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「……あー……」
ディルの私室へ入った『花』隊長の第一声がそれだった。
白と黒で統一された室内は重苦しい雰囲気で、来客を拒むディルの心そのままを表しているようだ。
窓枠、カーテン、絨毯、収納、簡易机、黒。
壁、寝台、ソファ、白。
飲み物が置けるようなテーブルどころか台も無い。好きに座れ、と言えば躊躇いなく二人掛けの白いソファに腰を下ろす彼女。肌触りのあまり良くない布張りのそれは音を立てて彼女を受け入れた。
笑顔の彼女の隣に腰掛ける。馴染んだソファの感触が、今日はいつもと違うように思えるのは隣に座る人物がいるからか。
「何か飲むか」
「いい。兄さんとこで飲んだから充分」
初めて入る恋人の部屋に嬉しそうな笑顔を浮かべた彼女。締まりのない表情で笑顔を浮かべているが、外套を脱いでいない所を見ると動揺はしているのだろう。
「当たり前だけど、ディルの匂いがするね。教会のお香みたいな良い匂い」
「そうか」
特に目を引くようなものがない室内で、彼女は何度も鼻をひくつかせる。彼女の今の香りは酒臭い――と言えば、怒らせてしまうだろうか。自分に向けて明確な怒りを向けられたことが無いので、そんな顔も一度は見てみたい。
ほんの少し前までは彼女がこの部屋に居たら理性が働かなくなるかも知れないと思っていたが、彼女の恋人という立場を手に入れて余裕が出来たようだ。現に、隣に座る彼女を見ていても無理矢理何かをしようなどという下劣な衝動は出てこなかった。
伝えなければいけない。
名を理解した仄かな感情は、彼女が今まで何度も伝えてきて、周りにも言いふらしていたものだ。
ディルの中にもそれがあると分かったのだから、伝えればいい。ただの単語だったとしても、彼女はきっと喜んでくれる筈だ。
言えばいい。
言えば、彼女の最上級の笑顔が見られる。
明日の朝日と共にこの地を発つ自分が、今すぐ彼女へと用意できる最大級の贈り物。
「………」
言えばいい。
言うことが出来れば。
「……どうしたの?」
ディルが唇を開く前に立ち上がった。それと同時に僅かに身構えた彼女の瞳が、一瞬だけ揺らぐ。
伝えるべきことは二つあった。ひとつは感情、ひとつは義足の話。
この揺らぐ瞳に伝えてもいいのは何方なのか。
その場に片膝を付いた。床に付けた膝のある足は、血が通っている。その逆は、本物に見せた紛い物。
「汝が知らない事がある。我は」
伝えるべきは、何方なのか。
「……汝とは違う」
「……え?」
ディルの中で答えが出た時、口から出てきたのは二人が恋人同士になる前に彼女に言った言葉だった。
先に此方を伝えておかねば、『好き』を伝えることも出来ないと思った。ディルの全てを聞いて、それでも彼女は受け入れてくれる筈だ。それからでも、想いを伝えるのは遅くない。
土壇場の言い訳を繰り返しながら、ディルが右足の下衣の裾をたくし上げた。
最初に見えるのは神官用の黒い編み上げ靴。もう少し引き上げたら、黒い塊が見えて来る。
「――……」
『花』隊長が、息を呑むような音がした。
今まで、数少ない者しか知らない義足だ。副隊長であるフュンフにすら伝えた事は無い。完全な生身の体でないという事実を知られることに、今はともかく昔は抵抗があったのだ。
『ほら見ろ、やっぱりあいつは人形じゃないか!』
そう言われるのは目に見えていた。そして、ディルを見る視線に嘲りと憐憫が増える。
同時に、誰もディルを五体満足として扱わなくなっただろう。そんな世界では、今以上に無為に生きるしか道は残されていない。
「腕のいい人形師が作った。魔力を込めているらしいのでな、多少の戦闘にも充分耐える代物だ」
「……いつ、から?」
「幼い時分に。これは隊長職を与って新調したものだ」
それまでの義足も、ダーリャが買ってくれた逸品ではあった。しかし体の成長と共に、宝石製の義足は合わなくなってくる。もっと安価な義足もあった筈だ。なのにダーリャは、ディルへの罪滅ぼしのように最上級のものを買って贈った。
そんな形で消える罪悪感など無いだろうに。
「我も、戦災孤児だった」
話さなければいけないことは、幾つもある。
