120
結婚という儀式はいつの時代も晴れ舞台として扱われる。
アルセン国騎士の誉れ、『月』と『花』両隊の隊長同士が結婚したとなって、騎士のみならず城下の気配は祝い事へ向けた華やかな空気になっている。戦禍が近付いてくるという情勢の中での明るい話題は歓迎された。
特に『花』隊長は、外見は美しくあれど嫁き遅れの代名詞として名を馳せていたらしく、結婚適齢期とやらを逃した女性へ希望を与える存在にもなったらしい。ディルが彼女より年下である上に恋愛結婚だった事も、人々の間で艶聞として語られている。
求婚から籍を入れたのはすぐ。式を挙げたのは求婚からおよそ一か月後。
そしてこれまで二人が頑なに守り通した純潔が散った初夜から二日後、ディルは一足先に職務に復帰した。
「いい日だ」
ディルは執務室に到着すると同時に、窓の外の景色を見ながら呟いた。
式から今日まで隊長代理として執務に就いていたフュンフは、そんな事を呟く隊長に異質なものを見るかのような視線を向けている。
確かにいい日だろう。城下の季節も既に春だ。緑が芽吹き鳥は歌い風は心地いい。しかしディルの言葉にはそれだけではない意味が混じっているのに気付いている。
「フュンフ、あの花壇の花は今年からか? 先日見た時には植えられていなかったように思うが」
「毎年季節ごとに植えられていますよ。庭師が嘆くので他の誰にも言わぬようお願いします」
「……ではあちらの木は? あのような白い花が咲くなど変わった木を植えたのだな」
「あれは私が騎士となる以前より植えられている木ですよ。夏には果実が成りますので隊長にもお持ちしたはずですが」
「………」
付き合いの長いフュンフだが、この男が此処まで浮かれるのは初めて見た。
表情はいつもとさして変わらない。なのに、言動がまるでおかしい。
姿形は隊長そのものだが、纏っている雰囲気がまるで別人だ。服の匂いさえ違うのは、『花』隊長が洗濯をしているからか。
『月』と『花』の夫妻は結婚と同時、住まいを隊舎から五番街の酒場へと移した。
主を死という形で失った建物は、主が育てた『花』隊長を新しい主として据える。
酒場の死した主であるエイスは二人の子を育てていたが、もう一人の養い子は相続権を放棄した。彼は酒場の扱いも分からなかったし、人と笑顔で接する仕事に向いていないとの事。
隊舎は引き払った訳ではない。今のような情勢で、緊急事態が起きた場合城から近い隊舎の部屋は不可欠なものだ。けれど今日は二人の愛の巣となった酒場から直接登城したディル。その様子は、先程の通りである。
「隊長、宜しければ引継ぎを。私は昼には砦に向かわないとなりませんので」
フュンフは机に乗った書類の束を示すように叩いて、隊長に執務を促す。
ディルはそれまで外を眺めていたが、面白くなさそうに机に振り返った。
「雑務が煩わしいと考えた事はある。だが、今は考えるより先に湧き上がってくる。思考より先んじて現れるものが『感情』か。こうはっきりと知覚できるものになると、言語化もそう難しくはないやもしれぬな」
「それは良い事ですな。しかし隊長、幾ら煩わしかろうと執務は貴方を待っています」
「我を待つのは妻のみでいい」
『花』隊長への呼称が既に妻になっている。フュンフが隊長の浮かれっぷりに少しばかりうんざりしながらも、せめて表情は変わらないようにと気を付ける。どうせいつか浮かれた気分は落ち着くのだから、それまで水を差さなくてもいいだろうと思いながら。
「そういう訳には行かないのです。私も隊長がいつ此方にお戻りになるか首を長くしつつ、筆を持つ手を腱鞘炎にしながらお待ちしていましたよ」
「ふん」
ディルは相変わらず、立場が悪くなるとそうやって誤魔化す。
フュンフも本気で詰めている訳ではない。もとよりフュンフは一人で何でも出来る。
ただ、ディルには隊長としての責任感と威厳を示して貰わないといけないとは常々思っていた。家庭を持って、これから変わってくれることを祈るばかり。
「……『花』も、執務終わりの隊長を労うのを心待ちにしているのではないでしょうかね」
その言葉が早かったか。
それともディルが筆を握るのが早かったか。
無言のまま執務に精を出し始めた隊長を見て、フュンフが呆れの溜息を吐いた。
「では、私は『鳥』へと連絡を入れた後に砦に向かいます。隊長、無いとは分かっておりますが……くれぐれも、夢と現を混同なさいませんように」
執務室の扉が閉まる。
一人になったディルは手を休めはしなかったが、視線はフュンフの背を追っていた。
彼の姿が消えると、指で挟んだ筆記具をくるりと一回転。ここ最近は結婚式を含む色々な私情で忙しく、一人きりになる時間は殆ど無かった。今は久し振りの静寂を味わう絶好の機会だったが、ディルの頭の中では最愛の妻の顔が浮かんでは消えている。
これは、現実だ。
想っていた相手が伴侶となり、心はこれから先永遠に離れる事は無い。
都合の良い夢のようだと最初は思っていた。けれど、夢から醒めても妻はそこにいて、無防備な寝顔をディルに見せる。
これが、幸せだ。
欲しいと思った、ディルにとってのたった一人が、自分を選んでくれた。
「おかえりー!!」
その日の執務を全て終わらせて、ディルは酒場へと帰る。隊長ともなれば城下への帰宅には城から馬車が出る。これまでは徒歩で隊舎まで戻っていた時間に比べて、移動時間が長くなったのは少し不満だ。
