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「は?」
突然頽れた『花』隊長の姿に、王妃は目を丸くしていた。
「ちょ、たいちょー! 流石にそれはカッコ悪すぎっすよ!! やめてー!!」
自隊の隊長が気を失った姿に、副隊長であるソルビットは悲鳴に近い懇願の声を上げる。
「………」
一連の原因となったディルは、何度も目を瞬かせて、脳内で状況整理に勤しむしかなかった。
ディルがそこで倒れている『花』隊長に求婚したのだ。
場所は謁見の間、近衛隊と王妃、それからソルビットという限られた人数とはいえ衆目に晒されている状況。
ここ数か月の間で続いた他国との緊張状態に気を揉んでいる最中の育ての親の死。
あらゆる負荷が彼女に掛かっていただろう。まるで溜まっていた疲労がその場で爆発したかのように、彼女は倒れ込んだまま起き上がらない。
彼女は固く指輪を握りこんでいた。だから、求婚自体に嫌悪感を覚えての気絶ではない、……と、信じたい。
「………ぶふっ」
噴き出すような声が聞こえた。
ディルがその音の出所を視線で探ると、いつもは石像のように微動だにしない筈の近衛隊が肩を震わせている。一人や二人の話では無かった。しかし、聞こえた声は兜に籠ったような響きはしていない。
更に視線を動かすと、玉座の肘掛けに肘を付き、頭を抱えて声を殺し痙攣するように笑っている王妃の姿が目に入る。
「まて、待てディル、っふ、ふふふうふ、待て、確かに、っふふ、わたしはっ、急かしたやも、知れぬがっ。ふふ、ふふふふ、指輪まで、もう、用意してたのか?」
「………」
「お主がか? あのお主が指輪、買って来た? して、それをこの者は知らずにいたと? ……ふ、ふふふっ……! っは、ははっ、ひははははははははははははははは!!!」
王妃は堪え切れなくなったらしい。しまいにはそれまで王妃としてしか見せていなかった威厳ある姿をかなぐり捨てて、玉座で大声を上げて笑い始める。
この場に居る者の中で一番の権力者が笑ってしまえば、それに従う者が耐えられる筈も無く。この場で笑っていないのは、いつも無表情なディルと隊長の醜態に恥ずかしがっているソルビット、そして倒れてしまった当の本人だけ。しかしその場を包む笑いには、嫌味なものや馬鹿にした声は一切含まれていない。『花』隊長の純情さを微笑ましいとして笑っているものが多い。
王妃さえ笑うのも無理はない。先日まで、ディルすらも考えてすらいなかった事だ。
誰かと一生を側に居て、生計を共にする。何をするにしても伴侶の姿がちらついて、独身の自由など消滅してしまう。
ディルはそれを不便だと思っていた。
けれど同時、自分を縛るのが彼女の存在だと思えば、それも悪くないのかもと。
「……っは!?」
気を失っていた彼女はものの数秒で復帰した。ソルビットが彼女の手を引いて上半身を起き上がらせる。倒れた時に打ったのか体を擦ってはいたが、特に異変は無い。
最初は状況が掴めずぼんやりした顔をしていた。しかし、暫くしてから目に見えて動揺し始めた。
「……? ………!!」
「大丈夫か」
「ひぇえ!!」
ディルを見た彼女の顔色は一度青くなったかと思えば、それから一気に真っ赤に染まり上がる。瞳には涙さえ浮かんでいて、唇は半開きのまま震えていた。
情けない声を上げる彼女に、近衛隊はまた肩を震わせる。その兜を剥いでどんな情けない笑い顔を浮かべているか見てやりたくもなった。
「ふふっ。ふふふ、やはり面白い女よの、『花』。求婚されて気絶する女など、私は今まで知らぬわ」
茶化すように王妃が言う。それに頷きながら、ソルビットも続いた。
「色気も雰囲気も無い謁見の間で求婚だなんて前代未聞っす。二人で伝説になれるっすよたいちょ」
「……きゅ、求婚って」
戸惑いを隠しきれない彼女は、何を考えているのだろう。
この状況で、求婚したことを不快に思っていないか。
何を突然、と困っていないか。
言い訳なら出来るけど、王妃に言わされたから――などとは言いたくなかった。彼女に妻になって欲しいと願っていたのは本心だ。
「答えは、待つ」
だから今は、言えただけでもディルは満足だった。
