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「は……?」
ディルの口から出たのは、意表を突かれた驚きの一欠片。
目を見開いて王妃を見上げる、その瞳の灰色が揺れていた。
「エイスが死んだのは耳に入っているのだろう? 此れで、我が国の後ろ暗い所を任せていた要所の筆頭が居なくなった訳だ。必然的に、新たな司令官が必要になるな? しかし、其の役職は他の者においそれと渡せる訳が無い。幸い、私が適任と考えている者は二・三名居る。一人はこの国の暗部をよくよく知っており、頭もいいが如何せん根が甘い。一人は狡猾で非情だが、私が扱うには些か手に余る。もう一人は――酒場で暮らした過去がある、先代の死に一番嘆いた実直で扱い易い娘」
「………」
「悲しい娘だ。愚かな娘。一人の男に何年も懸想する純情さを持ち合わせた、ひとりの女騎士。私はなぁ、ディル。以前から考えておったのだ。あの者には、惚れた腫れたと俗人のような戯けた悩みを抱かせるよりも、何処を抉れば人の口が開くか思考する時の酷薄な笑みを浮かべる方が似合うと。……想いに身を窶すと破滅する未来しかない。私は、愛に傾倒し身を崩した女がいると知っているのでな」
王妃の呟きを、ディルは余さず聞いていた。何処から話を切り崩して、先程の発言を撤回させようか。今はそれしか頭にない。
けれど。
「その女は愛を捧げた筈の男に殺された。下らん理由だ。『命令』と、それだけで、あの男は――ダーリャは我が姉を殺したのだよ」
王妃の口から齎された名は、ディルも良く知っている人物のものだった。
「――……!?」
「命令があれば逢瀬を重ねた者も殺す。愛を語った口を二度と開かぬように封じる。ダーリャはそうして我が姉……真珠を殺した。赤酒の姓を冠した、我が祖国ファルビィティスの女王を弑した。そうして得た地位は、『月』隊長の地位の座り心地は如何程のものだったろうなぁ? なあ、ディル。貴様が今座っているその席、そんなに居心地がいいものか?」
王妃は、自分がファルビィティスの女王だった女の妹だと言っていた。
それは王妃自身がプロフェス・ヒュムネという種族だと語ると同義で。
ファルビィティス。
ダーリャから話は聞いていた。かつてアルセンの同盟国として、共に帝国と戦ったという国だ。
しかし其処に住まう種族であるプロフェス・ヒュムネは、他種族を見下し独善的に振舞うことで有名だった。アルセンと共闘していたといえど、その視線はいつも虫けらでも見るようであったと。
帝国と王国は秘密裏に手を組んだ。
ファルビィティスを先に滅ぼしてしまおうと。
それを停戦の証としようと。
それが二国間のみならず、世界全域の国家の為になると。
かつて他国の力によって、ダークエルフがそうされたように。
「……ダーリャの、仔細までは知らぬ。ただ、昔、最愛の人を殺めたとしか。それ故に、二度と誰をも娶る気になれぬと」
「我が姉を馬鹿にするのも大概にしろ、『月』。貴様もダーリャも所詮は同じだ。貴様等は、向けられる想いに胡坐をかいて利用しているだけだろう。貴様も、愛だの恋だの分からないと本気で言っているならばいい加減にあの者を解放してやれ」
「利用などしていない。我は、あの者と添い遂げられるものならそうしたいと望んでもいる」
「それを実際に伝えた事は? その意思をあの者に見せた事は? 関わり無い者へなら口で何とでも言えよう。伝える相手を間違えている時点で信用に値しないのだ。……早く、手を離してやれ。そうすれば、あの者には都合の良い相手を斡旋することも出来よう」
「斡旋……?」
ディルが不快感を押し殺しながら問うと、王妃は漫然とした態度で答えた。
