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「……うー……。ぐすっ……うー……ううー」
謁見の間までの廊下を歩く『花』隊長は鼻声だった。
朝早くから逢瀬の為に身綺麗にし服を考え、慣れない薄化粧に手間取り、酒場の炊事場まで使って二人分の弁当まで作っていたのだ。幸せの絶頂を裏切られた悲しみはそう簡単に癒えはしない。わざわざ白と赤の布地で仕立てられた隊服に着替え直して城に戻るその悲哀たるや。
涙目で小さな呻き声を上げる彼女の背中を、満面の笑みで支えているのはソルビットだ。まるでこんな事態になって喜んでいるような。
「元気出してくださいって、たいちょ。またいつでも行けるでしょー」
「うう……でも……初めての……初めてのデート……ディルと一緒にどっか行けた筈なのに……」
「まぁまぁ。ほら、そんな顔してたら皆心配しますよ? 底抜けの馬鹿、ごほん、明るいのがたいちょーなんっすから」
「……殴るぞ」
仲が良いのか悪いのか。
謁見の間に近付く頃には私語は止んでいる。不満そうな顔でありつつも、何も言わずに謁見の間に入った。
「遅くなり申し訳ありません」
謁見の間の扉を開かれた時、『花』隊長がその場に響き渡る声で告げる。鼻声ではあったが。
既に、他の隊長と副隊長は揃っていた。
『花』に許されている場所で跪く。隊長格が横一線に並んでいる状態になり、頭を垂れて到着の口上を述べるとそこで漸く頭を上げる許可が下りた。
謁見の間の奥には階段がある。其処を上れば玉座がふたつ並んでいた。そのどちらも今日は埋まっており、腰掛ける男女の影が見える。
「多忙な中、呼び立てて心苦しい」
最初に声を発したのは女性の方だった。
王妃ミリアルテア。今代国王の後妻だ。
顔をいつも頭から被った藍色の薄布で隠し、素顔を知る者は一部しかいない。騎士隊長や副隊長も半数は知らない側に所属している。
心遣いを口にした王妃に次いで、国王が口を開く。
「『花鳥風月』の八人が謁見の間に集合するのは、いつ以来であろうな」
国王ガレイス。濃紺の髪を持ち藍色の瞳を持つ、玉座に座ることが許されている一人だ。
アルセン王国を治める王家の頂点に君臨する存在にして、アールヴァリンの父親。そして騎士や士官といった城仕えの者達が忠誠を捧げる先。
国王の御前で無様を晒す者は一人としていない。これまで半泣きであった『花』隊長すらも、それまでの悲哀を振り切って凛とした表情を浮かべている。
「『風』隊より報告が入っている。我が国と隣り合い国境を設けられているだけでも幸甚の至りであろう帝国が――そう、帝国が、だ。事もあろうに、国境沿いへ軍を展開し始めたそうだ」
国王の声が怒りに震えている。
神の引くという自負がある故に血統を重んじ、国の元首として代えが利かない存在であるが、人の血が濃くなってしまった彼の怒り程度では地を割る事も出来ない。
怒りを汲み取って同調するのは騎士の仕事ではない。王妃がすぐさま隣で慰めに掛かり、怒りの色は薄まっていく。
「陛下、そうお怒りになられては騎士達も心を痛めてしまいます。貴方の手足は振る舞いで見せずとも、陛下の御心を深く理解しておりますから」
手足、と言われた騎士隊長と副隊長の八人は同時に頭を再び垂れた。
騎士の中でも位が高い八人だ。どういう振る舞いが求められているかも分かっている。国王はその八人の姿を見ると、満更でもなさそうに鼻を鳴らした。
「……話が逸れたな。国境沿いに布陣を展開するということは、戦争の意思ありという事だ。宣戦布告こそ届いておらぬが、あの帝国の事だ。理由などどうとでもつけて、我が王国へ攻め入ることなどいつでも可能であろう。知っているだろうが、宣戦布告無しの戦を仕掛けられた際は永世中立国であるシェーンメイクが黙っていない。その場合は、国家間の戦争ではなく賊の侵攻と判断されるからだ」
戦争の儀礼を取っ払った一方的な戦を開始する国は国と認めない。
そんな暗黙の了解があるからこそ、宣戦布告が来るまでは血が流れる事は無い。
シェーンメイクという国の名が出て来る程には、事態は良くない方向に向かっているのは間違いない。
近隣諸国で最強と言われ、それ故に永世中立を謳う国。アルセン国内にもその国に知人と呼べる程度の仲の者はいるが、それでシェーンメイクを動かせたりはしない。
本当に戦争が起こるなら、近隣諸国の助力も仰ぎたいところではあった。その辺りを考えるのは国王の政務なのだが。