賽は投げられた。次の手番は『花』隊長にある。断られるとは思っていない。でも不安でないとは言えなかった。
「する」
ディルの憂いを余所に、彼女の返答は一瞬。
手の中にしっかり握りこんでいた指輪を自分で左手の薬指に嵌め、ディルを真正面から見つめて行った答え。
「……結婚、する。します。お願い、結婚してください」
今度はディルが面喰らう番だ。
ディルが求婚した立場の筈。しかし彼女の返答の先にある言葉は、まるでディルに対する求婚の言葉。お願い、とまで言われてディルの不安は消えていく。いつも、この女には意表を突かれてばかりだ。
それが、堪らなく心地よくて、『嬉しい』。
ディルの表情が無意識に喜びで緩む。『花』隊長の後ろで、ディルの笑顔を初めて見たソルビットは戦慄していた。本当に生き物だったのか、とさえ思っていそうな無礼な顔。
「よい日になったの、『月』『花』。かような場所で新たな夫婦の誕生を見ることになるとは思わなんだが、よい。国王代理の私が許す、今日から夫婦として生きよ」
言いながら王妃は涙を拭う仕草を見せた。どれだけ笑いのツボを的確に突かれたのだろうか。
王妃の言葉に、『花』隊長は至福の笑顔を浮かべて指輪を撫でている。その仕草が愛らしくて、堪らなくなって、ディルが彼女の腕を引く。そしてそっと頬に手を当てて口付けた。触れ合いは自省してほんの一瞬。
ぎぃえええええ! と『宝石』の二つ名を持つソルビットの汚い悲鳴が聞こえたが、ディルは全く気にしない。
繰り広げられる二人だけの世界と、その見届け人となったソルビット。そして王妃はひとしきり笑い終えると、平静を取り繕った声でその場にいた者に告げる。
「よい。二人とも、これから山ほど考えることはあろう。今から執務も切り上げるが良い。存分に二人で話し合え」
「――は」
許可も出たので、彼女の手を引き退室の挨拶もさせぬまま謁見の間を出て行く。
廊下に出ても暫く歩みは止めなかった。少しでも、王妃から彼女を遠ざけたい。出来る限り、不快の元凶から。
廊下を曲がって、進んで、また曲がって。人気の無い廊下で、ディルの足が止まる。
『花』隊長が、ディルの胴に背後から抱き着いたから。
「……怒ってる?」
彼女の第一声がそれだ。
「……いや」
理由も伝えず謁見の間から遠ざかった事に、彼女は彼女なりに理由を考えていた様子だった。
「あの、……その、ごめん」
「何故謝る?」
「アタシ、倒れちゃった。ごめん、本当に嬉しくて、夢みたいで、何がどうなってるか分かんなくて。恥ずかしかったよね。恥かかせちゃった。アタシも、こんなことがあるって知ってたら事前に覚悟も出来たけど。……ううん、違うの。アタシ、ずっと前から思ってたんだ。ディルと結婚出来たらどんなに幸せなんだろうって。城で嫌なことがあっても、ディルと同じ家に帰って顔見て、こんなことがあったんだーって言ったらきっとディルは聞いてくれて。兄さんがいなくなっても、アタシにはディルがいるんだって、これからもずっと心の支えになって欲しいって思った。ディルが何してもしなくても、側に居てくれるだけでいい。……ごめん、途中から何言ってるか自分でも分からなくなってきた。でも、本当に……ディルと、一緒に居たいし結婚したい。だから、嬉しすぎてまたどうにかなりそう。また倒れたら本当ごめん」
捲し立てるでもなく、恥じ入った小さな声は耳に心地いい。拒否の真逆の心境を伝えられて、ディルが彼女に見えない位置で再び表情を綻ばせる。
これまでの自覚できる範囲で笑った事も殆ど無いのに。彼女の前でだけは、僅かなものしか浮かべられなくても笑顔になれる。
唯一の存在である彼女を、伴侶という形で側に置くことが許される。
これまで無為に過ごして来た日々が、これから意味のある時間になる。ディルはその時、そう思っていた。
「倒れても我が運ぼう」
「……流石に倒れるの二回目なんてカッコ悪すぎるよね……?」
「どのような醜態を見せても汝は汝だ」
手を引き、互いの顔が見える位置まで彼女を移動させる。
案の定、耳の先まで真っ赤になった『花』隊長は涙目だ。
「……安心しろ。汝が離れようとしない限り、我は汝の側に在る」
ディルの口からこぼれ落ちた本心は、彼女の耳から目に届き、大粒の涙を流させた。
