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「ディルー、こっちだよ!」
日が沈んだ頃に、ディルは恋人との待ち合わせ場所である酒場に到着した。彼女は先に来ていて、服装も執務中のものでは無く、普段は一つに結んでいる銀色の髪を解いた普段着になっている。季節柄肌の露出は無いが、きっちり着込んだ服は彼女の細身の体型を浮き上がらせている。椅子には白い外套が掛かっていて、それはきっと彼女によく似合うだろう。
彼女が座っていたのはカウンター席だ。天板を挟んだ目の前には、彼女の育ての親の『兄さん』が立っている。
「お疲れ様、いらっしゃい。君がいない間、ずっとこの子が惚気を話してくれてたよ」
「ちょ、兄さん!?」
「いやー。本当に聞けば聞くほどこの子は君のことが大好きなんだなって思うよ、うんうん。いや、別に今日だけじゃなくていつもなんだけどね? 君とお付き合いする前から、何かあるごとに君の話ばかり聞かせてくるものだから」
「兄さん!!」
血の繋がらない二人が言い合っている間に、ディルの目の前にお茶が運ばれてきた。一滴も、と言って良いほどにディルは酒を飲めないので、この店では毎回酒以外の飲み物が運ばれてくる。
ディルがその茶を手に取り口に運ぶ。高い温度で出されたそれは香りもいいが紅茶ではない。ハーブティのような香りでもなかった。青い葉のような臭いがする緑色のそれは、口に運んでもやはりもともとの味覚障害が働いて味が分からない。なるべく音を立てず啜るように飲み込むと、自然と溜息のような吐息が漏れた。
「いやー、しっかし嬢ちゃんがやっとディル様捕まえるなんてよぉ」
「何年片想いの惚気ばっかり聞いて来たって話だよ、なぁ!」
二人の背後の他の席では、常連客が好き勝手言っている。開き直った『花』隊長は、顔を酒と冷やかしのせいで真っ赤にしながらディルの顔を横目で見ていた。
「我の話しかすることが無いのかえ?」
「別にそういう訳じゃないけど!? 仕事の話とかおいそれ話せる訳もないし!?」
ムキになって声を大きくする彼女だが、それさえも常連客達には酒の肴にしかならない。
人の色恋沙汰をつまみに飲むなどいい趣味とは言えないのだが。
「っす……すきだったんだから、しかた、ないじゃん。アタシ、話せる内容で色々変化がある日常なんて、ディルかソルビットのことくらいしかないし……」
勝手に人の話を持ち出さないで欲しいところだが、照れたようにもごもご口ごもる彼女の顔を見られただけで相殺されてしまう。一体どんな話をしていたのかは今度詰める事に決めた。
ちびちびと酒を煽りながら所在なげにしている彼女に、ディルが一言。
「話すな、とは言わぬ。他の者の名を出すくらいならば我の事だけ話していろ」
ディルの発した一言は狭くない店内だというのに、一人残らず客達の耳に届いてしまった。
普通に聞けば惚気以外に有り得ない言葉で、たった一瞬静まり返った店内が酔っ払い達によって更に沸く。真っ赤なまま震える『花』隊長は嬉しさで涙目だった。
若いのにやるねぇ、とか、いや若いからやるんだろ、とか、長年の恋が叶って良かったなぁ嬢ちゃん、とかありとあらゆる声が飛んでくる。
しかし。
「結婚しねぇのかー!」
熱狂はその一言で凍り付く。先程の静寂の比ではない重苦しい空気が店内に漂っている。
その声が耳に届いたディルが、口に運びかけた茶を飲む手を止めた。
結婚、という言葉に思考が追い付かなかった。誰がだ、という問いに最初に達してしまったが、それが次第に自分達の事を言っているのだと理解する。
ディルが店内を見渡した。振り返った先の常連客達は言葉を失い、ディルの視線から逃げようとしているかのように顔を背ける。
「……」
この店内の気まずさが理解出来なかった。ディルも彼女も独身で、だからこそ王家との婚姻未満の話も出ていたというのに。まるでその話自体が禁忌であるかのように、誰もディルを見ようとはしなかった。
別に、気に障った訳ではない。此処に来るまでに暁が望む結婚像と言うものを聞いていたから、余計に考え事が増えただけだ。誰が先程の言葉を言ったのかなんて、特に興味が無かった。
振り返るのを止めて姿勢を戻す。隣に座る『花』隊長の顔を見れば、さっきまで赤かった顔が色を元に戻していた。彼女は彼女なりに気まずさを感じているようだ。
