121
『月』と『花』の隊長は、結婚後一か月半の砦駐留を免除された。ディルに対しては表向きそうだが、『花』隊長に至っては駐留の指示自体がすべて見送られる。
それについて城内の物から批判が出ることは無かった。二人が新婚という事もあるが、それよりもっと重要な事があったから。
『花』隊長が、裏ギルド長を兼任するための下準備をしなければならなくなったのだ。
正式な辞令はまだ無い。けれど少なくとも、帝国と白黒つけた後には就任することが決まるだろう。
下準備と言っても、大掛かりな事はしない。
『花』隊長は最初に、主を失って閉めていた店を再び開店させようとした。近隣の馴染み客からの要望もあり、彼女自身も酒場が賑わいを取り戻すことを望んでいた。何より、兄がいた酒場を忘れられたくなくて。
王家に開店許可を陳情した時は、王妃は二つ返事で了承した。尤も、店を開いていると客に紛れされて騎士や関係者を送ることが出来るのでそちらの方が効率的と考えたようだが。
「えーと、発注掛けたのは全部揃ってるね。野菜と魚と肉と、酒に不足分は無かったし……包丁も、………うん、……新しいやつ」
『花』隊長が決めた開店の日は式を挙げてすぐ、彼女自身まだ登城していないうちだった。
彼女も騎士として忙しいので、開店するのは手隙の日だけ。店内で最終確認をして回る彼女の表情が一瞬曇ったのは、包丁の数を数えていた時だ。
先代マスターのエイスは、腹部を包丁で突かれていたそうだ。凶器になった包丁とやらは、騎士達に回収されてそのまま。
誰が見てもわかりやすいように、在庫を紙に書いて一先ずの仕事は終わる。
ディルは、力仕事の手伝いをしながら妻の様子を横目で見ていた。届いた野菜を厨房に運んで、声を掛けようと思っていた所。けれど彼女の浮かない顔を見て、一瞬躊躇ってしまう。
「……運び終わった。他にすることはあるか」
ディルは彼女の表情を明るく出来るのは自分だけだと分かっている。だから躊躇いを一瞬のものとし、声を掛けた。
思った通り、彼女は笑顔を浮かべてディルを労る。
「んー、今は無いかな。少しゆっくりしててよ。お茶飲む?」
その言葉は本心だったろう。けれど、わざと明るく振舞っているような空気が感じられた。心配をかけまいとしているのだ。
ディルは可能な限り、分かる範囲で手伝いをしようと考えている。けれどやはり、彼女は勿論オルキデやマゼンタといった元から酒場に居た面々に比べると手伝いの質は劣ってしまう。
なのに『花』隊長はいつも、そんなディルに礼を欠かさず言ってくれるのだ。
それまで書き物をしていた道具を置いて、厨房に入る彼女は湯と茶葉の入ったポットと飲む用のカップを持って出て来る。そしてディルをカウンター席に招いて、距離が近付いた二人は和やかな雰囲気を楽しんだ。
こうして茶の用意をしている『花』隊長を見ていると、一般の世に居る女性と何ら変わらないように思える。
数奇な運命に流されて、隊長職を与る彼女のすべてはディルの自慢だった。美しく、ディルに勝てずともその辺りの有象無象よりよっぽど強い。
「蜂蜜入れるー?」
「そうして貰おうか」
オルキデとマゼンタは買い出しに出ている。アルカネットも今は仕事で酒場にいない。
この日も愛する妻と二人きりで過ごす時間を味わおうと思っていた。しかしその緩やかに流れる時間は直ぐに終わってしまう。
突然、店の入り口に掛けていた来訪者を知らせる鐘が鳴った。
そこから現れた人物の姿に、夫婦の身が僅かに強張る。
「お邪魔します」
『花』隊長は茶を淹れていた手を止め、ディルは椅子から立ち上がる。
聞き覚えのある粘性のテノールは、最近ディルの配下になった者の声。城でもあるまいし、こんな所で聞きたいものでは無い。