「『花』としてのアタシは国に捧げた。でも、『 』としてのアタシのこれからは、今日から、全部、貴方の為にある」
そして迎えた結婚式当日の朝、彼女の姿を永遠に忘れない。
「妻としては不出来かもしれないけど、貴方の背中を守るから。ずっと、一緒に居させてください」
純白の婚礼衣装に身を包んだ銀の髪の混ざり子。普段は化粧っ気も無い顔なのに、仄かに色付く頬と唇。
彼女がこの日見せる姿が、今までで一番美しいものになるよう、ディルは願っていた。
ディルにとっては、彼女こそが全てだ。そんな彼女が喜ぶなら、何を擲っても構わない。婚礼衣装はこれまで目的も無く貯まっていく一方だったディルの金で買った。着るのがたった一度きりだとしても、この国で、否、この世界で一番美しい彼女の姿を見たかった。
「――誰かと共に生きるなど、考えたことも無かった」
少なくとも今だけは、世界で一番美しい、ディルの妻。
名前の分からない感情に翻弄された時は数えきれない。けれど純白に身を包み、二人きりの控室で気の早い誓いの言葉を述べる彼女を見て、ディルは今度こそ自分の感情を理解した。
これまでは『好き』だと考えていた。
胸の中では、それもどこか違っているのではないかと思っていた。
身を灼くような嫉妬、彼女が居ない時の寂寥感、唇が触れる幸福、胸を満たす安心感。
ひとつひとつが彼女が、人形とまで呼ばれたディルにくれた感情だった。
そして今日、ディルは改めてひとつの想いを理解する。『好き』よりも先に進んだ、尊い感情。
――愛している。
自分の為の煌びやかな衣装を身に纏い、自分ひとりに愛を囁く彼女を見て。
自分は、彼女を、これまでずっと愛していたのだと。
ディルがそう気付いたその日に、彼女はディルの妻になった。
「汝が我の背を守るなら、我は汝の前に立とう。……汝が我の側に居るというなら、我が汝に振り掛かる火の粉を払おう」
「……ありがとう」
ディルが万感の想いで囁き返すのは、心からの決意。
二度と離れない。離さない。それが現実となって、結婚という形で二人を繋ぐ。
今まで想像さえも不発に終わった『幸せ』が、これから二人の間に折り重なっていく筈だと。
そう信じていた。
時間は戻らない。
ディルが目覚めた時、室内はまだ薄暗かった。
雲が出ているのか、とも思ったが時計の針はまだ早朝を指している。
静かで暗い室内で、ディルは一人だ。
誰も、側に居ない。
永遠を誓った女は、戦場で散った。
ディルがそれを覚醒する意識の中で思い出した時、途端に胃の腑から不快感が込み上げてきた。
口を抑えて寝台から転がり落ちるように移動し屑籠に這い寄ったが、寸での所で嘔吐せずに済んだ。胃に殆ど何も入っていないからかも知れない。
不快感は消えない。かといって水を取りに行く気にもなれない。寝台で寝るのは彼女を必要以上に思い出してしまうから滅多にない事なのに、何故かその日に限って横になってしまった。
胃が再び大きく痙攣する。咄嗟に口許を覆ったディルだが、今回も何も出てこない。苦痛に苛まれる時間を暫く過ごして、落ち着いた頃にはディルも脂汗をかいていた。
「――ぁ」
手を離した口から漏れるのは、最愛の人の名前になれなかった吐息。
永遠を誓った人を喪って、それでも怠惰に生きるしかないディルだった。死も病気も、最早何も怖くない――と思っていたのに、最近それがうっすらと恐ろしく思うようになって。
生へ執着させたのは、最近ギルドの一員として身を置いている女の戯言のせいだ。
『ディル様、貴方の奥様は、まだ生きているかもしれない』
とんだ妄言だと思うと同時に、命を懸けてでも縋り付きたい甘い言葉であった。
夫婦として過ごした時間は短すぎた。ディルにとって、瞬きの間に終わったようにも感じた幸福だった。彼女はディルに沢山の後悔を残したのに、見向きもしないで離れて行った。
彼女の名を呼んでも、誰も返事しない。
彼女の名を呼んだら、それを聞いたものは皆憐憫の視線を向けて来た。
二度と、命が尽きるまで逢えないと思っていた最愛の妻。
もし本当に、彼女が生きているというのなら。
二度と離れぬ。
何処へも行かせぬ。
今度こそ其の命尽きるまで、共に。
夢を見ていた。
永遠を誓った妻と、共に幸せになろうとしていた頃の夢だった。