「階石家……宮廷人形師として迎え入れた男のな、息子である暁。貴様の隊に編入しただろう。あの者が、『花』隊長との婚姻と、裏組織の長に就任する事を強く望んでいる。あの者自体は手に余るが、私と『花』隊長が別の手綱を握れば多少は扱いやすくなろうて」
「……それを、了承したと言うのか」
「地位ある女はな、想う相手よりも想われる相手と結ばれた方が良い。妥協と計算と、利己と使命で生きた方がよっぽど実りある生になるだろうよ。少なくとも、一方的に男を想って身を亡ぼすのはあの者には似合わない。安心しろ、あの者は――『花』隊長は、私の言葉に決して否とは言えぬよ」
その時、ディルの不快感は頂点に達した。
『好き』と、ディルに言って微笑む彼女が他の誰かのものになる。
今度は婚約者候補とかいう生易しいものでは無い。彼女の名が功労者の一人として歴史書に刻まれる時にはディル以外の男の名の隣に並び、二度と覆る事はないだろう。
笑顔も、唇も、ディルの知らない躰さえも誰かの眼前に晒される。
ディルは考えるよりも先に体が動いた。
その場を許可もなく立ち上がり、無言のまま腰に佩いた剣を引き抜く。
銀色に光る剣を王妃に向けた。
それは、反逆の意思表示。
「……」
「撤回せよ、王妃殿下。あの者が否と言えぬなら、我が異を唱えよう。我と離れる選択が、あの者の為になるなど有り得ぬ話だ。其の未来を強行しようものなら、我が剣は殿下の首を永遠に狙い続ける」
王妃の様子は一切の変化がない。
一番動揺していたのは、周囲に居る近衛隊だけだ。
近衛隊も抜剣してディルを取り囲もうとしているが、ディルの殺意は近衛隊さえも呑み込んでしまった。
この場に居る全員殺して、彼女を側に居させる方が手っ取り早い。
「殿下の素性になど興味はない。今まで秘匿の裡にあったのならば我が口を噤むことも視野に入れよう。望むなら此れからも我が命と剣を自在に使うがいい。だがあの者を我が傍らから離すというのなら、この場に居る全員の首を狩る」
「っふふ。図に乗るなよ、ヒューマン風情が。私が貴様に後れを取るとでも思うのか? ……あの者の幸せを願う延長に、汝との離別があるとは考えぬのか」
「そんなもの」
王妃の問いの答えに、ディルは返せる答えを既に手に入れている。
「互いが望まぬ離別に待っている未来は、安い自己満足だけであろう。少なくとも、我はあの者と離れる気は無い」
「――……、……。……ふふ、そうか。自己満足。そうか、そうかぁ。貴様は……そう思うのか」
その返答のどこにそれまで動揺する所があったのか、ディルは分からない。
けれど確実に、王妃は声色を変えた。考えてもいなかった世界を見つけたかのように。
王妃が次にしたのは、軽く手を挙げる事。下方に振れば処断開始の合図だが、王妃は中断を示す横方向に振った。
それを見た近衛隊が剣を下ろす。剣を下ろした者を見て、他の者も剣を下に向けた。
「良かろう、ディル。現時点で、貴様は国家中枢の尊き場所にて国家の象徴の片翼へ抜剣した重罪人。此の場で処刑する事も可能だが、貴様の言葉を真実と捉え……一度だけ機会を与えよう」
「……ふん」
「此処へ、『花』を呼んでいる。本当にあの者を伴侶として迎える気があるのなら、衆目があれど求婚くらいは出来よう?」
性根の悪い挑発だ。家族を喪った彼女に、傷の癒えぬその翌日に求婚をしろと。
彼女に求婚しようとしているのは本心だ。けれど、言われてする求婚に何の価値がある。悲しみの淵から立ち上がろうとしている彼女を、今度こそ奈落に落とす事にならないか。
他の事なら惰性で応とも言えるディルだが、この件だけは話が違う。剣を仕舞いこんだディルは改めて王妃に向き直り膝を付いた。その頃には近衛隊も持ち場に戻っている。
