116
何故此処に、という問いかけは後から湧いた。
寒々しい外気に晒されながら、心細そうに一人で泣いている彼女の丸くなった背中は嗚咽で震えている。いつもは威勢の良い声を張り上げている喉が、声を殺して泣いている。
彼女は『花』隊長だ。この国に仕える騎士達の上に立つ四人のうちの一人。
くすんだような濃い銀色の髪を靡かせて、戦地に臆せず立った女騎士。
彼女の背はとても小さい。その背に負った無数の命を庇いながら前を向く女傑。
そんな彼女が、一人で泣いていた。
「――」
涙の理由なんて、分かりきった事だ。
彼女がどれだけ『兄』を慕っていたのか、ディルは知っている。
引き取ってくれた。育ててくれた。心配してくれた。帰ったら温かく迎えてくれる。
彼女が口にする兄への感情はディルに向けるものとは違っていても、かけがえのない存在に抱くものだと知っていた。
知っていても共有できない。その涙の理由を分かち合うなんて無理だ。
その涙を、悲しみを、代わってやりたいのにディルには出来ない。
「――……」
ディルに出来る事は僅かだ。
彼女の名を呼んで、そして振り返った彼女の側に居る事。
恋人が此処に居る事に驚いた様子の彼女は目を丸くしていた。こんなに早く帰城するなんて思っていなかった顔だった。
「……っあ、……ぅ」
言葉にならない呻きから、悲しみが滲む。
「先程、こちらに戻って来た。城で話は聞いている」
「……っ、う、あ」
彼女の頬を統べる涙は後から後から湧き出てきて、顔中くしゃくしゃになる程に泣いていたのに、まだ顔を濡らし続けている。
立てるようにと差し伸べた手には、彼女が縋り付くように掴んでくる。無意識なのか意識的になのか、爪を立てられてディルの表情が曇った。けれど、彼女はそれに気付かない。
「っ、く、……にい、さん、が」
「聞いている」
「だれかにっ、こんな、――――っ」
聞いている。
だから。
その苦しみの理由を、分かっている。
分かっていても、何も出来ない。
「っ、あ、っうあ、あああああああああああああああああああああっ!!!!」
彼女の慟哭は響き渡った。道に沿って建つ建物が慟哭を反響させ、五番街全体に届くのではないかと思うほどだ。五番街全体は無理だとしても、近隣に住む者の耳には届いただろう。この声を聞いて、彼らは何を思うだろうか。
泣いて、泣いて、それで彼女の苦しみが癒えるなら幾らでも泣いて欲しかった。
立てられた爪に力が籠ってディルの肌から血が滲もうと、彼女の痛みに比べれば些細な事だ。
「たす、け、て。……たす、けてっ!」
初めて、彼女がディルに助けを求めた。
どんなに、誰に無様を見せても強がっていた彼女が、助けを求めて泣いている。縋るような声色を、ディルは初めて聞いた。
彼女が見せた表情に、胸部を息も出来ない程に絞るような痛みを感じる。
「あたし、こん、な、くるしいっ。くるしくて、くや、しい!! なんで、にいさんなの!? あのひとが、なんでしんだの!? あたしの、みらいの、はなしまで、しといて、どうして!?」
悲哀が彼女の口を突いて出てディルの鼓膜を揺さぶる度に、ギリ、ギリ、と胸が締め付けられる。その感覚の理由が分からなくて、けれど困惑しつつも痛みを受け止める。
彼女の苦しみが、視覚と聴覚から侵蝕してくるようだ。直情的な彼女の悲しみを正面からぶつけられ、ディルの心にも変化が訪れる。
彼女の身を案じていただけの小波が、次第に水煙を伴って大きくなる大波のように。
向こうに光る遠雷が、やがて近付いて来て轟音を側で鳴らすかのように。
この嘆きに、何がしてやれるだろう?
