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ディルも酒場で入浴を終えた。寝間着はアルカネットの物を借りている。彼は今自警団員として働いているらしく、体格はディルと然程変わらないのが幸運だった。
『花』隊長はその夜、酒場に泊まる事にしていたらしい。
ソルビットの帰宅を見送った後、二人は当然のように一室に通される。部屋は酒場三階にある、家具も殆ど無い場所だ。
寝台には寝具が用意されていたが、それだけ。後は小さな机がひとつ置かれていた。
「この部屋ねぇ、昔アタシが使ってたんだ。隊舎に部屋が用意されてから荷物は全部持ってったけど……ふふ、ここにディルがいるなんて不思議な感じ」
寝台にすぐさま転がった彼女の瞳には、もう涙は浮かんでいない。柔らかい寝床に身を投げ出して端に寄る。
ディルも彼女の後を追って、その隣に寝転んだ。一人用の寝台は二人分の重みに軋むが、今直ぐ壊れる事はないだろう。
「……添い寝とか、久し振り……」
枕に頭を乗せて、照れたように呟く彼女。その瞳は涙と疲労で蕩けたようになっていて、瞼が今にも落ちてしまいそう。
狭い寝台だが、ディルはなるべく体を離して寝ている。今の彼女に必要以上に触れると、弱っている心に付け込んでしまいそうになるから。
「そういえば、良くこっちに戻ってこれたね」
「本来なら汝等と共に帰る予定ではあったのだがな。フュンフが国境に来る手筈が整って、到着を待たずに帰って来た」
「そうなんだ……」
何があって急いだのか、伝えるつもりはない。
「でも、嬉しかった。貴方が居なかったら、アタシ、駄目になってたかも知れない」
ディルの言葉をそのまま信じたような彼女は、まだ辛いだろうに笑みを浮かべている。そして、ディルの煩悶を知らない様子で胸に顔を擦り寄せて来た。
ぐ、と一瞬息を呑み込んだディル。今すぐ引き剥がしたいが、彼女を傷付ける訳には行かずに堪えた。彼女の無邪気な好意が今は辛い。
「――汝は、我の有無でどうにかなる女ではあるまい」
冷静に。
冷静に。
彼女の拠り所は自分なのだから、自分が積極的に彼女を穢す訳には行かない。少なくとも、それは今ではない。
いつも通りを取り繕いながら、その背に手を回したディルに、彼女は眠そうな目を一度だけ丸くした。
「なるかもよ。……なって欲しいの?」
「まさか」
育ての親を喪ってこうまで嘆いたこの女が、『好き』であるディルを喪った時――どんな風になるのか。彼女には大事な存在を喪う前例があって、そのうちの二回をディルは近くで見た。
もう、『次』をディルの側で起こさせたくない。
ディルが僅かに首を振って否定すると、彼女は重い瞼をやっと閉じる。けれど、口は未だ完全には閉じなかった。
「そうだね。アタシがそんなどうこうなるような女だったら、きっと貴方も一緒にいてくれなかった」
「………」
「おやすみ。……大好きだよ」
それきり寝入ってしまう彼女に毛布を掛け直し、言われた言葉を改めて考える。
確かに、後ろ向きな者は好まない。過ぎた事をいつまでも思い悩み、挽回の機会を逃すような姿は見苦しいとは思っている。
けれどもし、それがディルを亡くして悲しむこの女だったら。
きっとディルは、好まないどころか――。
「『大好き』、か」
顔にも流れる彼女の髪を手櫛で整えてやり、規則的な寝息に耳を澄ませる。無防備な寝姿はディルにとって目の毒ではあったが、恋人とはいえ寝入る女に手を出すほどディルも畜生ではない。生殺しだが。
「………」
眠ったままの彼女の手を取る。そして思い出すのはエンダの言葉。
――求婚の時には誓いの品を渡すだろ。一般的なのは指輪だな
号数を確認しないと、指に嵌まるものは用意できないと言われた。
それならば、とディルは彼女の指の一本に視線を向ける。眠る彼女の髪を整えた時、ディルの指に絡んで来た髪の一本を指に挟んで。