「……そう、なの……?」
彼女は、真摯に耳を傾けてくれた。
「教会に拾われ、孤児院でなくその教会の神父に育てられていた。……小児性愛の、聖職に相応しくない男だったが」
「え……それって、ちょっと待って」
「何があったかは、聞かぬ方が良い。下衆ではあったが、対外的には良き神父であった。年月の幾らか過ぎたそんな折、見出されて『月』に入隊することになった。それからは、恐らく汝も知っていよう」
思い出したくもない過去は、彼女の思考のままになるように暈した。その言葉で考え得る最悪の事象が、ディルに起こった不幸だったから。
彼女が言葉を詰まらせるのは、これで何度目だろう。これまで彼女には笑顔でいて欲しいとばかり願っていたが、今苦しそうな顔をしている彼女の顔を見ると何故か落ち着く。不愉快な汚点を聞かせて、自分の事のように悲痛に沈むその顔をして欲しいと願っていたような。
自分の事だけを考えて欲しい。少なくとも、その願いは今叶っている。
「汝の他には先代と下衆の神父、そしてこの足を作った人形師の一族しか知らぬ。……信じてはいるが、他言は無用だ」
「も、勿論」
何とはなしに注釈を入れると彼女は身を震わせる。分かりやすい彼女は、この話を誰が知っているのか考えていたのだろう。
「我は幼い時に『感情』を殺した。喜びも悲しみも、怒りも憎しみも、抱かなければ楽になれた。そういった生き方に慣れてしまった。……汝と、出会うまでは」
「アタシ、と?」
「汝の生き方は、我には眩しいものだった。よく笑い、よく怒り、よく冗談を言う。我とは違うのだと、故に眩しいのだと、そう思っていた」
その光は眩しすぎて、ディルを焦がすようなものだったけれど。
「一時期は厭わしいとさえ思っていた」
「――……。アタシを?」
「仮にも肩を並べる者。嫌っているばかりではいずれ任務にも支障が出よう。そう思って歩み寄ろうとしても……汝は我に対して余所余所しかった」
「はい、自覚有ります」
「感情を殺した筈だった。……初めて、胸が痛んだ」
その痛みが何故起こるのか、どれだけ考えても分からなかった。分かる訳ないのだ、今まで一度として感じたことのない痛みだったから。
経験がない痛みは、理解するまでに十年の月日を要した。
今でも完全に理解しているとは言い難い。
『好き』で一纏めにしきれない想いや感情は山ほどある。
ひとつ、ふたつ。絡まった思考の糸を解いても、糸の先ではまだ大小様々な絡まりが残っている。
「それでもいい、と。拒絶をされている訳ではない。遠くで見ているだけでも良いと、そう思っていた。……先日の、あの祝いの話を聞くまでは」
それまでも、この女のことを気にしていたディルは確かに存在していた。
いつから彼女が心に住んでいたのか。
いつから彼女に微笑みを向けられたいと思ったのか。
絡まった糸は流れた時間の分だけ、硬く固まってしまった。
これでは解くのも大変だ。けれど、時間を気にして焦る必要はない。
少しの揶揄で不満そうな表情を見せる彼女とは、『これから』を約束したのだから。
「汝が妃候補として選ばれ、仕立て屋を呼んだという。……仕立てた衣装で、皆の前で、祝いの席で妃候補として振舞う汝の姿を思い浮かべた時、……込み上げたのは不快感だった。見たくないと、強く思った」
言いながら、彼女の手に触れた。外気で冷えていた細い指先は、少しずつ熱を取り戻してきている。
まだ記憶に新しい、あの日胸から全身を駆けた嫌悪感。一番嫌だと思ったのは、この女が王子の妻として生きる未来を想像した時だ。
誰かのものになるな、と。
候補から除外されろ、と。
仄暗く見苦しく惨めなだけの願いは、それとは少し違う形で叶った。見る事は叶わぬと思っていた、彼女の笑顔を連れて。
「……だから、来なかったの? 命令を無視してまで」
「処罰があるのなら甘んじて受けよう、と。不快感を抱えたまま姫の前には出られぬ。婿候補として振舞うことも出来ぬ我は居ない方がいいと考えた。……自主的に城内を警邏中、テラスにいる汝を見つけた時は驚いた」
「あー……、あの時ね。あれは……酔ってたから」
「酔っていながら外に出て雪と戯れるなど、汝は相変わらず阿呆よな」
「……………すっごく怒りたい気分だけど、我慢する」