けれど先に、彼女自身の体に害のある行為は止めなければならない。
叫ぶ声は掠れてきている。胸の内を吐き出す声量と、冷たい空気に気管が耐えられないのだ。このままでは、喉が潰れてしまう。
ディルは僅かな時間で考えて、悩んで――そして、手を離した。
「――え」
彼女の放心したような声を、ディルは永遠に忘れることが出来ない。
心の拠り所の一人を喪ったと思っている最中に、『好き』を向けたディルから拒まれたと思ったかも知れない。
けれど、そんな訳がなかった。
「すまぬ」
拙い謝罪は、この短い時間で必死で考えたディルの本心だ。
国王とディルが抱いている、本当にエイスが死んだのかという疑念を伝えられない事。
その悲しみに寄り添えても、悲しみ全てを完全に理解出来ないディルの胸中。
そして一瞬でも、この女が裏切っているかも知れないという仮定を立ててしまった自分の罪に。
月が雲に隠れて地上を照らさなくなった。更に深く暗い闇に閉ざされる世界で、ディルは力を込めて彼女を抱き締めた。
籠める力を加減できない。それで彼女の胸の痛みが、今だけは紛れてくれるよう祈るしかない。
「……我には、汝の悲しみを癒すことが出来ぬ。寄り添えても、それだけだ。それでも構わぬのならば、幾らでも我が腕で泣け」
そう言ったのに、彼女はそれきり声を荒げるのを止めてしまった。しゃくり上げるような音はまだ聞こえるが、抱き締める腕にディルのそれよりも小さな手が穏やかに添えられる。
「………やくそく、したのにね」
「……ああ」
「また、いっしょに、にいさんのところ、行こうって。出陣前、会いに行けばよかった。見送りに来てくれたのに手を振ったのが、最期になって。兄さんに、まだ何も返せてない。アタシがアタシとしていられるのは、兄さんのお陰で、兄さんは、こんなアタシを可愛がってくれて。これまでしてくれたことに、恩返しも全然出来てない。いつかしよう、しよう、って、ずっと考えてたのに。でも」
この小ささで、彼女が抱える感情はディルのものよりも遥かに多い。
悲しみも、喜びも、彼女を形作る全てがディルには眩しく見えた。それは、ディルが彼女を気にするようになるずっと前から。
「……いなくなっちゃった。兄さん、なんでもういないの」
苦痛と悲しみで曇る彼女の瞳は見ていたくない。
「……汝のせいではない」
ディルの口から出るのは、気休めにもならないような言葉ばかり。なのに彼女は、言葉を受け止めては静かに涙を流す。
流石に苦しいか。ディルがそれまで強く抱きしめていた腕の力を緩めると、彼女は立ち上がると同時にそれを引き留めるように服を掴んだ。
「お願い……今日は、一緒にいて欲しい……」
視線が絡んだ。
悲しみで潤む瞳での懇願に、ディルが言葉を失う。
「一人でいると、どうにかなっちゃいそうだから」
その懇願が、彼女が救援を求める手段の一つだと分かっている。だからディルには頷くしか出来ない。
彼女が服を掴む手を解かせて、指を絡めて握った。無言で彼女の手を引いて、一番手近な場所を脳内で考える。
「え、そっちは」
彼女の声に滲む動揺など知らない振りだ。向かうのは、ほんのすぐそこにある、主を喪ったばかりの酒場。
扉を開くと、中に居た人物たちが驚いたようにディルと彼女の登場に目を見開く。
中に居たのは四人。その中で、ディルが知っている顔が一人だけいた。
「……うわーお」
その知っている顔であるソルビットが、二人の繋がれた手を見て冷やかしとも動揺とも取れる声を出した。
ソルビットを含めて女が三人、男が一人。黒髪のその男と『花』隊長の関係性を知らぬディルは冷ややかな視線を送る。男は目に見えて狼狽していた。
「誰だ」
「……お前こそ誰だよ、そいつと何の関係があって此処に来た。今は献杯の最中なんだが」
不愛想な問いへの返答は、明らかに気分を害したと言わんばかりの嫌味。あの、その、と『花』隊長が間に入ろうとするが睨み合う男同士は彼女の方など見ない。
「『月』隊長、こっちはアルカネット。エイスさんがたいちょーと別に引き取った元孤児っす。んで、アルカネット。こっちは騎士隊長の一人、『月』のディル様っす」