互いの視線が絡む。
「……」
もし、この女と結婚するとしたら。
「………」
寝に戻る家に、この女の笑顔が絶えずあったとしたら。
「……」
それを望む世界では、この女が今まで得ていた地位や権力や名誉の全てを手放させることになるのだろうか。
「お二人とも、黙ったまま見つめられると何かアレなんだけどね?」
ディルの思考は店主の言葉で断ち切られる。同時に、恐る恐るではあったが店内にも客同士の会話が増えていく。
重い空気が、全部では無いが消えていく。『花』隊長も、グラスに残った酒を飲み干そうと傾けた時。
「結婚か」
「んぐっ!?」
ディルの口から出された言葉で、彼女が酒を噴き出した。
その反応にディルが瞼を伏せる。動揺するようなその姿は、結婚を考えられていないようなものにしか思えない。
鈍いディルだって、男女が結婚した先にある未来を知っている。次代に残る血を残すために、女は子を産むのだ。その時に、女は仕事で上り詰める事を諦める場合が多い。妊娠と出産、育児に掛かる負担は仕事の比では無いからだ。男はそれを共に乗り越えようとする事は出来るが、妊娠出産を肩代わりしてやれる訳はない。
「……興が削がれた」
ディルの口から出る言葉は八つ当たりだった。未だに愛だの恋だのといったものは分からない。しかし、それ以外で理解している事なら幾らでもあった。
今までであれば誰かと生活を共にする未来など必要ないと思っていたし、具体的な考えなんてしたこともないけれど。
もし自分が結婚するなら、相手は『花』隊長以外考えられない。
彼女が結婚を意識するまで、幾らでも待つ気はあった。それでなくともまだ情勢は不安定で、これから戦になるかも知れないという時期だ。せめて、それが決着するまで。
「出るぞ」
「ええ? ……うん、分かった」
『好き』と言ってくれたのは彼女なのだから、彼女が自分から離れて行きはしないだろう。
その油断と情勢への言い訳で、ディルは求婚を躊躇った。
カウンターにやや乱暴に代金を置き、足早に店を出るのは気まずさからだ。
断られる訳がないと分かっているのに求婚できない自分に対する歯がゆさだけが募っていった。
アルセン国の宗教である『三神教』は複雑だった。
神が見捨てた土地に立つ、人を見捨てなかった一柱が興した国だ。最初は産めや増やせやで神父であろうと婚姻の不許可がなされたことはない。
しかしそれはアルセンが自由国家の体を取った事で、他国の宗教が入って来てから複雑化する。他国の宗教では神父の婚姻は認められていない場合が多く、それが三神教でまで当たり前であるかのような風潮になってしまった。そしてそれを一部の三神教神父も誤解しているが、実際は神父であろうがなかろうが結婚は出来る。
先代『月』隊長である神父ダーリャは、理由があって結婚できなかった。
先々代の話は伝え聞くだけだったが、彼の未婚の理由も神父であるから、ではなかった。
けれど彼らは、その理由が私情であったから『神に命を捧げた』と言って未婚の理由をはぐらかす。
ディルは、後から理由を聞かされた。
ダーリャが過去に犯した罪と、永遠に喪った想い人の話を。
「歩くの、早いよ」
二人が酒場を出ると、ディルが来るまでは雲が無かった空から雪が降っていた。明日はまた積もるだろう。
湧き出る不快感に任せて歩くことで、『花』隊長を数歩分置いて行ってしまっていたらしい。背中に彼女の抗議を受け止め、歩幅を狭くし速度を落とす。
隣に並んで来た彼女は、体を白い外套で覆った雪の精霊のようだった。半分はヒューマン以外の血が混ざっている彼女には似合いの服だ。この服すら、もしかしたらディルを想って選ばれたものかも知れないと思うとディルの胸にじわりとした熱が灯る。
「――結婚、とは。愛し合う男女が行う事だ、と……話には聞く」
「……そうだね」
「神の示す博愛も解らぬ我には縁遠い話だ」
『愛し合う』とは何を示すのかも分からないディルにとって、その感情に対する理解は課題だ。
何も分からない状態で求婚するのは礼儀に欠ける。ディルにとって彼女以上の存在なんていないのだから、持ち得る誠意を総動員してでも事に当たりたい。
