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酒場の浴場は少し広めだ。二・三人が同時に入っても問題ない程度には空間がある。浴槽自体も広いのだが、入浴時には義足を外すディルには不都合しかない。
以前入浴の介助を申し出た妻と一緒に入った事もあるが、足とは別に不都合が出た為に二度と一緒には入らないと誓った。
「……」
思っていたよりも血で汚れていたディルは、普通なら時間の経過と共に乾いていたであろう血液が酒場まで滴っていた事に気づかなかった。
お陰で室内や外に至るまで、清掃に店員姉妹を駆り出してしまう。おまけに帰宅直後のディルを見た時の妻の蒼白の表情は、逆にディルが気にしてしまう程で。店は早々に閉めたらしいので、客が一人もいないのが救いだった。
髪と体を洗い流している最中、ディルは暁に言われた言葉を思い出していた。
――愛されてる側は良いですよね、ふんぞり返って享受してるだけでいいんですから
愛されている自覚はある。というより、愛されていると強く感じている。
身の回りの世話を全て率先してやってくれる妻は、新婚一か月にしてディルの生活の殆どを握っていた。炊事も洗濯も弁当作りも掃除も、全てディルは待っているだけでいい。時間が経てば満面の笑顔を浮かべた妻が「終わったよー」と、そう声を掛けてくれる。
仕事をしに城に行き、帰れば温かな食事と風呂が用意されている。寝床もいつも清潔に整えられ、あとは寝るだけ。
好きで享受している訳ではない。見返りを欲されれば幾らでも返したいと思っている。けれど彼女は見返りらしい見返りを要求してきた事は無いし、好きでやってる事だからと笑顔を浮かべるだけだ。
――あの方の想いがいつまでも揺るがないって保証はどこにあるんです
そんなもの、無い。
彼女がいつかディルを見限る可能性はあるだろう。ディルのような不完全な精神と欠損した肉体を持つような男で無く、彼女が満足できるような愛し方をする男が現れないとも言い切れない。
血ではなく湯の雫を滴らせる髪を掻き上げて、浴槽から立ち上がるディル。転んでは困るので、膝と右腕を床に付けて滑るように浴室を移動する。
脱衣所に出るディルを待っているのは、洗濯が済んで乾いている寝間着と綿布。これもまた妻が用意してくれたものだ。義足もいつも通りに装着し就寝準備を済ませたディルは、濡れ髪のまま廊下に出ると、そこに膝を抱えて丸まっている妻を見つける。
「…………アタシ」
声が不機嫌を表している。拗ねたような声色が耳に届いて、ディルの眉間に皺が寄る。
そんな声を聞きたい訳じゃない。ただ一言、「おかえり」といつもと変わらぬ笑顔で言って欲しかった。
「貴方が傷ついて帰って来たかもって思った時、息が止まるかと思った」
「……我に対して簡単に傷をつけられる者など、居らぬ」
「心配したの。早く帰って来てくれたのは嬉しいけど、こんな思いしたくないよ」
自身の膝に顎を乗せ、顔を出した妻。その瞳が潤んでいた。
その視線に合わせるよう、ディルは身を屈めた。なのに彼女はわざとディルから視線を逸らす。
「我は言った。汝に降り掛かる火の粉を払う、と」
「火の粉くらい自分で振り払えるよ。守られてばっかの女じゃないのは貴方がよく知ってるでしょ」
「我が持ち得るものは少ない。汝に与えられるものなど持ってはおらぬ」
与えるどころか、望まれもしない。
それは彼女なりの愛の示し方のひとつかも知れない。彼女がディルに与える愛は、見返りを求めない。
彼女はそれでいいかも知れないけれど、ディルは自分の無力を感じるから避けたい事だった。彼女から与えられるだけで、何も出来ない男だと思われたくない。彼女が雪のように優しさを降らせる度に、ディルの胸には焦燥が積もっていく。このまま好意に甘えるだけでいいのか、何か好意に返せるものは無いのか、と。
「ならば、我が示すのは行動のみ――」
