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「……これは……私は夢を見ているのか……?」
フュンフが部屋に戻り、執務状況を確認してからの第一声がそれだった。
今の今まで、書類仕事をするディルの監視はフュンフの役目だった。隊長としてのディルの署名が必要な書類は数多く、しかし執務を率先してやるような性格をしていないディルは一人になろうものなら短時間でペンを置いてしまう。
だからフュンフは疲労感を訴える体を無視してでも、ディルの側で執務の補佐をしなければならない。その立場を望んだのが自分なのだから。
なのに今日のディルは明らかにおかしかった。仕事をした上司にそんな事を思うなど失礼な話だが、今現在『月』の元にある書類仕事全てが完了していたのだ。それは署名以外のものも。
「無礼な事を言うのだな」
「い、いえ、ですが」
フュンフが後から取り掛かろうと思っていた仕事がさっぱり無くなっていて、呆気に取られるフュンフを余所にディルが立ち上がる。
「時間が空いたであろ。少し出て来る」
「どちらへ?」
「別に」
素っ気なく返すディルはいつもの姿なのだが。
「フュンフ。その紙袋に触ったら命は無いと思え」
「紙袋……?」
自分の右腕にそんな剣呑な事を言うディルだけは、普段の彼とはかけ離れていた。
執務室を出たディルは、躊躇いも一切なく腰に佩いた愛用の剣以外手ぶらで足を進める。
向かう先は『花』執務室。恋人がいるはずの部屋だ。
「……ってえーとぉ? 備品があーで消耗品がこーで、だいたいの耐用年数がそーでぇ?」
その頃の『花』隊長は自隊の備品庫のひとつにいた。彼女の暗い銀髪は、今日は後頭部ではなく首筋付近でひとつに結ばれていた。服も騎士隊長としての威厳を感じさせるものではなく、簡素な服は男性が着ていても不自然ではない形と配色のシャツとズボン。もし彼女を知らない者が見たら平坦な胸元も相俟って、下働きの少年とでも思われかねない格好だ。
服に少量の埃を付けた彼女は書面とにらめっこをしている。険しい顔は、この備品庫に入る前から変わらない。
どうも備品の数が合わないと士官から報告を受け、自ら出向いて数の計算をしていた。
騎士というのは勉強が多少出来ても裏方仕事に疎い者が多い。士官は裏方仕事をしていても細かな作業に向いていない者もいた。そういう者達に仕事を任せるまどろっこしさが苦手な彼女はよく自分で出向く。
酒場に居た頃に兄の手伝いで在庫管理もしていたのだ。量は比べ物にならないほどに多いが、苦手でどうしようもない作業という訳ではない。体を動かしているのは書類仕事より好きだったから。
「……あー、合わないのは書簡入れと松明と砥石かぁ……。別に無くなったって事件が起きそうなものでもないしなぁ……。売り払うって訳でもないだろうし、危険性は今のところないかも知れんなぁ……」
「そ、そうですか? 良かった、じゃあ安心ですね!」
「安心だぁ?」
『花』隊長のきつめの眼光が仕官を捉えた。
「こんな在庫管理も出来ないような奴らを部下にしてるアタシの不安はどうでもいいって? ……お前さんが数合わないって言って来たから分かったからお前さんの責任は無いにしろ、数が合わない状況がいつから続いてるのか分からんからアタシにゃ不安しか無いんだけどなぁ?」
「もっ、申し訳ありません! そこまで考えが及ばず……!」
「責めてねぇよ、大丈夫。……でも暫くは在庫管理徹底させなきゃなぁ? ったく、持ち出した時に持ち出したって書けよ……」
文句を言いながら、手にしている書面に不足数を書きつけていく。幸いなことに計算が合わない品目も、その数も少なかったので整理は早々に終わった。最後に計数の為に動かしていた諸々を整理して、倉庫での仕事は終わる。
ディルがその倉庫へとやってきたのは丁度その時だった。
「っえ」
『花』隊長から声が漏れる。これまでだったら途端に挙動不審になって顔を背けるのが彼女だったのだが。
「ディル」
もう、これまでの彼女とは違う。
愛しい人へ向ける最大限の笑顔を浮かべて、書類を持ったまま恋人の名を呼ぶ。
同席していた士官は『花』隊長の変化にぎょっと目を剥いた。それまで普段通りの男勝りな姿しか見せていない隊長が、幸せを全面に押し出した花が咲いたような表情をしながら甘ったるい声で別隊の隊長を呼んだのだ。
そんな士官の驚きは全く意に介さない様子で、『花』隊長がディルに小走りで近付く。
「執務室には居ないと言われ探していた。倉庫整理か、ご苦労な事だ」
「たまにやると楽しいよ。座ってるより気分も晴れるし」
二人の会話は内容は恋人同士の男女が交わすものではなかったが、絶えず締まりのない顔をしている『花』隊長の姿を見ながら士官が肩を震わせて笑いを堪えていた。
城仕えの者にはほぼ余すことなく伝わっている『花』隊長の恋模様が成就したのを知っているので、彼女の喜びで空気さえも桃色に染まっているかのよう。
「逢いに来てくれたの?」
「話があってな」
「話? 何? ……嫌な事じゃないといいな」
