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『花』率いる部隊が砦に駐留してからというもの、帝国からの嫌がらせはすっかり成りを潜めた。
夜は静かに安眠できる日が増え、隊員の過負荷状態が減っている。
駐留人数が増えた事による威圧効果が出たのではないか、というのがソルビットの見立てだ。人数が少々過剰すぎて、交替で帰城させる予定も立てているほど。
城に居る『鳥』とは二日に一度の定期連絡とは別に、週に一度は編成の連絡も交換している。緊張状態にあるとはいえ表立った争いも無いのでは、帝国に圧を掛けられるだけの人数がいればいいという考えのもと適正人数を絞り込んでいる。暫く砦に駐留していれば、緊迫した状況の砦暮らしに適した人材も判別できるのもあるが。
適していない、と判断された者は遠慮なく城下に送り返されていた。尤も、不慣れな状況に弱音を吐く者など殆ど居なかったが。
特に娯楽もある訳ではないディルの砦暮らしも、もうすぐ一か月になる。
「獣?」
その報告をディルが受けた時、ディルは自分に振り分けられていた部屋に居た。
『花』の隊長と副隊長とディルで、司令として起きている時間を交代制にしているのだ。深夜帯を含めた日の沈んでいる時間はエンダやフュンフがいた時と同じようにディルが起きている。もうそろそろ起きるか、と思って寝台に座って起床準備をしようとしていた頃に『月』隊所属の騎士が報告にやって来た。
裏の森で獣が出現。これまで気配を感じれば逃げるものと違って、今度は確りと姿を現した、と。
別にディルが受けるべき情報でも無かった。聞き流してそれで終わり、でも良かったのだが。
「……『花』隊には伝えているか?」
「いいえ。隊長が起きていらっしゃるかと思い、先にご報告させていただきました」
「『花』は何処にいる」
「今は御二方とも会議室にいらっしゃいます」
ディルはふと、食糧事情について考えた。食料は定期的に砦に届くようになっていて、それに関して今まで不平はディルの耳に届いてはいない。しかし肉類は全て干し物が多かったような気がしていた。生肉を調理したものを最後に口に入れたのはいつだったか。新年祝いに『花』が用意したものが最後だった気がする。
威嚇して森の奥に逃がすのも良いだろう。しかし、万が一この砦を襲撃して来たら面倒だ。その上、肉を調達するいい機会かも知れない。
「……我が話をして来よう。報告ご苦労だった、カンザネス」
「勿体無いお言葉。もし向かわれるのでありましたら、自分もご一緒出来ればと思っています」
カンザネスという名を持つその男は、勤勉で実直な男だ。赤錆のような髪の色を持つ神官騎士の一人。彼の同行があるのなら、狩りも難しくはあるまい。ディルはそう思いながら寝台から立ち上がる。
着替えると言えばカンザネスは退室する。誰も居なくなって、気配も消えた頃に着替えを始める。いつも着ている『月』の神官服ではなく、それと形を合わせた作業服。無駄な飾りの一切無い、体の線に合わせて張り付くようなものだ。
上手く狩れたら、『花』隊長に焼いて貰えばいい。彼女の料理は、何でも美味しいから。
ディルの思考は、狩りの後の食事に向いていた。
これまでは何を食べても同じだとさえ思っていた男だったのに。
「獣? こんな冬に?」
「食糧不足か、この空気に当てられて巣穴から出てきたか……。肉はこちらとしても貴重な食料だ、仕留めてくるかと思ってな」
そして会議室に居た『花』の二人にその話を持って行った。案の定、耳に入ってはいないようで驚いた顔をしている。
「手隙であるなら、我と来るか」
それは口にした時は、別に他意はない言葉だった。
体を動かすのが好きだと言っていた彼女が、外に出て狩りでもすれば気は紛れよう。空気が肌を刺すような張り詰めた冬空に身を晒して、灰茶の瞳が先に見る得物に向け弓を番える彼女の姿を久し振りに見たかっただけだ。
「え、いいの?」
「何度も言っている、我は冗談も嘘も不得手だ」
乗り気だった彼女の笑顔を掻き消したのは、ソルビットの言葉。
「ちょっと待ってくださいよ、隊長二人も抜けたら困りますって」
それは、確かにそうだった。
隊長が二人とも起床時であるというのに司令を副隊長に任せる訳にはいかない。食糧事情に急ぎで必要でない狩りは遊興の扱いになるからこそのソルビットの注意だ。案の定、その注意に『花』隊長は目に見えて落胆する。
