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当然だが、戦争下に無い状態での砦の駐屯に騎士隊長や副隊長の数はそこまで必要ない。
新たに派遣されるのは『花』隊長と副隊長の二人だった。ならば今駐屯しているディルとフュンフとエンダの二名、或いは三名ともが城下に戻る可能性が高くなる。書状にその旨は書かれていなかったので、恐らくは再び口頭で伝えられるのではないか。
今回の編成は『花』五百名と『月』五十名。という事は、『月』のディルかフュンフどちらかが残る事になるのだろうけれど。
『花』が率いる隊が到着したのは、それから数日経っての事だった。
「『花』五百名『月』五十名。只今到着した」
出迎えなど無い『花』の到着は会議室に本人が来ることで齎される。
『花』の隊長と副隊長は、短くはない道程を越えて来たというのに整えた姿だった。乱れの無い髪と隊服、一分の隙も見せぬ顔つき。
外見に関して言えばそれで『仕事』をしていたソルビットは当たり前の事で、『花』隊長に関しては愛しい恋人と逢えるという事でソルビットが整えてやったのだが、ディルはそれを知らない。
着任の口上も程々に、その場にいる五人の隊長と副隊長が同じ書面を見る。円卓に広げられているのは周辺の地図だ。測量結果も書き足してある。
「エンダ。このバツ印って何なの。この……あちらさん側に多くあるけど、こっち側にも二・三個あるな」
地図を覗き込む『花』隊長は、わざとか無意識かは不明だがディルのすぐ隣に並ぶ。
邪魔にならないよう結ばれて揺れる銀髪の毛先から、仄かに石鹸の香りが漂った。
「これか? 俺の隊の奴等が、この場所で怪しい影を見たってさ」
「影?」
「何してるでもない、でも何か影が見えたんだと。帝国の奴等っていう可能性もあるとは思うが、言い切るには証拠が足りない。獣って可能性もある」
「簡単に尻尾を掴ませないのは、当たり前の行為ではあるからな」
『花』隊長の質問に答えるのはエンダとフュンフ。
『風』と『月』がこちらに到着して強化した巡回の中で、影を見る回数は格段に増えた。これまでも数度は発見情報があったが、人手の問題で追及に至らなかった、と。そういった報告がこれまで上がって来ていないので、後々責任問題に及ぶかも知れない。
その話も程々に、『花』隊が巡回を強化するということになって命令を出す為か最初にソルビットが退室した。
それから戦争開始時の戦線後退と、隊長格への帰還命令が告げられる。今回帰城するのはフュンフとエンダ。他国との外交で、『風』副隊長であるアールヴァリンも含めて王族は殆ど国外にいるらしい。
「今の時点でアールヴァリンを国外に出すか!? 何考えてんだ王様はよ!」
エンダは今王家が国外に出る事は危険な賭けだと知っていて、その報告に憤慨した。
「アイツだけでなく、王族は末姫様以外皆出払ってる。結構切羽詰まってるらしいぜ」
「……ちっ」
『花』隊長が報告する現状は、あまりよろしくないものだった。国王の血を引いていれば、誰も彼もが外交の切り札と成り得る。
エンダの焦りはディルにも理解出来る。『風』隊が強みにしているのは、独自に訓練された諜報部隊がいるからだ。その強みを動かせるのは、エンダとアールヴァリン、そして王族しかいない。城に今アールヴァリンが居ないのは悪手だった。だからエンダに帰城命令が出たのだろうが。
『花』と『風』の間で、砦内に居る部隊の指揮権譲渡が行われたのもその時だ。エンダの通達の後に、砦内の諜報部隊所属の者は一時的に元『風』諜報部隊員であり現『花』の副隊長ソルビットの指揮下に入る。
そうこうしているうちに、ディルが口を開く事も無いまま連絡が終了した。そしてエンダの視線がちらりとディルに向けられる。
「疲れてるだろうし、少し休んでろ」
それは『花』隊長に向けられた言葉の筈だった。しかし視線はディルの次にフュンフに向けられる。
「部下が働いてんのにアタシだけ休むって出来ないよ」
「いーからいーから。少しは気ィ利かせてやるから。……ほらフュンフ、行くぞ」
「解っている。……あまり派手な事はせぬようにな」
『花』隊長の反論にも気にする様子さえ見せず、エンダはフュンフの肩に手を置いて外へ出ろと促した。