「所望ならそのように。しかし、一つだけ希望を述べたい」
「希望? ふはは、貴様が希望などと甘い事を言うなどとはな。これもまた、『花』の成せる業と言う事か? ……して、ディルよ。何を望む」
ディルが告げた言葉でも、王妃は揺るがなかったけれど。
「殿下の言葉があっての求婚ではない。あの者に告げるのは、総て我が意思の元にある。……求婚の折には、無言を貫いて貰いたい」
「ふん。別にその程度希望にもなりはしない。どのような言葉であの者を篭絡しようとするか、拝聴させて貰うとしよう」
王妃は余裕だ。薄布の下で笑みを浮かべているのが声でも分かる。
やがて謁見の間の扉が再び開く。入って来たのは『花』の隊長と――副隊長。
何故ソルビットまで同席する。ディルは動揺していたが、完全に隠しきれるほどには無表情に慣れていた。
「只今御前に」
二人分の口上が述べられる。それから続く王妃と『花』隊長の話など、ディルは殆ど耳に入っていない。
求婚を拒まれることは無い、とは分かっている。けれどこれまでの人生の中で、殆ど感じたことが無い焦燥感が押し寄せるのが分かった。この焦燥感は、『花』隊長が関する事でしか現れない。
拒まれない。拒まれる筈が無い。拒まれないだろう。拒まれたくない。拒まれるかもしれない。拒む。否、そんな訳が無い。
堂々巡りの思考の片隅で、必死で求婚に相応しい言葉を考えていた。こんな事になるならばエンダに聞いておけばよかった。何故騎士隊長には既婚者が居ないのだ。今からでもいっそ唯一の隊長格既婚者である『鳥』副隊長であるベルベグを呼び出し――今は国境ではないか!
ディルには時間がない。それなのに、聞きたくない言葉だけ耳に入って来る。
「今すぐで無くてよい。この国の状態が落ち着いてからで構わぬ。……『j'a dore』の二代目マスターを拝命せよ」
王妃の言葉が頭に響く。
彼女がそれに否を言えないのは分かりきった話で。案の定、『花』隊長は渋々ながら承知の旨を伝える。
何かしらソルビットに関しても言及された気がするが、ディルはそれどころではない。必死に頭を働かせていたディルに、王妃が水を向けるのは直ぐ。
「それから、『月』よ」
わざとらしいまでの声色で。
「――は」
「お主に言うべきことはもう無い。……そして。今ここで、言うか?」
『貴様』と先程まで呼んでいた声が、ディルを尊重するような言葉選びになる。
言わなければ、彼女を他の男に嫁するつもりだろう。言って断られても同じ事。
ディルの一言に掛かっている彼女の運命を、どうにかして最良のものにしたい。
「え?」
僅かに漏れた声は、『花』隊長の音色だ。何のことか分かっていない様子で。
それでいい。
気付くな。
「………。――」
気付くな。頼むから。
格好がつかない。
こんな言葉しか出てこない。
「………」
彼女の側まで歩み寄って、彼女の前で膝を付く。伸ばした手で無理矢理彼女の腕を取り、自分の懐にあったものを掌に持たせる。
特に逆らわずに手を委ねてくれた彼女は状況を把握しきれていない。それまで重ねていた手をどけると、彼女の掌に乗っているのは今朝方買ったばかりの指輪。
「我と、結婚するか?」
こんな直球過ぎる言葉、人生で言う日が来るとは思わなかった。
ディルは内心必死だった。
今直ぐ頷け。喜べ。受け入れろ。する、と、その一言だけでもいい。
妻になれ。
これからを、死ぬまで隣で生きろ。
永遠を誓え。
どちらかの命が尽きるまで、決して離れるな。
「………へ?」
ディルの心情など知らぬまま、求婚を受けた『花』隊長は。
「っ!? ちょ、たいちょー!? たいちょー!!」
掌にあるものが指輪だと認識して、求婚の言葉を聞いた直後。
その場に、表情を変えぬまま後ろに倒れ込んだ。