階石 暁――。ディルの秘密を握り、『花』隊長を慕っていると公言している男。
「……悪いが、暁。今は開店時間じゃないし、アタシ達は休みだ」
「相変わらずつれない人ですねぇ。……今日はウチはお祝いに来たんですよ」
それとなく彼女が退去を促すと、暁は分かっている風な口を聞きながら中まで歩いてくる。
そして差し出したのは、暗色の硝子の瓶だった。灰の包装紙と赤の飾り紐で結ばれたそれはワインに見える。ディルは酒に明るくないのでどんなものかは分からないが、受け取って栓の頭の焼き印を見た途端『花』隊長の表情が一瞬驚いたように見開かれる。それだけで値の張るものだというのが感じられた。
「ご結婚、おめでとうございます。ウチがもうちょっと行動が早ければ、言う側じゃなくて言われる側だったかも知れませんねぇ」
包装を剥ぎかけた彼女の手が止まる。そして瓶を脇に置くと、もうそちらには見向きもしない。愛する夫の為に茶を淹れる為にポットを手に取った。
ディルも、これまでだったら暁の言葉の意味に気付かなかっただろう。ディルの妻を何とも粘っこい視線で見る暁と、ディルよりも早い段階で言葉の意味に気付いて顔を顰めた妻を見比べて、やっと意味に気付く。
――つまり暁さえ行動を早めていれば彼女と結ばれたのは自分だと、独善的な意思が滲んでいた。
「用はそれだけか」
早く出て行け。ディルの表情こそ変わらないが、声に冷えた怒りが混じっている。
その怒りが沸き立たないうちに、彼女がディルの前だけに茶を出す。客人とも言えない者に出す茶は無い。
なのに暁は、ディルから二つ離れたカウンター席に座った。茶が出ていなくとも気にしていない。
「勿論、それだけじゃないんですよぉ」
「じゃあ、早く言ってくれないかね。生憎こっちも忙しいんだ」
素っ気なく言い放つ『花』隊長の視線はもう暁に向かない。
ディルは、妻が追い払い出したのに任せて茶を手に取った。飲める程度に冷めているが、立ち上る香りは悪くない。蜂蜜を入れてあるので、その香りも漂っている。
次に楽しむのは味。ディルが茶を口にしようとした時だった。
「それじゃ言いましょう。―――『二番街に人身売買の動き有。その実態を調査の後に動きがあれば頭を潰せ』」
ディルにも、彼女にも、聞きたくなかった指令が聞こえて二人の意識が引っ張られる。
揺らぐ視線で彼女が視線を暁に向けた時、狐を思わせる顔は笑みを象っていた。
「――あはぁ」
粘性の声が、喜悦を溢す。
「漸くウチを見てくれましたねぇ?」
「……暁、お前……」
「エイスさん? でしたっけ? あの人がいなくなってぇ、心配だからってぇ、王妃様はなんとウチを『監査役』にしてくれたんですよぉ」
その耳障りな声が、『月』と『花』の二人を乱す。勿体振った間を置いて、二人の出方を見ているようだった。特に『花』隊長の動揺は、視線だけで分かる程に表に出ている。
「……ウチってですねぇ。好きな人の表情なら、どんなものだって大好きなんですよぉ。ソルビット様には理解してもらえませんでしたが、好きな人が苛立つ顔も、怯える顔も、どんな表情だって大好きで――……それがウチに向いてないなら、壊したくなるほど。……大好きなんですよぉ」
暁は二人に比べれば大分年下だ。けれど二人より、遥かに狂気に蝕まれていた。
ただ一人に絡みつくような視線と隠そうともしない悪意が向けられ、それを受けた彼女の震えが止まらない。それに気付いたディルがを背に庇おうと席を立ちあがる。
暁はその光景が面白く無さそうに、笑顔を消して悪意のみで象られた表情をディルに向けた。一見するだけでは閉じられているように見える瞼が、ほんの少しだけ開いている。狂気を孕んだ緑が、ディルを見据えていた。