そこまで言ったディルの唇に、彼女が無理矢理腕を引いて唇を重ねてきた。聞きたくないという意思表示に他ならない唇は、ディルから逆らう気力と言葉を奪っていく。
彼女は、いつもそうだ。
最後まで言わせてくれない。伝えさせてくれない。ディルの中にどんな想いがあるのかを聞こうとしない。
「……行動、だなんて。どれだけアタシが心配したかも知らない癖して」
彼女の指がディルの首筋を辿り、離さないとばかりに腕が回る。
声が震えているのを、茶化せもせずに聞いていた。
「……貴方は、アタシがいなくても平気で生きていけるんだろうけど、アタシはもう違うの」
「………」
――何を勘違いしている。
ディルの唇から出そうになった言葉は、躊躇いの後に飲み込まれた。
「貴方が好きで、大好きで、愛しているの。アタシは、いなくなって欲しいと思う人となんか、結婚しない」
――汝がいなくなれば生きて行けぬのは我の方だ。
好きで。
大好きで。
愛している。
だからこそ、その心身が傷つくのを極端に恐れている。何があろうと彼女を守ると決めたのだ。
彼女が側にいない時の自分にはもう戻れない。
彼女が側で微笑まない未来など欲しくない。
彼女が愛を囁く世界にだけ存在していたい。
だって。
彼女が、ディルを『人形』から『ヒト』へと変えたのだから。
命を吹き込まれてしまえば、欲求は止め処ない。これまで何も考えないで良かったのに、思考が捻じくれて、熱く沸いて、ばらばらに千切れそうな痛みを伴う。これまで体感した事の無い衝動が、彼女の側に居る事で絶えずディルを襲い続ける。
これが『生きる』ということなのか。最愛の声と体温を求めて止まず、自分の居心地のいい世界だけを願ってしまう。心が意志とは関係なく、こうあれと望む世界の形を追い求める。その時に同時湧き上がるディルの飢餓感も渇望も、すべて一人に向かっているのだけど。
飢餓感の促すままに、ディルが彼女の頬に手を添えた。そのまま重ねた唇で、貪るように彼女を味わい尽くす。彼女の吐息が切れ切れになる頃に離れたが、ディルの未練は二人の唇を繋ぐ銀糸となって現れる。
「――素直に、詫びよう」
「……解ってくれたなら、良いんだけど」
荒い息で照れたように言う妻の顔は、結婚前に見せていたような初心な照れ顔ではなかった。淑やかでありながら、まるで口付けの先までを期待するような上気した表情。交際していた頃も、赤くなって上目遣いなどするような性格ではなかった。
その顔をするようになったのは、ディルと結婚してからだ。具体的には、体を重ねるようになって。他の男なら見る事すら叶わない表情が、ディルの理性を乱していく。ディルしか知らない、『花』隊長の女の顔。
妻の熱が触れた部分を通して伝わって来るような感覚を受け、性急にディルが彼女を横抱きにした。わ、と彼女の口から漏れるが、腕は大人しく首に回ったままだった。
「……アタシ、まだ酒場の片付け終わってない」
向かうのは、二人の寝室。
「そのようなもの、あの二人に任せればいいであろう」
そんな、でも、と尚も漏らす彼女さえ無視して、部屋に辿り着いて扉を閉める。中にある寝台は二人が結婚するときに新調した大きなものだ。そこに妻をやや雑に放り投げ、ディルもそこに覆い被さるように身を沈めた。
灯りもない部屋の中で、抵抗らしい抵抗も無いまま二人の夜は更ける。互いの間に、幸せを折り重ねながら。
人形と蔑まれていた頃には二度と戻りたくない。
戻れない事だって分かっている。
妻が居ない世界に一人になってしまっては、ディルは生き方が分からない。
妻がもし側から離れるのなら、ディルはそれ以上生きたいとも思わなくなるだろう。
二人が共にある奇跡が波によって消える砂上の楼閣だと知っていたら、ディルはきっと、何があっても彼女を戦場になど行かせなかっただろう。
不変なものなど何一つないと知っていたディルが、彼女との永遠を夢見てしまった。
彼女と共に居るまま、世界が終われば良かった。
それがディルにとっての、『在るべき世界の形』だった。