「あ奴らが国境に布陣する、というならばこちらもそのように。……と、言いたいところではあるのだが……私も、もう年だ。前線で指揮を執るのは今回も無理だろう。よって、前線の指揮はカリオンを始めとした四隊長も任せたいと思っている。最初は六十から百程度で構わぬだろう、状況によって増減も視野に入れ編成を行え。先発隊は明朝出発だ」
「はっ」
返事をしたのはカリオンだけだ。他の者は一切動かずに、命令を耳に聞いていた。
「下がってよい。先の指示、ゆめゆめ忘れる出ないぞ」
一番先に立ち上がったのは国王だった。その瞬間、八人が一斉に立ち上がり敬礼する。
今まで一度だって合わせて練習なんてしたこともないのに、完全に動きの合う姿は市井の者が見たら感嘆の声を漏らしただろう。
それだけで騎士としての練度を感じさせる振る舞いだ。ひとりとして腑抜けた顔をしている者はいない。
丸一日の間に喜怒哀楽の感情が振り切れているだろう『花』隊長もだ。
その後、場所を変えて開始された隊長会議まで大きな問題も無く終わった。『風』と『月』が先んじて国境に向かうという方向で会議が終わろうとした時、『花』が自分達が行くと語気を荒くした以外は。
そんな彼女の突飛な行動の理由はディルも気付いた。エンダが言っていた、恋人の身を案じているという状態だ。
直ぐに戦争が始まる訳ではないだろう。しかし彼女は自分の立場を見失いかける程にディルの事が心配なのだ。他の者から諫められても、着席したまま唇を引き結んでいる彼女の姿は新鮮に感じられるものだった。
心配される側になるのは悪くない、とも同時に思う。
「ディル」
会議は終わり、重苦しい空気が漂う会議室を出ようと席を立ったのはディルが一番最初だ。
『花』隊長には少し考える時間が必要だろう、と思った。だから先に廊下に出ていたのに、ディルに声を掛けたのは彼女では無かった。
『風』隊長エンダ。そして、ディルの腹心である『月』副隊長フュンフだ。
「何だ」
「『月』だけどよ、フュンフに任せてお前暫く残ってちゃどうだ」
「何故だ?」
フュンフもエンダも渋い顔をしていた。
「まだ本格的に開戦ってなる訳じゃないんだ、隊長格は少しでも温存してた方がいい。フュンフだけでも指示は出来るんだし」
「開戦にならぬとしても、我が出て不利益を被る訳ではあるまい?」
「勿論、不利益なんて無いさ。でもなあ、色々と心配な奴がいるじゃないか」
二人が、ある一定の方向を見る。その先は先程まで居た会議室だ。
扉の向こうから出てきていないのは『鳥』隊長と『花』隊長の二人。
会議室というだけあって、中の声は漏れにくい。だから、二人が何やら話し込んでいるらしいというのは分かるけれど。
「……恋人が他の男と二人きりっていう状況で、お前程顔色変わらない奴もそういないだろうよ」
「分からぬことを言うものだ」
「その『恋人』がな、お前を行かせたくなくてわざわざ会議に噛みついてんだよ。デートもお流れになったそうだし、少しは一緒に居てやれよ。本当に戦争始まったら、そう簡単には二人きりで逢えないんだぞ」
「我々は騎士だ。騎士として立つ時に私情など必要ない。二人きりで逢えないから何だというのだ」
する事はなにも変わらない。
ディルの冷淡な言葉は昔からだ。ネリッタという仲間が死んでも、ディルの表情は変わらなかった。エンダが諦め混じりに溜息を吐いた、その時。
「あの者は少し逢えない程度で心変わりする女ではあるまい? あの者が『好き』なのは我なのだろう」
想われている自信に満ち満ちた発言がディルの口から紡がれる。「うは」と、エンダの口から溜息に引き続いて声が漏れた。
同時にフュンフの顔が赤く染まる。恋愛沙汰に意欲的な隊長を見るのはこれが初めてなのだ。異母妹に童貞と切り捨てられた神父は目が泳ぎ始めた。
「……お前もそんな事言うようになったんだな……。あいつの存在は偉大だな」
「話はそれだけか、ならば我はもう行く。このような話に付き合う気は無い」
「まー待てって。気分悪くさせたなら俺らが先に行くよ。お前は少しここにいろ」
「此処に?」
「隊長、私は先に行っております。編成の案は幾つか出しておきますので、後から目をお通しくだされば結構です」
「お前が人並みの感情見せてんだ、少しはその感情芽生えさせてくれた喧しい女神に感謝しないとな?」
場を離れる意を示した途端、エンダがフュンフを伴って去っていく。汝は誰の副隊長なのだ、という文句をつける間もなく、二人の姿が廊下の向こうに遠ざかって行った。
同時に会議室からも声が漏れて来た。先程まではあまり聞こえなかったのは、扉までの距離が遠かったからだろう。ギャンギャン子犬のように喚き散らす声は、扉が開くと同時に鮮明になった。