「……その仕事は、我が請け負おう」
これ以上、妻の動揺に震える顔を見ていたくない。
どんな顔だって好きだと言った暁に、共感が出来ない。それは想いが叶った余裕から来る思いかも知れないけれど。
『花』隊長が苦痛に顔を歪ませる所なんて、見ていられない。
「……へぇ? 隊長、ご自分の執務で忙しいんじゃないんですかぁ? もうすぐ国境への配備の日ですよねぇ」
「構わぬ。……続きは我が聞くと言っている。後で城に向かう、それまで待っていろ」
「またまた」
小馬鹿にするような声を遮り、ディルが言い放つ。
「待っていろ、と、我は言った。……三度、言わせるな。……葬儀の方法を、我は心得ている」
心得ていた所で、これ以上ディルの不興を買うなら葬儀すら省略し野晒しにしても構わない。
この男は危険だと、ディルの勘が告げていた。野生動物のように鋭く、しかしディルの住まう範囲の人の世ではあまり役立たないものだったが、ディルの鼻腔を不快に騒めかせる、暁から漂う腐臭のような香りを感じ取ってしまう。
それは本当に漂っているものなのか、それとも暁から感じさせる何かを腐臭として感じ取っているのか。今のディルには判断が付かない。
「………貴方が隊長でさえなかったら、そのお綺麗な顔を誰か判別できないくらいにしたい所ですけれど……。仕方ないですね、今日の所は引き下がります」
ディルが死を匂わせる脅しをかけて漸く、暁は引き下がった。『花』隊長に軽く頭を下げて言った「ご機嫌よう、麗しの『花』隊長」の言葉も、言われた彼女には不快感しか齎さなかったようだ。
招かれざる客が帰った直後、扉が閉まった後。『花』隊長はカウンターの中に座り込んでしまった。
「……くそ、もうギルドに仕事持ってくんのかよ………」
彼女の小さい体に、細い肩に、こんなに早く責任が乗ってきた。覗き込んだカウンターに、彼女が自分の体を抱いて呻いている。
『監査役』まで出来た彼女の立ち位置は、並みの女性のみならず男でも根を上げるだろう。隊長とギルド長の役職を持つなど前代未聞だ。これまでも騎士に女性隊長は居るには居たが、彼女以上の重い枷を付けられるなど有り得ない事。
ここは『自由国家アルセン』だ。自警団でもなく、騎士が城下の問題にまで手を出して民を裁いていると知られれば、謳っている『自由』に傷がつく。同時、帝国に『城下に問題あり、騎士が人員を割いている』と知られれば、今が好機と兵を出してくるかもしれない。
だからあるのだ。『j'a dore』が。表立って処理できない問題を片付ける為に。
なのに今、人手が無い。
先代のエイスが手を回し、人員は皆国を出たという。そんな状態で動けるのはこの酒場には二人しかいないというのに。
「……案ずるな」
ディルの決断の時だった。
「我は、暫く空ける。……フュンフにも、その旨伝えておく」
ディルが出れば、彼女の身体的苦痛は軽くなるだろう。
彼女は弾かれたように顔を上げて立ち上がり、ディルに心配そうな視線を向けて来る。
「……行く気? アタシに言われた仕事だ、アタシが行く」
「無理をするな。隊長、酒場、そしてギルドの仕事となれば、汝は体を壊しかねない」
「でも」
「でも、は無しだ。……次の出立までに片をつける、それまで暫し離れるが――汝も、無理はするな」
それ以上言葉を交わしていたら、彼女が引き留めようとするのは目に見えていた。カップに残っている紅茶を飲み干すと、彼女に向けて手を伸ばす。頬に触れて、唇を辿る。今はそれだけ。
背中を向けて、暁がそうしたように酒場を出て行く。背中に妻の視線を受けながら、扉の鐘を鳴らした。
ディルの背を守る妻を。
ディルの側に居てくれる彼女が、火の粉で身を焦がす前に。
命に代えても彼女を守ると決めたのだから。