しかしその不満を吹き飛ばしてくれるような出迎えがあって、ディルは一瞬呆気に取られた。
妻である『花』隊長が、帰宅直後のディルに抱き着いて離れない。灯りのついた客のいない店内と、鼻腔を擽る夕食の香り。それから、満面の笑顔の妻。
店は開いていないというのに、黒髪の姉妹が店の掃除や整理をしていた。酒場の主の喜色に満ちた行為を遠目で見ながら温い笑みを浮かべている。
「……今、戻った」
笑顔を浮かべないにしろ、ディルはその背に手を回す。迎えてくれる妻がいる空間は、とても心地がいい。
「お腹空いてる? 空いてるよね? 何食べたい?」
「……何でも構わぬ」
「えー」
夕食の希望が出ない事に不満な顔を浮かべた妻は「なんだよぉー」と言いながら厨房へ向かう。
ディルは先に風呂に向かった。身綺麗にしてから妻の作った食事にありつきたい。風呂の支度が出来ていないなら自分が掃除してもいい。そう考えながら向かった風呂には、既に温かい湯が張られていて結局その日も風呂は入るだけで終わった。
入浴を終わらせて客席側に向かうと、既にカウンター席に食事が用意されている。夏野菜の彩りが美しいパスタとサラダ、小さく刻まれた野菜のスープ、厚切りハムのステーキ、それから皮を剥いて等分にした桃。ディルがこれまでもそもそと食べていた固形糧食と比べると天と地ほどの差がある。
席に着き銀食器を手にして食べ始めるディルを、カウンターの向かいから嬉しそうに見ている『花』隊長。肉を好まないのに、ディルの為に献立にハムを追加するのも彼女の愛情だ。
「おいしい?」
「ああ」
そんな夫婦のやり取りを、生暖かい目で見ている黒髪姉妹のオルキデとマゼンタ。店内業務は終わったので、二人は自室に戻っていった。新婚の二人の時間を邪魔しないようにという配慮もある。
食事の量は相変わらずディルにとって多かったが、ここ一月の間に随分胃袋が拡張された気がする。最後の果物まで食べ終わると、彼女は笑顔で食器を下げる。
「……その程度、我でも運べるが」
「いーのいーの。お茶淹れて来るから待ってて」
仕事終わりのディルを徹底的に甘やかす気満々な『花』隊長は、上機嫌に厨房へと再び入って行く。
……というのも一緒に暮らすとなった時に、ディルの家事能力の壊滅さ加減を知られてしまったのが一因だろう。
洗おうとした皿は割る、均等に食材を切る事も出来ない、食材の下処理の何たるかを理解していない、『少々』『適当』を本当に言葉通りにする、火加減はいつでも全力。
案の定消し炭を作った時にディルが発したのは以下の言葉だ。「炭でも我は食える」。
厨房担当のオルキデがあまりの酷さに愕然とし、それならばスープはどうだと作らせたなら口に入れた途端に溶岩と針山を彷彿とさせる刺激物が出来上がる。何を混ぜたのか聞いてもディルはこう答えた。「さて」。
更に驚くべきなのは、それをディルが本当に一人前完食したことだった。
側で見ていた妻は半泣きになり「もう食べ物で不自由させないからね……!」とこれまでのディルの生い立ちを嘆いていた。
「……」
流石にこのままでは駄目だとはディルだって思っていた。けれど、そんな自分さえも妻は受け入れた。
それでディルはまた、自分の伴侶が彼女でないとならない理由を見出してしまう。
彼女はきっと、この先ディルの至らぬ所を見ても包み込むように受け入れてくれるのだろう。困った事に、ディルはそれが嬉しい。
「おまたせー。ねぇディル、蜂蜜入れる?」
「蜂蜜?」
「美味しいらしいよ。甘いものが嫌いじゃないなら入れてみて」
時間を気にせず二人きりで過ごす食後の茶。
ディルは言われるがままに蜂蜜を入れた紅茶を飲んだ。
「どう? 美味しい?」
「……ああ」
フュンフが淹れる砂糖山盛りの紅茶の、砂を思わせるような舌触りはそれには無い。
彼女のディルに対する扱いを思わせるような、優しく甘い味だった。
「悪くない」
気に入ったなら気に入ったと、素直に言えばいいのに。
「そっかー! よかった、ディルって砂糖嫌いじゃないって聞いてたから、蜂蜜はどうだろうって思ってたの」
「聞いた? 誰から」
「フュンフから。凄かったよー、『隊長が必要なものはああでこうで、何をされて何が無いと困るから』って逐一言われたの。いやー、フュンフって本当にディル大好きだよね。妬けてきちゃう」
「下らぬ」
「あー、そんな事言う? でもいいもん。もうアタシ吹っ切れたから」
「吹っ切れた?」
言葉少ないディルは、いつも誰かの誤解を招いてしまう。
けれど『花』隊長である妻は、既に伴侶の余裕を醸し出していた。
「世界で一番ディル愛してるの、アタシだもん。こればっかりはフュンフにも負けないよ」
臆面も無く愛を囁く、そんな妻を愛している。
「――ふん」
「あ、笑ったね? 笑わないでよ、本気だよ?」
敢えて言う事ではないと、思ってしまった。
彼女が愛を囁く間は、二人の関係は永遠だ。そして、彼女は簡単に心変わりするような人物ではないと言う事はディルが一番分かっている。
言葉で示さなくても、彼女は隣にいてくれる。ディルの事を愛し、帰りを待ち、家事もしてくれる。それに返すものは今はまだ行動と金銭で良いと、ディルは油断してしまう。
彼女も、ディルの愛を望んでいた。
態度でははっきりそうだと分からないから、言葉で聞ける日が来るように願っていた。
それに気付くのは、彼女が居なくなってからだ。