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ディルは酒場を出た後、十番街の城に向かう。そこで改めて案内されたのは、ディルさえ知らない城の一室。地下にある個室だった。
その個室は扉の向こうは丸椅子が一つあるだけの狭い場所だが、僅かに透ける薄布で仕切られた向こうにまた別の部屋がある様子。ディルが椅子に腰掛ける頃に、隣の部屋に誰かが入ってきた。
その誰かが椅子に座る影が見える。その影はすぐさま本題を切り出してきた。
「――……、すべては書類参照の事。補助は必要か」
短い言葉と共に、一枚の紙が仕切りになっている薄布の下の僅かな隙間から差し入れられる。それをディルは手に取った。
鼓膜に届く声は、人の声など忘れやすいディルにとって聞き覚えのあるものだ。若さを伴う、透明感を感じさせる男の声。堅苦しく変えている口調も、騎士として城に勤めていればディルでなくとも何度だって聞いた事があるだろう。
「補助……? 補助とは具体的に何だ」
「こちらの手番での質問は禁止行為。回答を」
「不要」
急かされた回答には単純明快に答える。長い足を組んで、声の主の出方を待った。
すると声の主は、ディルの回答に笑うように喉を鳴らす。この声の持ち主にしては嫌に陰気な笑い方だった。
「承知。場所はこちらを参照――」
「汝が斯様な場所にまで駆り出されるとは、王家には余程人手が足りぬと見える」
「……」
ディルが勘付いている様子をわざと聞かせると、声の主は黙り込んでしまう。薄布の下から再びもう一枚の紙片が差し入れられても、それは変わらなかった。
「汝も一枚噛んでいたとはな、アールヴァリン」
「……」
「これも王家嫡男としての必修項目かえ? ろくでもない執務もあったものだ」
「この場に居る間は、立場など不問」
「分かっている。汝とてやりたくてしている仕事ではあるまい」
「……なんであいつじゃなくてお前が来たんだよ。知らない振りしてくれよ……」
「戦時下でもあるまいし、妻を血の雨に晒したい夫が何処に居る? 気付かぬ振りが望みならば今後はそのように。案ずるな、部外者には口外せぬ」
正体を看破されて、声の主である王子騎士の口調も柔らかくなる。
ディルはその場で紙に二枚の目を通し始めた。
書かれているのは二番街と四番街の簡易地図。複数赤い印が付けられている場所が、件の人身売買の連中が拠点にしている場所なのだろう。
別の紙に書いてある指令は人身売買組織の頭領と思われる人物の消去。手段は問わず。ただ、確実に殺せと。
「……なぁ、ディル。お前とあいつが結婚するってなった時、いつかはこうなるんだろうなって思ってた。でも、俺はこんなことさせたかった訳じゃない。俺みたいな不出来な後継者じゃなくて、……出来の良い奴が次期国王になってれば、お前達にもこんな思いさせずに済んだのかも知れない」
「こんな思い? ……我は今までの選択に後悔など一欠片も無い。自らを蔑むのは汝の悪癖だな、『風』の者は皆図々しい神経をしているようだが、汝も遅まきながら見習えばいい」
「見習うって言ってもな……。隊長の事尊敬はしてるけど、あんな風に自由に振舞うって俺には無理だよ……」
ディルはそれら二枚の紙を見終わった後、受け取った時と同じように、下から向こうの部屋に返した。仕切りの向こうのアールヴァリンはそれを回収する。
紙は薄布の向こうでそれが灯りの火に翳され、燃えて消えた。
その時の火により鮮明に浮かび上がった人影は、見知った体躯。鍛えられていながら細身の域を脱却できない『風』副隊長の影だった。
「……お前に限って失敗はないと思うが。気をつけろよ、お前になにかあったらあいつ泣くぞ」
彼はそれだけ言い残すと、部屋を後にした。
一人残されたディルは、暫く先程の紙に書かれていた内容を思い出していた。二番街と四番街のどちらも、地図は頭に入っているので、無理なく行けるとは思っている。
二番街に潜伏しているであろう頭領の名前は既に忘れた。そんなものはどうだっていい、刃の血露と化す者だから。
ディルが握る刃に、全ての想いを込める。