その一言に、彼女の怒りを感じ取る。律義に心情を述べてくれるのは嬉しいが。
「……汝はやはり、我にのみ態度が違うな」
「え」
ディルに怒りの感情を見せないのは、少し物足りなくて。
彼女の喜怒哀楽の感情は、今まで不足していた分まだ欲しくなる。笑顔も怒った顔も、悲しそうな顔も楽しそうな顔も。こんな所でも、『もう少し』は有効だった。
「我にも、怒鳴っていい。我の知らない汝の姿が、あまりにも多すぎる」
「……貴方には怒りたくないんだけど。言ってる事間違ってないし」
言い訳をするかの如く唇を尖らせて口篭る彼女は、悪戯を咎められた子供のようだった。
年甲斐もない表情をしている。だけどそれが、とても『好き』だ。
胸から湧き出る感情が導くまま、彼女の手を引いた。自然彼女はソファから滑り落ちるように、ディルの腕の中に閉じ込められる。
「ひゃ、」
腕の中の彼女が小さく声を漏らす。捕らえられた獲物の状態だというのに、拒絶は一切無かった。
「ああ」
腕の中が、温かい。
目を閉じて、その感触を味わう。外套越しの彼女の体が、腕に収まってしまう程小さくて、頼りない。そう感じる程に細い筈の背で、万を超える『花』の隊員の命を負っている。
騎士隊長として立つ彼女の存在は、ディルにとって誇らしいものだ。同時に、それ以上の価値を感じていた。
「汝を担いで運んだ時。汝と踊った時。汝と触れている時は何故か、離れがたい何かを感じる」
掌を、彼女の髪に差し入れて後頭部を支えるように位置付く。指の形に合わせて指に絡みつく髪の毛の全てが、触れられることを望んでいるようだった。
暫くはされるがままだった彼女は少し間を置いて身動ぎをすると、ディルと鼻先が触れる程の位置まで顔を近づける。
「……アタシは、すごく恥ずかしい」
「何故だ?」
「……貴方が、好きだからだよ」
何度も聞いた、彼女からの想い。
ディルにはそれに応えられるだけの感情を理解した。同じ言葉を、今なら返せる気がする。
「……我は」
――汝と、同じ想いだ。
けれど口を開きかけたディルを制したのも彼女で。
「分かってる。でも、覚えてて。アタシは貴方が好き。……だから、待てる」
その一瞬を彼女の声で上塗りされて、口から出かけた言葉が飲み込まれる。
彼女は、何を分かっているのか。ディルの心か。同じだと、好きだと言いかけた言葉を本当に理解しているのか。
その問いをすることも出来なかった。彼女の両手がディルの頬を覆い、触れるだけの口付けが交わされる。今回の口付けは、初めて酒の香りがした。
「待ってるから、無事に帰って来てね」
純粋にディルの無事を願う彼女の微笑みと言葉に、その時伝えるべき言葉を見失う。
「ああ」
そう返すのが精一杯だった。
待ってくれる。
待てる、と言ったのは彼女だ。
今すぐ伝える必要はない、とさえ思ってしまったのは、言葉にして伝える事への理由の分からない躊躇いがディルにあったからだ。
その躊躇いの名は『羞恥』というのだと、ディルはまだ知らない。
「必ず戻る」
そして、羞恥から来る躊躇いは時間を置くごとに伝えにくくさせるものだという事も、この時のディルは知らなかった。
二人は健全な夜を過ごす。並んでソファに座ったまま、これまで話した事のないような色々な事を。
とはいえディルは聞き役に徹するだけで、よく喋る恋人の話に時折頷くだけ。
話を聞きながら荷造りもしたし、彼女に睡魔が近寄れば寝台を貸そうとして固辞されたりもした。
「仮眠だから」「ディルの出発までには絶対起きるから」と言ってソファで横になる彼女。ディルも仮眠を勧められたが、彼女を部屋に招いた時から眠る気は無かったし、何より眠れそうになかった。
「……」
何の疑いも無く、寝顔を見せる『花』隊長。
髪に流れる髪の一筋を指で掬って撫でつけてやる。この寝顔を、暫くの間はどう足掻いても見る事は出来ない。
眠る恋人の額に、そっと唇を押し付けた。音がなるべく出ないように注意を払って、短い時間で離れていく。何の反応も返らないのを良い事に、同じことをもう一度。
流石にそれ以上は起こしてしまうと考え直し、ディルも寝台に向かう。彼女が正面に見える位置に座って、気が済むまで寝顔を見ていた。
別れの時間を告げるかのように、空が白みはじめるその時まで。