フュンフも何かしらに気付いている様子で、大人しくエンダに従う。
二人が扉の外に出て漸く、『花』隊長と二人きりにされた事に気づいた。
「あ………」
「……」
相手も相手で、それまでは仕事の事ばかり頭にあったようで急にぎこちなくなった。
視線は四方を彷徨い、指先は絶えず自分の髪を触っている。
何度もせわしなく開閉を繰り返す瞼が隠す瞳は、少しだけ潤んでいるようだった。
唇は何かを言いたげに開かれるが、それだけだ。特別意味を孕んだ言葉は出てこない。
やがて彼女は観念したように、頬を緩ませてディルを見た。
「………その、お、お疲れ様」
たかが半月ほども離れていなかった。しかし、その半月の離別は彼女を以前の彼女に少しだけ引き戻した。
ディルにだけ遠慮がちの彼女。ディルにだけ他人行儀で、視線すら合わせようともしない彼女。
そんな姿は二度と見る事はないだろうと思っていたのに、距離を置かれている状況を味わうとディルの胸に僅か痛みが走る。
「……ああ。汝も、壮健そうで何よりだ」
「……うん」
暫くは見られないと思っていた姿を見ることが出来て『嬉しい』。
どんな形でも笑顔を向けてくれて『嬉しい』。
それが『好き』だということだと理解すると、感情に名前がついたことに安心感を覚える。
けれど同時に、いつかにソルビットから掛けられた呪いである『もう少し』が発動してしまう。
自分から、彼女に触れていいものか悩む。恥じらうような姿を見てしまうと、彼女に触れようとしたら嫌悪感を与えてしまうのではないかと。
それも杞憂なのだけれど。
「……ねぇ、その、あの」
口を開いたのは彼女からだ。
「……何だ?」
何かを言いあぐねている様子に、可能な限り穏やかを取り繕った声で問い掛けてみる。
すると彼女は真っ直ぐにディルを見ながら、両手を広げた。
「………いい?」
それは質問の形をしただけの宣言のようだった。
広げた形の両腕はそのままに、小さな歩幅でディルの側に寄っていく。返答を待たぬまま、彼女がディルに抱き着いた。
しっかりと胴の幅に合わせて回される腕。すぐ側にある小さな頭。すん、と鳴らされる鼻。
ぞわりとした何かがディルの内部を駆け抜ける。対して長く離れていた訳ではないというのに、彼女が与えて来る感覚は居心地を悪くさせる。
『好き』な相手が、こんなに側に居る。
「っ……埃臭いであろう」
思わず彼女を引き剥がした。
案の定、彼女は不服そうな顔を向けて来る。その行動で、表情で、人がどんな気になるかも知らないで。
「匂いなんて気にしないよ」
「衛生的に良くはない」
「……じゃあ、お風呂入ったら良いって訳? それまで待てって?」
これまで男所帯だった砦での入浴は不規則だ。『花』隊の者が到着したらそれも改善されるであろうが、それを待ったら抱擁は夜になる。それを見越しての抗議はディルの唇を引き結ばせた。
こんなことをしている場合では無いのに、恋人からのおねだりは凶悪だ。
「……、………。……」
それが嫌な訳ではないディルは、悶々とした感情を押し殺し、溜息で放出しながら腕を広げる。
応の合図と取った彼女は、嬉しそうな笑顔を浮かべて腕の中に入ってきた。その背を、力を込めすぎないようにそっと抱き寄せる。
「汝の考えは我にはよく解らぬ」
ディルに言える苦情はそれだけだ。
表情を見ていれば思考は分かるのに、こんな突飛な行動に出る時は読めない。良く言って天真爛漫だが、悪く言えば身勝手。
けれど以前のように距離を置かれている訳でもないから、ディルの心境は複雑だ。
「考えが解らないアタシは嫌い?」
腕の中で見上げて来る混ざり子は、無垢な表情をしていた。
孤児院で見るような、何の疑いも持っていない子供と似た顔。誰かから性の捌け口とされる苦痛を知らぬ、憎らしい程純心な瞳。
「……いや」
ディルの言葉はそこで途切れる。代わりに、二人の唇が重なった。身を屈めるのも大分慣れて、彼女も慣れた様子で爪先立ちになる。
ほんの僅かな触れ合いだけど、今はそれ以上を望んでいられない。
「……汝であるなら、我は嫌ではないようだ」
「そんなら良かった。……嫌じゃないなら、嬉しい」