妻に降りかかる火の粉は全て払い除ける。彼女が少しでも長く笑っていられる世界を保つために。
これまで誰かの為に、などとまともに考えもしなかったディルだが、その『誰か』が出来てしまった。
彼女の為ならば、きっとディルは命さえ惜しくないだろう。
暗い路地裏に、男が一人。
幾つか転がる手足はまだ温かい。
生首、どころか首では無く顔の上半分も転がっている。
血の海と化した二番街の裏通りは、地獄の様相を成していた。
そして血の海に沈めた命の数を、ディルは数えもしていなかった。
最後まで命乞いをしていた男の声など、ものの三秒で記憶の彼方に飛ばす。
相手は戦場と違い自分が害されると思ってもいないような輩だったので、逃げるのを仕留めるのは流石に骨が折れる。
あまりに逃げ足だけは早いので、形振り構っていられなくなった。叫びも断末魔も、近隣には届いている筈なのに誰一人として様子を窺いに来る者は居ない。二番街がそこまで治安の悪い場所だなどと、ディルはここに来るまで分かっていなかった。
「……」
ディルは困惑していた。人を殺すのはこれが初めてではない。実際、転がる死体を目の前にしてもそのことで心が揺らいだりしない。
しかし胸に残る不快感は違っていた。背中を見せ無様に逃げ惑うものを手に掛けるのは、騎士隊長の仕事には無い。
国家に仇成す不埒者を手に掛ける、と言えば耳障りだけはいい。大義名分はどうあれやっている事だけは、その不埒者共と同じだ。
「……お疲れさまでしたぁー」
惨劇が終わった直後に、ディルに声を掛けて来た影があった。
どこから上ったのか、近くの掘っ立て小屋の屋根に腰を下ろしてディルを見下げている。その姿を見て、ディルは仕舞いかけた剣をそのまま抜身のまま持っている。立場としては味方だが、心情的には敵だったから。
「四番街の方も処理が始まってます。手段は問わないって言ったのはこっちですけどぉ、少しやりすぎじゃありませんか」
「………」
「流石手慣れていらっしゃる。我が国を守護する最強の剣士二人――その片翼の強さを知って、今頃この人たち、あの世とやらで後悔しているでしょうねぇ?」
見上げた屋根の上にいるのは階石 暁だ。そして、傍に控えるように一体の人形が立っている。
人形は小さな体躯で徐に片腕で暁を抱き上げると、音も少なく地面に降り立った。主人である暁をそっと地に下ろし、その後はディルが分断した死体の部品を集めに行った。
「……その木偶をまた視界に収める事になるとはな」
「もう木偶だと馬鹿にしないで下さいよ。そう油断していると、いつか隊長の首を狙いに行きますよ?」
「ふん」
ピィ、と自称した人形は、ある程度死体を一纏めにすると、それを担いで何処かへ向かう。器用なもので、積み上げた体は人形が動いて運んでも、崩れ落ちることは無かった。
「……あれは何をしている?」
「少し。餌をやりに向かってるんですよ」
「餌……?」
その疑問はディルの中から消えない。記憶している地図では、向かっている方角には一番街との境があった筈だ。
アルセン国城下一番街。城下の中で最悪の治安と言われるその場所は、城下でありながら外界との交流をほぼ絶たれている。周囲をぐるりと城下外壁と同じもので覆われ、中に入るには通行証が必要だ。
ディルは勿論入った事は無く、中がどうなっているのかも知らない。知る必要さえ無いと思っている。
場所を通りに移動すれば、外壁の上に飛び上がった人形が見えた。人形は、そこから死体をばら撒き始める。
「………あれは」
ディルが視認できるのはそれまでだ。死体を餌と称し、一番街へと撒く行為。死体処理には丁度いいかも知れないが、それは。
「……『何』を、飼っている?」
一番街に死体を食する何ががいるということだ。
「隊長、知っちゃいます? 知ったら多分、あのギルドとかよりもっと戻れない場所に来ちゃいますよぉ?」
「答えろ」
「……答えてもウチに得なんて無いしぃ……」
「答えろと言っている」
「男に縋られても全然嬉しくないですねぇ。……教えてもいいですけどぉ、それであの方に迷惑かける事だけは止めて下さいねぇ?」