こうして並んで隊舎に帰る時間は、もうすぐ終わりを告げるだろう。日の出と共にこの地を発てば、国の意思によって始まる戦争の場へ向かう事になる。血と土煙と、怨嗟と断末魔が響く戦場。
戦地では、ディルが生きていることが実感できる。
その筈だった。
隣に立つこの女さえいなければ。
この女が、ディルに安らぎを教えなければ。
「……どうしたの?」
少し歩いた所で足を止めた。民家からは遠く、人通りは無い。
二人の間に入り込むものは、空から降る雪だけだ。
「ぁ」
彼女の頬に指を滑らせる。寒さで色付いていただけの肌が、それだけで更に朱に濃く染まる。
とても好かれている。その好意に付け込んで、ディルは顔を近づけた。彼女の瞼が伏せられて、密やかな口付けが交わされる。
時間が足りないとなれば、場所を選んでいられない。
触れるだけのディルの唇は、離れてから再び開かれる。
「……会議の後、フュンフとエンダから言われたことがある」
「な、なんて……言われたの?」
まだ頬に触れていた手を、彼女が冷たい指先でそっと握った。
「『月』が無理して出る必要はない。長が出る隊は『風』だけでも大丈夫だ、と。『月』が出るとしても、司令塔はフュンフだけでも事は足りる、と」
「……確かに、隊長二人が出るのは大仰かも知れないけど」
「どうしても、あ奴らは我を汝の側にいさせたいらしい」
「………へぇ!?」
驚きで裏返る声が邪魔者の来訪を招かないかとディルが彼女の唇を空いている手で塞ぐ。むぐ、と言葉を封じ込まれた彼女は視線で外すよう訴えかけてくるが、そんな視線程度では外してやれない。
諦めたような悲し気な視線とともに肩を落とした頃合いを見て、手を退けてやる前に耳元に唇を寄せた。
「……我の、『人並みの感情』とやらが珍しいそうだ」
それだけ聞くと、彼女の灰茶の瞳は数度瞬かれる。意味が理解出来ないようで、手を外してもそれまでの大声は出ない。
「人並みの……って、どういう事?」
「それは我が」
『今までが人形のようだったから』。
不意に、それ以上を語る声が止まる。聞かれたくない、知られたくない話だ。この灰茶の瞳が曇る事も嫌だし、不快な過去を思い出したくもない。
伝えても、彼女はきっと離れて行かない。信じている。
――けれど期待というものは、往々にして裏切られるとも知っている。
この女さえ知らなかったら、自分以外の存在に期待を抱くことも無かったろう。
「……いや、この話をするには時間が足りぬな」
側にいてやれと言われた。
話さなければならないことがあると言われた。
それを全て先送りにしてでも、現状を維持していたかった。今の状態で困っていない。彼女が側にいてくれる、今はそれだけで良かった。
今以上の『もう少し』を望むにも、ディルが一歩を踏み出せない。
諦めて話を止めようとしたディルに、繋いだままの手を少し掲げ引き留めたのは彼女の方だった。
「……それでもいい。時間が足りないなら、アタシは待ってる。……だから」
繋がれた手は、冷たい筈なのに暖かい。
重なる肌は、正直に言えばその部分だけでは足りない。
何かを言いあぐねるように開いては閉じる彼女の唇が、彼女の中で最適な言葉を選んでいるように震えていて。
それで紡がれた、彼女の言葉は。
「明日の朝まで、一緒にいてもいいですか」
ディルはその一言に、彼女の想いを感じ取る。
限られた時間を共にしたいと望んでくれる、それが雪の降る街の寒さを吹き飛ばすようだった。
男女が夜を共に過ごす、その事に醜聞が付いて回るのは知っている。けれど彼女はそんな醜聞も、きっとものともしないのだろう。そしてもし自分の醜聞を伝え聞いても変わらぬ笑顔でディルに「好き」だと何度も言ってくれる。
ディルにはそうなる確信があった。彼女に恋愛感情として好かれている唯一の男だという自負もある。
だから。
「……我の部屋で、構わぬのなら」
まだぎこちない微笑で返答をするのも、ディルにとっては至極当然の事だった。
彼女の部屋を選ばなかったのは、明日の出発の為の時間確保が理由の半分。自分の生活範囲に彼女がいる景色を見ておきたかったのも理由の半分。
これからもし、彼女が自分の生活の中に存在してくれるのなら、それはとても『幸せ』なことだと想像出来る。
そして同時に、それを厭う事の出来ない暖かさを招く感情が、彼女を『好き』だということだと理解した。