「騎士? ……その騎士様が何の用だ」
「元孤児? ……用が無くては来ては成らぬと? 我も店主には関わりがある。献杯の邪魔などするつもりはない」
二人の初対面の印象は最悪だ。あちゃー、と『花』隊長の口から声が漏れる。
アルカネットと言われた男の視線は次に、二人の間で繋がれた手に向かった。
「……!?」
「んで、二人は恋人同士っす」
「は!? お前、この前まで嫁き遅れの代名詞だっただろ!!?」
「しばき回していい?」
鼻をすすっているが『花』隊長も真顔だったので、二人の仲は良いとは言えないかも知れない。
ディルの視線はまた別の方に向かう。カウンター側に居たのは二人の女だ。その二人も黒髪で、後頭部で縛るくらいには長い。
上下共に緑色で合わせた衣服を着た女は、ディルを見て目を伏せ礼をした。もう一人は紫に近い一枚着を纏っていて、少女と言っても差し支えないほどに幼く見える。瞼を何度も開閉させ、初めて見るディルの姿を観察しているようだった。
「初めて御目に掛かります、ディル様。私はオルキデ、こっちは私の妹でマゼンタと申します。二月前よりこちらで働かせて頂いています。貴殿の御活躍の噂はかねがね聞いておりました」
「噂?」
「………。はい」
オルキデの表情が暗くなる。誰から聞いた、なんて今聞くほどディルも野暮ではない。
『花』隊長の表情も暗くなる。しかしその心中を誤魔化すかのように、無理に笑顔を作って見せた。
「……泣きすぎちゃって。頭冷えたらって思って外に出てたけど、ちょっと、寒いなって」
そう申告する声さえもまだ震えている。皆が皆、その心中を思って一度押し黙った。
「……お風呂、準備できています。お先にどうぞ」
「ありがと」
オルキデの案内に、彼女は躊躇わず浴室のある方へ歩いて行った。足早なのは、涙を堪えているからか。
一人場違いな場所に残されたディルは、適当なカウンター席に腰掛けることにする。するとマゼンタが茶を前に置いてくれた。
「……にしても、随分早いお戻りっすね。まだ兄貴は砦にも到着してないんじゃないかって思ってたっすけど」
「………」
「何かあったんすか」
ソルビットの問いに返せるものは無い。それでなくともエイスも国王も秘匿の話をディルにしたがる。この数日で、抱える秘密が更に増えてしまった。
オルキデから出された茶は温かく、若草を思わせる緑色をしている。普段飲んでいるような紅色ではない。いつぞやにエイスから出されたものと同じだろう。
「ソルビット、明日の『花』の執務だが」
「……たいちょーは、朝には城に戻る気っすよ」
「戻る……? あの状態でか。馬鹿な、無理であろう」
「たいちょ、言ってたっす。何かしてないとおかしくなる、って。今のたいちょーに必要なのは、鬱々としながら休むことじゃなくて、別の事で気を紛らわせる事だと思います。……勿論、それは仕事じゃなくてもいいんでしょうけど?」
ソルビットが頬杖を付いて横目でディルを見る。
「たいちょーは、貴方じゃないと駄目なんですよね。あたしじゃなくて、ディル様に『助けて』なんて」
「……聞こえていたか」
「聞こえるでしょ、声も近かったし。……こんな静かな夜にあの叫びが聞こえないなんて、耳の穴足りてない奴しか有り得ない。あーあ、これまであたし、たいちょーのこと一番側で支えてた自信あったんだけどなぁ」
ソルビットの手元にある酒の入ったカップが、氷の音をさせる。揺らされた中から水音は殆どしない。顔色を変えずに飲んでいるソルビットは、最後の一滴さえ残さないように煽った。
「ねぇ、ディル様。あの人のこと、よろしくお願いしますね。色々足りない頭のひとだけど、貴方の事大好きなのは本当なんで」
そうして向けて来る笑顔は、冷笑混じりのものではなく。
悲しみさえ交えた、輝く笑顔で。
初めて見るような屈託のない笑顔に、ディルはすぐに返事をしなかった。言葉が出たのは、茶で口を湿らせてから。
「……不義理は犯さぬ」
素っ気ない返事にも関わらず、ソルビットは笑っていた。