その細い銀色を、彼女の左の薬指に絡めた。丁度指の付け根を一周する所に爪で髪を折り曲げ跡をつけ、簡易的だが指周りを計る。分かりきっていた事だが、ディルの指より遥かに細い。
計り終えたそれを無くさないように、密かに胸元に忍ばせる。そして彼女の眠りの後を追うように、手を握って目を閉じた。
次の日、まだ夢の中に居る『花』隊長を残して朝焼けが街を染めようとする頃に酒場を出たディル。
執務を言い訳にして街に出たのだが、本当の目的は別にある。
夜が明けきらぬうちにと足早にディルが向かうのは、様々な高級品を扱っている八番街。大通りに面している店は、夜でも警備の者を置いている程価値の高い商品を店に置いている。
その中のひとつにディルは当たりをつけ、店舗に近寄っていく。まだ開店してもいない店の入り口で大欠伸をしていた警備の者が、近寄って来るディルの姿を見て驚いた。
「ディっ、ディル様!?」
「急ぎの用件がある」
ディルには躊躇が無い。そして容赦も。
服や所持品は砦から急ぎで帰って来た時のものと同じなので、腰には愛用の剣を佩いている。それも相俟って、今のディルの姿は立場さえなければ強盗のようだ。
「――今すぐ支配人を呼べ。アルセン国騎士団『花鳥風月』騎士隊『月』隊長ディルが店を開けよと言っていると伝えろ。時間外で別料金を請求しようと構わぬ、急げ」
こちらの都合を優先しろ、と言ってのけるディルは最大限譲歩しながらも、否は言わせない構えだ。
警備の者は顔を青くしながらも、支配人の屋敷まで駆けて行った。
何とか購入出来たものを胸に忍ばせ登城したディルはすぐさま執務室へ向かう。
砦への出発寸前までフュンフは書類を処理していたのだろう、執務はあまり溜まっていなかった。
およそ二か月余りぶりの執務室だ。最初にしたのは、執務机に着いて胸元を探る事。
支配人に無理を言って購入してきた、掌に収まる大きさの箱を取り出した。
「……」
窓の外から入る朝日の光は、箱を開いたその中身を輝きで満たす。壊れものを扱うように、ディルは中にあるものの一つ、小さいほうをそっと指に取った。
飾り気のない銀色。ディルの髪色に近い、細い白金で出来たそれには宝石も石座もついていない。かといって安っぽい訳でもなく、目を引くような清廉さを感じることが出来る。
希少な金属で加工も高難度と言われ、宝石のついた他の金属の指輪よりも高額だった。けれどディルは、ほぼ即決でその指輪を購入する。目的があるので、号数違いをふたつだ。それに時間外料金を合わせると結構な金額になったが、近日中に払うと誓約書を書いて取引は成立。
急ぎだと何度も念を押すと、支配人は何もかもを理解しているというような笑顔を浮かべ、小箱まで付けて持たせてくれた。
『花』隊長に求婚する。
その決意は昨夜、より強固なものになった。
彼女の全てを支えられるとは思っていない。彼女は普段なら転んでも自力で起き上がれる人物だ。
けれど、立ち上がろうとする姿を側で見ていたいと思った。
育ての親の死で彼女が喚いて、泣いて、無様な姿を見せてでもディルに縋った。
彼女が縋れるのは右腕であるソルビットでもなく、ディルだけ。ならば、彼女の一番の拠り所として一緒に居たいと願ってしまった。
この想いが『好き』かと問われれば、もう躊躇わず『好き』だとディルは答えられる。
断られるとは思っていない。……これが平時であれば。大切な人のひとりを喪ってすぐ求婚に応えてくれるかは分からない。
急ぎで指輪を欲したのは、ディルの想いが揺るがないようにする為の事だった。買ってしまえば、渡さないといけなくなる。自分にとっての逃げ道を封じる意味でも、大事な買い物だ。
「隊長」
不意打ちのように執務室の扉外から聞こえた声に、思わず指輪を持っている手ごと胸元に突っ込んだ。ディルが身に付ける筈の指輪がまだ入っている小箱は音を立てないように、机の上にある書類の側に見えないように追いやる。
「入れ」
そして何事も無かったかのように、外に居る人物に声を掛けた。
扉はすぐに開かれる。入って来たのは『月』所属の騎士の一人だ。