暁の言う『あの方』が誰を指しているのか、ディルは感覚で理解する。
二人の想いの先に居る、『花』隊長。
ディルの、たったひとりの愛しい妻。
彼女に向けて結婚した今でも想いを向けている暁の存在は苛立ちしか覚えないが、話の内容を今そちらに向ける訳にはいかない。暁はいつ話をはぐらかしたっておかしくないのだ。
「一番街は、今ひとつの集落になってるんですよねぇ。もとから一番街って閉鎖されてた場所らしいんですけれど、今じゃ外から入って来る輩も居ないし、よっぽど今の方が治安がいいそうです。……それこそ、十番街くらい」
「治安がいいと言うのなら何故街を解放せぬ。それでは実質二番街が一番治安が悪いのだろう、そちらを野放しにしていいのか」
「……そりゃ、何の目的も無ければ解放していいんでしょうけどねぇ?」
嫌に含みを持たせた暁は、ひらひらと人形に向かって手を振った。人形は跳躍をしながら屋根伝いに主人の元へ戻る。すると暁は人形の頭を撫で、人形は再び運び漏れた死体を運び始めた。
「目的がある、と? ……それは誰の」
「まー、ウチ使えるのってごく少数ですし? そこんとこ考えたらこれ以上聞くのは得策じゃないっての分かりませんかねぇ?」
「……それが答えか」
明らかに馬鹿にした言葉の中にある、王家を匂わせる言葉にディルが苛立つ。だからと、これ以上踏み込むこともしたくない。
「あの者も、……我が妻も知っている話か」
「………。そんなの知りませんよ。あの方がどこまでこういう話知ってるかなんて、結婚した隊長の方がよっぽど知ってるんじゃないですか?」
「確かにな。あの者と十年以上縁があるが、こういった話を知っている素振りは無い」
「自慢ですか。惚気ですかぁそれぇ?」
「惚気?」
言葉の何処に言って聞かせるような惚気があるのかとディルが問い返すと、暁がわざとらしく大きな音で舌打ちする。
「もういいですから早く戻ったらどうです。……本当……なんでこんな人があの方の側に……」
「あの者が我を愛しているからに他ならぬ」
「……………」
ディルの言葉に暁は憤慨する――と思いきや、いつも細められている目を開いてディルを見た。
その瞳の色は、闇に紛れて暗く淀んだ緑。いつも閉じられている目が視線を向けるのはディルの瞳。
「それ、いつまで続くんですか」
「――?」
「あの方の想いがいつまでも揺るがないって保証はどこにあるんです。あの方が愛さなくなったら離れてくれるんです? ……愛されてる側は良いですよね、ふんぞり返って享受してるだけでいいんですから。愛する側の苦悩なんて知らないんでしょ」
――あの者の幸せを願う延長に、汝との離別があるとは考えぬのか
暁の言葉に、いつかディルに向けられた王妃の言葉が蘇る。
誰も彼も、ディルの中の感情を知ろうともせずに二人が離れる未来を押し付ける。そんな未来は、夫婦ともにどちらも願っていない筈だ。
無意識に、剣の柄を握っている手に力が入る。その一瞬のディルの違和に気付いた暁は、肩を揺らして苦笑した。
「怖い怖い。それじゃお仕事も終わったようですし、こっちもお暇しますか。スピルリナ、帰りますよ。着替えもしないといけませんね。――血だらけですから」
「はい、マイマスター」
「それでは、隊長。報告もしておきますから、直帰で構いませんよ」
二人は二番街の夜の闇に消えていく。
一人残されたディルは漸く剣を鞘に仕舞う。……その時にやっと、体が濡れて冷たい事に気づいた。
「……?」
それは返り血。腹から足に掛けて生臭い血液の臭いが染み付いて、よくよく見るとあちこちから鮮血が滴っていた。それはディルの血ではないのだが、血だけではないモノまで付いていて、ディルの眉が寄ってしまう。
視線を自分の体全体に向けると、髪も赤で汚れている。手も赤く、恐らく顔にまで血が付いているだろう。滴る赤を絞る事もせずに、ディルはそのまま二番街を後にした。
仕事とそれに付随した出来事はさておき、考えていた以上に早く帰れるのはディルにとって『嬉しい』だった。
けれど妻の待つ酒場に帰宅してから、即座に風呂に押し込まれる事になる。