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砦から北上する形で城下に向かう。途中での休息も必要以上には殆ど取らぬまま、地を駆け抜けた。
ディルがやっとの思いで城下に到着した時、時間はもう夕暮れに染まっていた。直ぐにでも五番街へと行かなければならないと思っていたのに、城下と外を繋ぐ門の番人に足止めを喰らってしまう。
「……我が誰かと分かっているのか。『月』を統べる隊長である。今後路頭に迷いたくないのであれば、即刻我を通せ」
威圧も通じない。
いや、通じないのではなかった。門番も門番で、別の理由でディルを足止めしていたのだから。
それが分かるのは、門を通れぬまま待合室で三十分ほど待たされた後。
「……ディル様、申し訳ありません。私共とて不本意なのですが、陛下からの御命令が下っておりまして」
「指示?」
「仔細は私共の口からはお話しできないのです。緘口令が……敷かれております故に」
広めの待合室では、城下へ入れず困惑している人影も多かった。その全員がディルの事を知っているのか、物珍しいものと遭遇したかのように横目で見ては気まずそうに目を逸らす。
珍獣にでもなった気分だ。部下も居らず、一人で衆目に晒されるのは久し振りの事。
こうしている間にも、ディルの体の中を駆ける嫌な予感は消えてくれない。
「ディル様、先程王城から出頭命令が下りました。国王陛下がお待ちです」
「出頭だと? 我は逃亡などせずに城下へ戻ったまで。砦に居る他の隊長格も知っている。其処に問題などある筈が」
「……違うのです」
表情が暗い門番は、声を潜めた。
「……城下に、重大な問題が発生したのです。ですからどうか、城へ向かってください」
どうやら、何かを糾弾されるための出頭ではない様子。ディルは逡巡したが、騎士隊長である以上その要求には応と答えるしかない。選択肢など用意されていない。
これまで休憩を幾度も挟んだといえど、急使のように走らせたディルの馬は疲労で調子が悪そうだった。この場に残していくことにして、城までの代わりの馬を受け取って門から城まで続く城下の道を走らせる。
重大な問題、と聞けばディルの思考がまた巡る。巡らせたところで、行動を制限されていては何も出来ない。
ただ、祈る。
恋人が無事であるようにと。
「エイスが死んだ」
そして通された謁見の間で、ディルの嫌な予感は半分当たってしまう。けれど、漠然と予想していたものよりも違う現状が伝えられる。
その場で国王から告げられたのは、『花』隊長が兄と慕う男の死亡。
肩膝を付き頭を垂れる、その背中に冷たいものが這っていく感覚。
謁見の間の玉座には国王が座っていた。壇上でディルの頭部を見つめている瞳は、アールヴァリンのそれを思い出させる深い海の色。
「この国の後ろ暗い部分を任せていた男が死んだのだ、しかも他殺体。犯人は――見つかっていない、という事になっている」
「畏れながら」
ディルが俯いたまま、発言の許可を伺う。国王は黙ったままで、可はそれで判断した。
無言でその場に立つ近衛隊は微動だにしない。二人の会話に口を挟むことも許されない。
「本当に、あの者が死した証拠は」
本当に、あのダークエルフが死んだのか。
あのような意味深長な文面をディルに託して死んだのは何故なのか。
殺されたとするなら、誰が殺したのか。
ディルの中にある疑問は、一度に問い掛ける事ができないし国王にも答えられないようなものもある。だからひとつずつ、疑問を口にしようとした。
「死んだ。……我が王妃の妹が確認したそうだ」
「妹――?」
王妃の妹という存在はディルにとって初耳だった。
国王の妻として王妃殿下の座に君臨する女の素性は、余程近しい者以外知らないからだ。噂では、どこぞの国の隠し子だとか、昔に国王の命を狙った間者だとか、そんな噂は聞いていた。しかしディルは噂などには興味も無く、今までで知ろうとしたことも無い。
すると国王はそっと手を挙げ、その場にいた近衛隊全員を退出させる。残ったのは、国王とディルの二人だけ。
「……ディルよ。以降私が話す内容は、誰にも告げぬと誓え」
「御意に」