彼女の頭をディルの手が撫でる。柔らかく指に馴染む髪の一筋一筋の撫で心地は特別良くて、つい何度も撫で梳いてしまう。くすぐったさから逃げるように、彼女は体から離れて少し距離を離してしまった。
この時が終われば戦争前の緊張状態など消滅して城下に帰る事が出来たらいいのだけれど、現実はそうはいかなくて。
「話は変わる。有事の際の布陣だが」
二人の間が離れてしまったのが少し残念で、ディルが再び仕事の話を持ち出した。彼女も彼女で、仕事とあれば乗り気になってくれたようで再び距離が近付く。並んで地図を見る二人の間に、もうぎこちなさは無い。
「魔法部隊は高台が良いよね」
「『花』も長弓部隊が居よう。開戦時には戦線を下げるという話だが」
「どれくらい下げるかはその時次第だね。直ぐに開戦って訳じゃないなら、カリオンが指示してくれそうだけど……アタシだったら、ここを推す」
地図を見ながら、勾配と障害物の多い場所を指差した彼女の横顔には先程までディルに見せていた甘い笑顔は無かった。
その表情こそが『花』隊長。万の命を背負う女傑の顔だ。
ディルは自分の恋人がそういった人格であることに誇りを覚えると同時、僅かな物悲しさを感じる。この表情をしている彼女の枷に、自分はなっていないかと。想いを告げ、求婚することが、本当にこの女の為になるのかと。
「……我に異論は無い。その場所なら、後衛部隊が強みを活かせる」
「でもディルはやっぱりその時部隊率いて前線行っちゃうんでしょ? この場所に布陣するってなったら前線はここ以降のこっち側になる訳で……」
「測量した所、この場所に僅かだが傾斜がある。場合に因るがこの場を避けることになるやも――」
迷いを遠ざけるために、ディルは進んで戦線の話を持ち掛けた。それを今の彼女も望んでいるようで、二人きりの話は一気に色事から遠ざかる話になる。未だ来ない戦争の話に熱が入りかける、その時。
「あんたらこんな状況でする事はそんな事っすか!!」
扉を蹴破り入って来たのはソルビットだった。憤慨した表情は普段『宝石』の二つ名を冠しているとは思えない程の崩れた怒り顔だ。
室内に響く大声に身を竦ませて振り返る『花』隊長。
「え、何ソルビット! 敵襲!?」
「違うっす! 何であんたらこんな密室で二人きりっつーのに仕事してるんすか!! もっとヤる事あるでしょう!!」
「……札遊びかえ」
「違うっす!!」
「ソルビット……、もしかしてとは思うが、盗み聞きしてたって訳?」
床を這いずるような唸りの籠る声が『花』隊長の声から漏れだしたのを聞いて、ソルビットがはっとする。思わず飛び出して来ました、というのが丸分かりだ。
ぱきり、ぱきりと『花』隊長の指が鳴る。顔はディルから見えないが、ソルビットに向けられているそれは先程までの彼女に勝るとも劣らない鬼気迫る顔。それから続く一方的な仕置きの場面を見ずに、ディルはソルビットが蹴破って来た扉の向こうを見ていた。
曲者は『宝石』だけでは無かった。退室して行った筈のエンダもフュンフもそこに居て、ディルが思わず溜息を漏らす。
「汝等」
男二人は仕置きの場面を見ているようだった。しかし、ディルに水を向けられて青褪めながらそちらを見る。
「言い訳はあるか」
「ありません」
「無いです」
これ以上ディルの不興を買わないうちに、と男二人が逃げ出した。この二人はさして邪魔をしてきている訳でもないので、報復もせずに去るのを見送った。
実害があったのはソルビットだけだが、それは直々に上司である『花』隊長がしばき上げているのでディルは見守る事にする。近場の椅子を引いて、そこに腰掛けて、怒声と悲鳴が続く部屋の中で二人を眺めていた。
「本当テメェは邪魔したいのか応援したいのか何がしたいんだオラァ!」
「いたーい! 酷いっすたいちょ! あたしもたいちょーをこんなに愛しているのに!!」
「愛が鬱陶しい!!」
「ひどーい!!」
……女同士の会話はよく分からない。
けれどディルはこんな空気も悪くないと思っている。今のような状況がいつまでも続くとは思っていないからだ。
もしかすると、戯れはこれが最後になるかも知れない。
ディルの中の未来図は、平時でも最悪なものを抱いている。
騒がしく喧しい室内は暫くそのままだ。その間、ディルはずっと自身の恋人ばかりを見ていた。