「失礼します。……王妃殿下がお呼びです」
「殿下が?」
「今すぐに謁見の間まで来るように、との事。隊長、如何なさいますか」
如何、と言われても隊長職を与っている以上、招集に応えない訳にはいかない。書類仕事をしながら求婚の言葉でも考えようと思っていたディルは、無粋な妨害が入った事に気分が少し悪くなる。
昨日は国王で今日は王妃。いつぞやの婚約者候補の話といい、王家は二人の仲を邪魔したがっているようにも思えて。
「ふん」
ディルが席を立つのを見ると、騎士は安堵の吐息を漏らす。
そして謁見の間に向かう背中に一礼をされ、ディルは無言で執務室を後にした。
王妃が謁見の間で待っていると聞いて、ディルの気は重かった。
以前から薄々感じていたが、王妃はディルの事を快く思っていない。ディル自身も、人に好かれる性格をしていないからだと理解していた。
王妃からはどう思われようと、正直どうでもいい。ディルにとってそれがどうでも良くなかったのは『花』隊長ひとりだけだ。
今になって思い返してみると、王妃は先代の頃から風当たりは強かった気がする。ダーリャはいつも無理難題を言われて俯いていたような記憶が、何故か今蘇った。
そして、ディルは謁見の間に辿り着く。入室を許されて中に入ると、相変わらず全身鎧と兜で誰が控えているのか分からない近衛隊の姿が目に入る。
ディルの侵入が許されているのは、玉座へ続く階段の下まで。四隊長に許された位置で、昨日と同じように片膝を付いた。
「アルセン国騎士団『花鳥風月』、『月』隊長ディル。只今御前に馳せ参じた」
慣れてしまった儀礼。
しかし、この人物に傅くのは少し不愉快だ。
「御苦労、ディル。……、ふふ、姓まで名乗ってこその口上ではないのか?」
「……」
王妃、ミリアルテア。
いつも顔が見えぬよう垂れる薄布で顔を隠し、その表情を読み取らせることはしない。顔を隠す理由を知っている者すら少なく、口さがない者の噂の格好の餌食となっている。
ディルは噂になど興味はないし、王妃がどんな外見でどんな人物であれ仕えるしかないのだが。
「……『月』隊長ディ――」
「良いわ、名は二度も聞きとうない」
「………話は、以上か」
改めて口上をやり直そうとしたディルの耳に、小馬鹿にするような王妃の声が届く。王妃の濃紺を思わせる巻かれた黒髪が揺れて、ディルの怒りはそれに合わせて募っていくような気さえした。
「勿論、此れだけでは無いぞ? 単刀直入に入るのも良いのだがな、何時までも其れでは面白みが無かろう」
「面白みなど、アルセンの尊き座所に坐す王妃殿下に畏れ多い」
「ふうん? ま、面白みが無いのは貴様自身もそうであったな。いやいや失敬、その隊服を見ていると貴様の後見人となったダーリャを思い出すでな、私とて苛立ちが抑えられぬのだ」
ころころと笑う王妃の声に、謁見の間全体の空気が冷えていくようだ。
口数は多いが、ディルに向けた言葉の棘が隠しきれていない。他の隊長格が同席している時はそうでもないのに、ディル単独で謁見している時は隣に国王がいてもこの調子だ。
ディルは別に平気――という訳では無いがその事さえもどうでも良かった。その無気力がまた、王妃の傍若無人さを助長させていたのだけれど。
「ダーリャは今でも殺したい程に憎いが、奴に育てられた貴様も見ていて腹が立つな。本当……『花』は、何故このような男を好いたのか」
「――あの者への誹謗は遠慮願えるか」
「おっと。そうさな、貴様のような男を好いた変わり者とはいえ、私はあれが気に入っておるでな。愉快な女だ。愉快で、仕えさせても悪くない仕事振りだ。……だからなぁ、ディル。私は、あの者をこれから先も側に置いておきたいのだよ」
王妃は、薄布越しでも分かる笑顔をディルに向けた。
声がどことなく楽しそうだ。
「あの者と、関係を断ってくれぬか?」
嬉々とした声色で、まるでそう世界が向かうのが当然とでも思っているかのように。
王妃ミリアルテアは、二人の離別を提案した。