「其方の口の堅さは信用しておる。……老いさらばえるのは、民も王も変わらぬな。其方のその人形のような愛想の無さが、昔は不愉快に感じた事もあるが……老いた今では、不変のようなものに見えて、悪くない」
国王が、それまでの為政者としての威厳ある振る舞いを僅かに緩めた。少しだけ緩めた唇は、同世代の男が見せる笑顔と何ら変わらない。
「ディル。エイスが纏めていた『j'a dore』がどういう組織か、其方は知っているか?」
「……、アルセンに害を成す者の処罰、処分。解体が自在なように少人数で闇に潜む、国の暗部だと」
「概して言えばそうだな。……では、あの組織の成り立ちを考えたことがあるか」
「成り立ち?」
「我がアルセンが、本当にあのような暗部を抱えなければならないような国だと思うか?」
ディルの口から言葉は出なかった。けれど表情には、どういうことだ、と疑問が浮かんでいる。
この国は自由国家と呼ばれている。自由を履き違えた者が悪事を働き、そして国家が自由の名を汚すことを望まないから、王家が裏で手を引き悪を誅滅する組織。ディルにとってはそういう認識だった。
恐らく、ディル以外も同じ認識だろう。現に、ダーリャからはそう聞いていた。
「エイスはな、今より五十年も前に大罪を犯した者だそうだ。先々代がそう言っていた」
「……大罪、とは。ダークエルフが暗部に身を窶そうとする程のものとは、我には思い至ることが出来ぬ。ダークエルフという種族にとってヒューマンとは、周囲を飛び回る羽虫程度にしか思っていないのではないか」
「さてな。五十年という時間はヒューマンの命を軽々と奪っていく。若者や幼子の記憶は風化し、当事者たちの体は既に土の下だ。エイスが暗部に身を置いたのは、贖罪の為かそれとも彼奴の気まぐれか」
「贖罪など、本人の意思で放棄できるものを陛下は信用していると?」
罪の意識など、自分が持たず移ろい易いものをディルは本気で信じていない。
すると国王はディルの言葉に首を振った。力なく、緩やかに。
「我々は、屍の上に立つ存在だ。そしてまた、この私もいつかは誰かの礎として死ぬやも知れぬ。屍になったもの、今から屍と成そうとするものに目を向けすぎて、疎かにしていたものは山とある。……エイスの件がその中のひとつだ。……ディル。私は、今回のエイスの死の報は良くないものを呼び起こす気がするのだ」
「良くないもの、とは」
「……私が言葉にすると、それが現実となりそうでな」
国王――ガレイスは、外に聞こえぬようにか静かな声で告げる。
「かつて、エイスの所で誅殺の任務に付いていた人物三名が、数年前に国外へ出ていると密告があった。各国を流浪し、今は帝国に居るという」
「――……」
「エイスは『j'a dore』を秘密裏に解体しようとしていた様子も見られた、と。その証拠に、今はあの酒場に奴の配下は誰も居ない」
「……アルセンを裏切ろうとしていた?」
「分からぬ。だが、その可能性はある。成れば、関係性の深い『花』隊長の身柄も拘束して事情を聴取せねばならぬ事態になるやも知れぬな」
「あの者が裏切るなど有り得ぬ!!」
ガレイスとは対照的に、弾かれたように顔を上げ声を張るディルの声。
その声を初めて聞いたガレイスは目を見開き驚いた。感情が希薄だったこの男が、ここまで焦る事など有り得ない話だというのに。
必死な姿のディルは、ともすれば内情を知っていてそれが露見されぬよう焦っている、裏切り者の一人のように見えるかも知れない。けれどガレイスは、それを本心と捉えて僅かな笑みを浮かべた。
「……私とてそう思っている。あの者が、これまでの長きに渡り我等を謀るなど出来る筈も無い。四隊長の中で言えば、あの者が一番実直だ。だからこそ、あの者がもし裏切ったらと思うと恐ろしいのだ」
「有り得ぬ。我が首と引き換えに誓っても構わぬ、『花』がこの国を、陛下を裏切るなど決して無い」
「分かっている。分かっているのだ、ディルよ。しかし私は、あの者に裏切られても仕方ない事ばかりをしてきたやも知れぬ。この疑心は、我が胸中を苛んでいる。エイスの死の報が、我がアルセンに垂れ込める暗雲を色濃く見せて来ている気がするのだ」
ガレイスはその言葉と共に俯いて頭を抱えた。王が臣下の前で弱音を吐くなどあってはならない事。しかしガレイスは呟きを止めない。