「――なくて! ――いんだよ!」
「――は分かりますが、おや」
姿を現したのは『鳥』隊長だった。
『鳥』隊長にして『花鳥風月』を統べる団長、カリオン・コトフォール。
毛先が跳ねる黒の短髪に、青を混ぜた暗色の瞳。騎士の家系に生まれ、騎士の模範とも言うべき偉丈夫だ。同じ国の旗を掲げている者という認識はあるが、彼自身に向ける特別な感情は無い。
しかしカリオンは違っている。まるで廊下で恋人を待っていたかのような姿のディルを見た途端、まるで愛玩動物でも見たかのような笑みを浮かべている。笑みの先にいるのが寡黙な猛獣だとしても。
「ひぇ」
猛獣を猛獣と見て、それらしい反応を返しているのはカリオンの背後に居た『花』隊長だけだ。しかし彼女の本心は別の所にある。
長い間片恋していた恋人に、団長に向かって尚も諦め悪く食い下がっていた声を聞かれていないかという不安を混ぜ込んだ短い声はしっかりとカリオンの耳に届いている。ぷぷっ、と噴き出す声がカリオンから聞こえたが、ディルはもうカリオンを見ていない。
「後は若い二人にお任せしようかな」
「お前さんだってアタシとそんな変わらねぇだろ!」
「じゃあ、お二人とも。私はこれで」
邪魔者になるのを恐れて足早に立ち去るのはカリオン。自然と恋人同士の二人だけが取り残されてしまった。
ディルは尚も『花』隊長を見ているが、彼女は目が合うとほぼ同時に視線を逸らす。そんな反応をされるのはさして久し振りでもないはずだが、ディルの胸に何となく不快感が過った。
「あの者に不服を言った所で、今更変わらないであろ」
「……言っとかないと、アタシが全面的に納得したみたいな形になっちゃうだろ」
指摘した内容は勘に近いものだったが、彼女から返るのは肯定のような言葉。
やはり、まだ納得していなかった。けれど彼女の声にあるのは、恋人となる前のようなぎこちないものではない。照れと戸惑いが混ざった、親愛を感じさせるもので。
「汝が納得していないのは全員が知っている。……今は準備期間と思え」
「……アタシと同じ状況になっても、同じ事言える?」
「言えるな。焦っているのは汝だけだ」
争い事は、騎士として生きていれば避けられぬ事象。ディルには焦りは無いが、先が見えない不安定な情勢は好きではない。だからひりつくような空気をしている前線に身を寄せていれば、『何か』が起きた時に一番に動けるのは自分だ。ディルにとって先発隊として国境に向かうのは、それだけの考えでしかなかったのだが。
「……はぁ」
彼女が顔を覆い溜息を吐く姿を見て、その考えが少しだけ揺らいだ。
そんな顔をさせたくて先発隊に立候補した訳ではない。
「アタシ一人空回りしてない?」
彼女の中の焦燥感が言葉になって出て来る。こういった感情を表に出せるのは美徳だ、とディルは考える。言っても言わなくても事態は変わらないが、彼女はこうやって自己の感情を整理しているのだ。
整理する事すら放棄しているディルとは違って、彼女は対峙する物事を諦めない。
そういう精神面は、嫌ではなくて。
「気付いたか? 今更気付くとは鈍いのだな?」
「それを貴方が言う!? ちょっと待ってくれない!?」
少しつつくと、彼女は憂い顔を振り切って声を大きくする。紅潮したような顔色は怒りの為か、それとも羞恥か。
喚いたところで彼女の憂いがそれでなくなるわけでは無いと知っているから、ディルはもうひとつ提案をする。
「……我は明朝出発だ。今夜、あの酒場にでも行くか」
行けなくなった『デート』とやらの埋め合わせにもならないが、それだけで彼女は。
「いいの?」
明るく、瞳を輝かせる。
「――汝だからな。嫌だと思っていることは、我は言わぬ」
「……嬉しい。ありがとう」
一瞬言葉を失った。それ程までに、一緒に居る時間を求められているなんて思わなかった。
彼女は友人に恵まれ、ディルじゃなくても他に食事を摂る者はいて。
けれど、彼女はディルの一挙一動に喜んでしまう。
「夜までに、こちらも所用を終わらせる」
「うん、アタシはどうせ明日に仕事回してもいいから……待ってるね」
「ああ」
その笑顔が曇るのが、嫌だった。
「可能な限り、早く終わらせる」
いつもは痛まない筈の足が、その時だけは嫌に痛んだ。
そういえば、『こっち』も何とかしないといけない。城下を離れるとなると暫くはまともな手入れも望めないだろう、ダーリャが居ない今となれば誰もこの足について知るものはいない。
道の先で彼女と別れ、ディルはフュンフの元へと歩を進める。
フュンフとの打ち合わせが終わり次第、八番街へと向かった。