている筈だ。その者の為になら身を切られても惜しくない程、愛情を寄せる誰かが。
それが今はとても、誇らしいと共に恐ろしい。
感情というものに触れるようになったのがここ最近であるディルは、その場にいる者達が自分よりよほど成熟して見えた。人形と呼ばれた自分と違い、泣いて、笑うことのできる存在。きっとこの中にいる誰でもいい。その誰かのような感情表現ができたなら、彼女をああまで怒らせることはなかったのではないか。
「……フュンフ」
今でも浮かぶのは、妻の顔。
「全責任は我が取る。……『花』隊長の命が危機に瀕した場合、汝があの者を連れて逃げ、城に戻れ」
「は……? で、ですがそれは難しいのでは。あの方は他隊の隊長で」
「分かっている。……だが、あの者は我が何を言おうと戦線を退かぬであろう」
ディルの指示にフュンフは狼狽するが、それに構っている時間も無い。
「あの者は、我と来る。汝があの者を帰すのは、最後の手段だ」
「……そうですか」
「あの者を帰した場合その際に、城から残存兵力を全て連れて来い。あの者が戦線に残るよりも、その方が遥かに効率的だ」
効率、などという言葉で誤魔化したディルの感情を、フュンフは感じ取ることが出来なかった。
フュンフの表情が曇る。伴侶が戦線に残るのを嫌だと思うのは、彼女だって同じだろう。彼女がこの鉄面皮をどれほど愛しているのか嫌という程聞かされている。そんな彼を置いて、大人しく彼女が城へ戻るのかと考えれば――難しいのではないだろうか。
それよりも、今のような状況になっても尚、妻に対して『効率的』だなどという言葉を述べるディルにフュンフは不安を抱いていた。
二人の夫婦としての立場は対等な筈だ。しかし、感情が対等ではない。いつもあの女はディルを想い、空回り、けれど誠実に夫だけを見る女だ。対して彼女に見せるディルの振る舞いは平坦で冷静なものばかり。恋愛が分からない、と言っていた独身時代となんら変わっていないように思える。
ディルが戦場に残ると言えば、あの直情女が反対しない訳が無い。その反対をいなし、城に連れて帰るのを想像するだけでも骨が折れそうになる。
面倒かと言えば確かに面倒だが、気が乗らないのはそれだけではなく。
「……隊長」
「何だ」
「隊長は」
貴方は。
あの方のことを。
『花』隊長のことを。
ご自身の伴侶のことを。
どう思っておいでですか。
貴方を慕い、愛を紡ぎ、想いを形にし、貴方が何を言わずとも笑顔で傍に寄り添う女に向ける想いの一片でさえ、今でも理解していないのですか。
「……いえ」
フュンフの中で生まれた問いは、外の世界に出る事もなく封殺される。
聞いても仕方のないことだ。この人形のような男が、フュンフに向かって彼女に対する特別な感情を話すことは無い。それがも自覚しているものでもしていない者でも、きっと話してはくれないだろう。今は、そんな状況でもない。
「何でもありません」
その言葉足らずを、命ある限り後悔し続けることになる。
「……出発の時間だ。全員、我が後に続け」
フュンフが口を閉ざしたのを横目で見るだけで、ディルは即座に部隊を動かし始めた。隊長としての振る舞いは、これまでの時間が身に付けさせてくれた。
フュンフにとって、自慢の隊長だ。彼が隊長で無かった頃から、命を救われてから、王家とは違う忠誠を捧げて来た。彼が隊長未満の隊長であった頃から、今のように万の命を率いるまでになる期間、彼の妻より側に居た。
だから。
愛するディル無しで生きられないだろう彼の妻を、ディルの命と引き換えにしても守りたいとはどうしても思えなかった。
時間は刻一刻と過ぎる。フュンフの憂いを巻き込んで、既に悩んでいる時間さえも無くなっていく。
『月』隊は『花』隊を伴って、拠点となる町に辿り着いた。
工房の町ファルミア。
今はまだ静まり返るその町が瓦礫に埋もれる頃、アルセン軍は生きながらにして地獄を垣間見る。
この場所で散るべきでない花が散り、ある男の未来が闇に閉ざされた。
ディルはこの場所で、『永遠』が終わる瞬間を知る。