ディルの耳にまで届く声での言葉のひとつひとつが、ディルの悪寒を強める。
「……エイスの死体は、既に荼毘に伏されたと聞いた。……早すぎると思わぬか、ディル? 『月』である汝なら、その異常さに気付きはしまいか?」
「早い? ……エイスの死が確認されて荼毘までの時間は」
「一晩だ。昨日夕刻に、死体が発見された。荼毘は今朝方だ」
「……!? 否、通常ならば荼毘まで時を置く。葬儀より荼毘を優先したというのか!?」
「その荼毘を決行したのは、近隣に住む者達だったそうだ。……いや、何故……春が近いと言えど、死体の痛みは夏とは比べ物にならない。だというのにこれ程までに荼毘を急かした理由は何なのだ……? そもそも」
ガレイスの疑問が口から溢れ出るのを、ディルは聞いてしまった。
「エイスは、本当に死んだのか?」
ガレイスの口は、それきり閉じられてしまう。そのままガレイスが玉座から立ち上がる。そうなってしまっては、ディルとて質問を続けることが出来ない。
先に謁見の間を出たのはガレイスで、それからほどなくして近衛隊が謁見の間に戻ってくる。
無言の退出を促す圧力に、ディルもその場を後にした。国王の様子も気になるが、一番の不安要素があるからだ。
エイスの死。
早すぎる火葬。
ギルドメンバーの出奔。
王妃の妹。
エイスの遺した信書と、その文面。
ディルの中に疑問が渦巻く。状況整理と論理的思考は得意ではない。何か問題が発生すれば力技で解決するのが彼だった。そういった事は全てフュンフに任せている。
今回の件は力技でどうにかなるような事柄ではない。そして今、フュンフは近くに居ない。
城の中には、『花』隊長の姿は無かった。誰に聞いても、皆一様に視線を逸らして知らぬと答える。知らない筈がないのに。
五番街へ向かおうと王城を出た頃には、日は既に落ちていた。
「……冷えるな」
もうすぐ春だというのに、月と星を疎らに隠す曇天の空は冷えていた。遅い雪が降るかも知れない。気温にディルの肌は鈍感だが、失った右足は僅かな痛みを訴えている。
『花』隊長が今いるとすれば、五番街以外は有り得ない。急いで行かなければならないと思う焦りと、少し状況を整理したいと考える冷静な思考が相反してディルの速度を緩めてしまう。
『花』隊長が身内を殺すなど有り得ない。
荼毘に伏したのが真実にしては早すぎる。
今までギルドに居た者達は本当に帝国に居るのか。
王妃の妹とは誰になる。
『殺してくれるかい』とまで書いたエイスは何を知り、何を思ってあの文面を書いた?
考えても考えても堂々巡り。やがて五番街へ着くが、いつもはまだ夜でも人通りがある筈の場所には人の気配がなかった。
住人が一人死んでいるのだ。それも、殺されて。住人に何処まで情報が伝わっているのかは分からないが、その時はまるで近隣住民が犯人の潜伏から身を守ろうとしているように家の中に閉じこもっているように思えた。
静かな場所だ。その静寂にあてられたのか、空から白い結晶が降って来る。雪だ。ふわふわと、風に乗って揺れ落ちる春間近の儚い結晶が、ディルの高い鼻先に落ちて消えた。
「……」
その時までディルは、『花』隊長がどんな思いで今を過ごしているのかが気になっていた。
いつも底抜けに明るい彼女が泣く姿を最後に見せたのは、先代の『花』隊長が死した時では無かったか。
今の彼女は泣いているのだろうか。苦しんでいるのだろうか。
それとも本当に裏切りに与していて、エイスの死に何かしらの想いを抱いているのではないだろうか。
巡り続ける考えは、次第に悪い方向へと向かっていく。彼女を信頼している筈のディルが、万が一の最悪な事態を考え始めた。
考えて、考えて、もし彼女が本当に裏切っていたとしたら、と、何度も何度も自問して。
そうしているうちに、五番街の裏通りへと足は進む。もう少し進んだら、彼女がいる筈の酒場がある。
空の白と夜の黒と、灯りの無い通りの闇は雲間から出てきた月に照らされて。
その中に蹲る灰色を、ディルが見つけた。
灰色は人影をしていて、時折身を震わせて小さくなっている。
小さな、小さな、ディルの恋人。
「っ……く、ひく、っく、……っ……う……」
道の片隅で膝を抱えて幼子のように泣いている、『花』隊長を見つけた。