「何があるか解らないんっすからね。最終決定はどっちかが下して貰わなきゃ困るんす。たいちょーくらいは居て貰わないと」
「う……、そ、そうだな」
ディルも、それ以上は何も言えなかった。来いと強くは言えない。
「そうか。……では、行って来る」
「いってらっしゃい」
残念そうな笑顔を浮かべて手を振る彼女を肩越しに振り返り、軽く頷いて見せる。見送りという行為にこれまで特別な感慨を抱いた事は無いが、彼女に個人として見送られるのは悪くない。
会議室の扉から出て、そこで漸くディルに僅かな悲哀が胸に滲んできた。この悲哀自体も、あまり感じたことが無いものだ。
本音を言えば、彼女と一緒に外へ出たかった……など、言える筈も無い。
「お見事です、隊長! これで二頭目ですね」
カンザネスを連れて森に入り、運良く直ぐに二頭の猪を仕留めることが出来た。
寒さが穏やかなせいか、それとも本当に緊張状態の砦の空気にあてられたのか。猪はそれなりに丸く太っており、森の木の実や果物の実り具合を感じさせる。今は寒々とした冬の気配だが、秋には物悲しくも美しく華やかな森だったのだろう。
森の中でも開けた場所で、仕留めた猪の血抜きを始める。持ってきた縄を使って木に吊るし、同時に臓物の処理した。カンザネスは処理の直前に神への祈りを捧げていたが、ディルはそれさえせずに黙々と捌いていく。
カンザネスはそれなりに解体に詳しいようで、血抜き後の始末の仕方と臓腑の切り分けも行った。一先ず下流で簡単に洗ってから砦に運びます、と言われて先に彼は荷台に乗せて行った。ディルはまだ狩りを続けるつもりでその場に残る。
剣についた油と血は簡単に始末した。運が良ければあと一頭くらいは、と思って森の奥に視線を遣る。大人しく冬眠している獣には用は無いから、起きている獣で、叶うなら熊がいると良い――食い出も屠り甲斐もある。
また新たな獲物を探しに歩を進めるディルの耳に、木の枝が揺れる音が届いた。
「……?」
栗鼠か、とも思った。しかし音は断続的に、違う木から聞こえて来る。
上に視線を向ける。葉を落とした木々の枝の間から、ほんの一瞬黒い影が見えた。それは誰かが乗れば折れて落ちてしまいそうな細い枝の上だった。
黒い影はその一瞬で姿を消した。次に音が聞こえたのは、地上の茂みからだ。
『怪しい影を見た』という報告が上がっているのは知っている。それがこれか、とディルが悟り、剣を持ち直した。普通に振るう時のような握り方ではなく、投槍を持つ時の形に。
距離は歩幅二十歩分。
風、無し。
足場、良し。
「『疾』」
振り被ったディルはこれまでよりも特大の歩幅で次の一歩を踏み出し、手にしていた剣を全力で投げた。ただ一言漏らした言葉に呼応するように、剣に嵌め込まれている宝石が光を放ちながら空気を裂き飛んでいく。小さな球を投げたような動きだが、その剣は球などとは比べようもない程に重い筈なのに。
茂みに飛び込んだ剣は、葉擦れの音を最後に静かになった。影も何も出てこないのを見たディルが、歩みながら取り逃がしたかと考えた。断末魔も聞こえないのだ。
近寄って、茂みを手で掻き分ける。剣は思ったよりもよく飛んで、向こう側の木の幹に刺さっていた。
「………」
ディルが茂みで見たものは、人のようだった。随分背が小さい、と思っていたら足らしきもの二本が転がっている。しかし血溜まりは疎か僅かな血痕さえも無い。
その小さな人は、水色の髪をしていた。側頭部で結んだ髪の上に小さな黒色の帽子が乗っている。そして着ている服は黒色のワンピースドレス、裾の形状はバルーンと名が付いているがそれをディルは知らない。
子供だった。その子供が、腕だけでその場を動こうと地を躙っている。滑稽を通り越して奇妙に見える姿だが、ディルには笑みも浮かばない。
「何処の差し金だ」
このまま逃がしてやるつもりは一切ない。
先に木に突き刺さっている剣を引き抜いてから、何とか動こうとしている子供の背を踏み付けた。案の定、呻き声も聞こえない。
「……ピィは、……マスターの指示に従ってい、ます。今、ここに、いるのは、マスター、が、国境を、見張れと」
「ピィ? ……それが汝の名か。マスターとは誰の事だ」
「マスター……マイ、マスター……。ピィは、失敗……しま、した」
か細い声で呟くように助けを呼ぶ子供をそのままに、ディルは切り落とした足の方に視線を向けた。白と黒の縞模様をしている靴下ごと裂いた足の断面図に、肉らしいものは確認できなかった。それどころか、骨も無い。あるのは木目だけだ。