男側は素っ気ないことこの上ないが、女側はその素っ気なさなど物ともせずに笑みのまま話を続けている。
ディルは倉庫内を見渡してみた。居るのは『花』隊長と男士官のみ。普通の感性を持つ者ならば自分の恋人が他の異性と一緒に居るのを快く思わないだろうが、ディルはそうではない。
士官はディルの視線を受けて一度だけ身を震わせたが、特に叱責されるでもなく注意が逸れたのを見て安堵に胸を下ろす。
しかし、こんな所まで来て話とはどんな内容なのか。士官がそう思っていると。
「明日時間を空けられぬか。『デート』なるものに誘おうと考えている」
「で」
『花』隊長の持っていた書面が音を立てて床に落ちる。
士官の目が最大まで見開かれた。
なんという色気の無い誘い文句。堂々とした口調から放たれる『デート』という言葉に、士官が一瞬自分の知っている意味とは違うのではないかと思ってしまった。
「………い」
「い?」
「……いき、……ます……」
喜びと戸惑いと羞恥とその他が混ぜ合わされた彼女の声は、声量こそ小さかったがその場にいた者には届く程度で。
普段よりも遥かにしおらしいその様子に、混乱を極めた士官が遠い目をしていた。ディルに向けるような感情を慈愛に代えて、自分達にも分けて欲しい、と。
「でも、ディル、そっちは忙しいんじゃないの? それなのに大丈夫?」
「我は行くかどうかと問うている。否応以外は聞かぬ」
「行く! 絶対行く!! ソルビットを執務室に縛り付けてでも行く!!」
彼女の口から、『花』副隊長である者の名が出て僅かに眉が顰められる。
男士官が隣に居ても不快とは思わなかったが、彼女の心の深部に留まる事が許されているソルビットの事を考えると胸中に不快感が過るのが分かった。
幸いにも『花』隊長はそんなディルに気付いていない。羞恥の時期を乗り越えた後は夢心地といった様子で微笑んでいる。
「明日楽しみにしてる。楽しみすぎて眠れなさそう……どこ行く? ディルと一緒だったらアタシどこでも嬉しい」
「そうか」
彼女は嘘が吐けない。
それを以前から知っているディルは、彼女の本心であるその言葉を聞いて瞼を伏せる。
素っ気ない返事に乗せたのは、ディルが自分で理解しきれていない喜色。断られるとは露とも思っていなかったが、快諾で返事を寄越されれば声も明るくなるもので。
「今日ねぇ、五番街に一泊しようって思ってたんだ。良かったらディルも夕食一緒しない?」
「……悪いが、明日の分の執務を片付けておかねばならぬ。明日の朝にでも迎えに行こう」
「迎え来てくれるの!? 本当に!? それとっても嬉しい!」
先程から何度も聞く『嬉しい』。
これまでもう少しだけと求め続けた言葉と笑顔だというのに、もう少し、が今でも足りない。
近付いた二人の距離が更に近付く。ディルが彼女の頬に手で触れ、そっと上を向かせる。
顔を近づけた時、ディルが仕官に視線を送った。
見るな。
眼差しにそう含めて睨みつけると、それと同時に士官が急いだ様子で自分の手で目を覆った。
他に視線も無くなった状態になってやっと、二人の唇がそっと触れ合う。
触れ合っただけの唇を、そっと彼女の耳元へ持って行く。半端に長い耳に吐息が掛かった彼女は、その熱を感じて僅かに身を震わせた。
「……汝が用意したサンドイッチを食した。悪くなかった」
「っあ」
「またいつか、用意して貰えるか?」
ディルにとっては砂や泥のような何かを口に入れるより何倍もいいという意味合いでしかなかったのだが、『花』隊長はそう受け取った訳ではないらしい。
真っ赤になって瞳に涙さえ浮かべながら何度も頷く彼女から離れると、「また明日に」と付け加えて倉庫を出る。
「……………うへへへへへへへへへへへへへ」
「隊長……顔緩んでます……」
まるで求婚を思わせる言葉を受けて嬉しさに身を震わせる『花』隊長を置いて。
勿論、その言葉だけで求婚と信じられるような幸せな思考回路はしていなかったのだけど。
次の日の朝はいつも通り来る。二者に限っては特別な意味を持つ朝の筈だった。
その日、自分の起床した部屋に自分の副隊長が訪れるまでは。
「隊長、重大な用件が」
ディルにはフュンフが。
「たいちょ……ちょっと……落ち着いて聞いて欲しいっす……」
『花』隊長にはソルビットが。
「緊急招集がありました。今すぐに、謁見の間に集まるようにとの事です」
腹違いの兄妹が自分達の隊長に告げた時、兄妹は自身の身を害されることまで考えていた。特にソルビットの方。
「そうか」
ディルは素っ気なくそう答えるだけで、フュンフの身をどうにかしようという意思は無かった。
しかし。
「っ……っあ」
愛しい人からお誘いを受けて逢瀬を心待ちにしていた側はそうではなく。
「…………アタシのディルとのデートがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
『花』隊長の絶叫は、泊まっていた酒場どころか近隣にまで響き渡るほどの声量で放たれた。
時間としては日の出から暫く経っていたとはいえ、その日は酒場店主が騒音の苦情対応に当たったという。