断面が木目であるなら生き物では無い。痛みを訴えない子供の姿と、マスターという呼称にディルは思い当たる節が一つだけある。
『人形』だ。
そして人形を扱う一族を知っている。
「マスターとは、階石の事か?」
「……回答不能。黙秘、するです」
「その黙秘は肯定と同意だ。答えねば重量が更に軽くなるぞ」
人形には通用しないと知っていて、剣の切っ先を人形の左腕に向ける。案の定人形は情報を伝えようとしない。生き物相手には拷問行為でも、生き物でない相手には痛みでは脅せないのだ。
「国境を見張れ、と言われたのか。生憎と、階石にそのような権限は無い筈だが」
「………」
「見張って何とする。階石にとって何の役に立つというのだ。……如何な宮廷人形師としても、越権行為に思うが? そして我は、この越権行為に対して事故を装い貴様を処分することも可能だ」
「ピィが、今、ここにいるのは、ピィの独断。マスターは、関係、ないです」
淡々と。義務的に。猪を処理した時と同じように、人形の腕に向けて僅かに剣先を引き上げた時。
「『月』隊長、ディル。ピィは、マスターの、憂慮を、晴らしたいです」
それまで黙っていた人形が口を開いた。
人形はディルの事を知っているようだった。マスターが階石だとすると当たり前だが。
「憂慮?」
「マスターは、悲しんで、いるです。マスターは、ずっと、想っていた、人、いたです。ずっとずっと、ピィ達にも語って、聞かせていた、好きなひと。貴方が、奪ったと」
「……」
ディルの中で、マスターとやらが誰なのか特定できた。
暁だ。『花』隊長に以前から片想いをしていたという話は本人から聞いていた。彼女を妻にしたいという世迷言と共に。
奪ったなど、被害者意識も甚だしい。彼女は自分からディルに想いを告げてきたのだ。力尽くでディルがどうにかした訳ではない。苛立ちのままに剣の切っ先の位置を調整し、そのまま力任せに振り落とす。
手に斬撃の反動が返るが、そんなものではディルの力が緩む訳はない。切り落とされてごろりと転がる人形の腕が視界に入るが、互いに声は漏れなかった。足の時と同じで、血は一滴も流れない。
「……あの者が『好き』なのは我だ。我のみだ。暁に想いを向けていなかったからこそ、あの者は自ら我が恋人となる事を選んだ。奪った訳がなかろう、もとよりあの者は暁のものではない」
「マスターは、あの方を、あいして、いると。だれよりも、あの方を、あいせるのは、じぶんだと。ピィにとって、マスターは、世界そのもの。ピィの世界が、そうあることを望むなら、ピィはその望みを叶えるだけ」
「下らぬ」
ディルの剣先が、最後に残った腕に向く。
暁から直に世迷言を聞いた時もそうだったが、『花』隊長に向けられる暁の想いを聞く度気分が悪くなる。
彼女は、ディルの恋人だ。その現実は、何を以てしても変わらない。
「話の通じぬ人形は、不良品に他ならぬ。我が手で廃棄されぬ事を幸いと思え、貴様等のマスターとやらの父への義理に免じて、完全に破壊せずにいてやろう」
「自分が、ヒューマンだと、思ってるですか――ピィたちに、近い存在の癖に」
腕を切り落とす寸前に僅かに上げられた剣先が、その言葉で止まる。
「ヒューマンが人形師に足のお世話をして貰うことなんてないです。自らを異端と認めるのは恐ろしいですか、罪悪感を抱かず命を奪うことを楽しんでいるあなたは、それだけで異端です。ピィ達と同じ、心が無い」
「黙れ」
「貴方では、あの方を、『花』隊長を、幸せにできない」
警告はもうしない。潰さんとするほどに踏み付ける足に力を込め、唯一残った腕を斬り飛ばした。
四肢を失った人形は、一度痙攣するように全身を震わせ、やがて動かなくなる。その動作はまるで生き物と同じだ。
「……知っている」
彼女が、ディルの手で幸せになれるなんて思っていない。
どうやれば彼女が幸せになれるかも分からない。
『幸せ』を定義するのは、今のディルにとってとても難しい事だった。
傍目から見れば酷い惨状だ。子供と思わしき手足が転がって、達磨にされた胴体も地に落ちている。無造作にそれらを纏めて、猪を吊るしていたものと同じ縄で胴と手足を括りつけた。それを担いで砦へと持って帰る。そのまま放置して行かないのは、暁に色々な責任を追及するため。
聞かされた言葉から得た不愉快な気分を、暁にそのまま押し返したい。胸糞悪い、というのはこんな気分かとディルが痛感する。吐く息が不味くて、胸元が煮えくり返るように熱くて痛い。
苛立ちを逃がす為に犬歯で唇を噛むと、少しの間を置いて血の味がした。