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『月』と『花』の隊長二人が恋人同士になったという噂は即日どころか即時広まった。
ディルは知らなかったが、『花』隊長の恋模様はずっと以前から城仕えや関係者たちの良い茶請け話にされていたのだ。知らぬは当人ばかりなりとはよく言ったもので、国外に少しの縁があった者まで知っていた。
そんな二人が恋人に、ということで城内は密かに湧く。
「へぇ、やっとか。……さて、ソルビットに金返して貰いに行くか……」と言ったのは『風』隊長エンダ。
「それはめでたい。式はいつになるでしょうね?」と言ったのは『鳥』副隊長のベルベク。
「……なんであいつら俺の式典が切っ掛けでくっつくんだよ……。今度は俺の恋路の方に協力しろよ……」と悲し気な表情で漏らしたのは『風』副隊長にして王子騎士のアールヴァリン。
「やだ! 期間は『式典が終わるまで』だったでしょー!? ちゃんと終わったっしょ! 終わってからあの二人くっついたもん! だから賭けに勝ったの!! 返金なんて絶対しない!!」と叫んでいたのは二人の仲の進展について非合法に行われていた賭けの結果に物言いがついた『花』副隊長ソルビット。
「肩の荷が下りた」と短く零したのは『月』副隊長のフュンフだ。
「うん……、喜ばしい話があるのは良い事なんだけどね。……君達……何か忘れていないかい?」
と、目元だけ険しい苦笑を浮かべたのは騎士団『花鳥風月』の団長にして『鳥』隊長のカリオン。
幸せなだけの時間は長くは続かなかったが。
交際が始まった次の日の正午前。
ディルの元に、小さな紙袋が運ばれてきた。『花』の騎士だという彼は不気味なまでのにやけ面を隠そうともせずに『月』執務室を訪ねる。
「詳細はこちらの手紙をお読みください」と紙袋と一緒に渡されたそれは赤色の模様が入った封書だ。『花』が執務以外の用事がある時――例えば飲み会の誘いだとか――に回すもの。酒が一切飲めないディルはこれを受け取るのが初めてだ。
幸運なことに、フュンフは席を外している。城外の用事だと言っていたから、そのまま休憩も取って戻るだろう。
邪魔者は誰も居ない室内で、ディルは無言のまま手紙を開く。
差出人は『花』隊長。それが判明した時点で、ディルはそれまで向き合っていた書類仕事をすべて放棄するつもりだった。
『ディルへ』
外見とは違って綺麗とは言えない字面で、それでも時間をかけて書いたであろう彼女の様子が目に浮かぶようだ。
『今日、少し早い時間に起きてしまいました。また寝直そうかと思ったけど出来なくて、ディルのこと考えてたら勝手に炊事場に足が向きました。時間が無い時でも食べられるものをと思って作ったので、もしよかったら食べてください』
締めくくりに『大好きです』と書いてある彼女の手紙を、机の引き出しに入れ込む。あまりに浮かれすぎた内容ではあったが、ディルはまた後で読み返すつもりだ。
さて、食べてとは何のことだろう――ディルは紙袋に手を伸ばす。
封を開けると、中にはサンドイッチが入っていた。固く焼いたパン生地に挟まれているのは葉物野菜とトマト、チーズ、ハム等々。断面から見える彩りは鮮やかで、それが紙袋の底面に沿うようにぎっしり詰め込まれている。
時間は昼前だ。彼女が直接渡しに来ないということは、『花』は『花』で執務が溜まっているのだろう。これまでの事を考えたら無理のない話だ。
「…………」
ディルはサンドイッチを目の前に固まっていた。食と言う行為にあまり興味がないディルは、彼にとって大量とも言うべきサンドイッチをどうしたものかと思いを馳せているのだ。
自覚がある程の小食であったディルは、味と言う物さえあまり感じなかった。誰かが美味いと言う食べ物を口に入れても、砂を噛み泥を飲み下すような感覚だった。実際ディルは砂を食べたことがある。その時もやっぱり美味しいと思えなかった。
先代『月』隊長のダーリャがディルの味覚異常を知った時には、栄養だけは取れるようにと干した野菜や穀物を食べさせられた。
フュンフにそれが知られてからは、仕事が出来る程度の熱量を摂取できるようにと出される紅茶に砂糖を大盛り入れられるようになった。甘さはやはり分からなかったが、底面に残るじゃりじゃりとした食感は本物の砂のよう。
「……」
幾ら小食だからといって、自分を想って作ってくれた恋人の好意を無碍にしたくない。
紙袋の中にある一番端のサンドイッチに手を伸ばしたディルは、それを持って暫し考え込む。
多忙な彼女の時間を割いて作られたそれは、今まで見て来たサンドイッチの中でも一際輝いて見ていた。しかしあるのかも分からない食欲は、特にそそられることも無くて。
「………」
一口齧る。
「……」
もう一口。
「…………」
更にもう一口、が続いて気付けば手は空いて次のサンドイッチを取っていた。
二つ目のそれを口に運んだ瞬間、ディルが自分に愕然とする。
ここまでの量を一度に食べたのは、記憶している中で初めての事だった。
もぐもぐ、と口の中のものを咀嚼しながら、何度も目を瞬かせるディル。これまで微々たる程度しか感じていなかった『味』という感覚が、このサンドイッチを口にするとやけに鮮明になる。
バターを塗ったパンの味、トマトの青臭さ、チーズの濃厚な風味、ハムの塩味、葉物野菜の瑞々しさ。それらを美味しいと形容するかどうかは、まだディルには分からない。
二つ目を食べ終わり三つ目に手を伸ばすころ、執務室の扉から打音が聞こえた。
「開いている」
手にしたそれに齧りつきながら、来客を室内へ入らせる。現れたのは二人分の影。
短めの黒髪を無造作に書き上げたような髪型になっている『風』騎士隊長エンダ。
エンダよりも几帳面に後ろへ撫でつけた濃紺の髪を持つ『風』副隊長アールヴァリン。
二人はディルの姿を見るなり驚いた。二人の前ではろくに固形物を食べないディルが、サンドイッチを口にしている光景に。
「……早めの昼食中、悪いなディル。買って来たのか?」
「物資提供だ」
「提供………。あれか、愛妻弁当って奴か?」
「愛妻? あの者は我の妻ではない」
「はいはい」
言葉遊びもディルには通じないので早々に切り上げ、早速執務室を訪れた本題に話を移す。
「近々、騎士団の隊長副隊長を招集するかも知れん」
「招集? 会議ではないのか」
「会議っちゃ会議だけど、いつもみたいな空気じゃないのは確かだ。……どうも帝国が今まで以上にきな臭くてな、最悪……ってのを覚悟して貰いたい。その事前打ち合わせって奴だな」
暈しながら言うエンダの次にアールヴァリンへと視線を向けると、暗い顔で頷いた。
王家に連なるものとして最悪という『戦争』へ繋がる未来を考えているのだろう。それだけ、帝国と王国は犬猿の仲とも言える。
ディルはいつもの冷静な表情で聞きながらも、サンドイッチから手を離そうとはしなかった。それを見て、話を伝えるだけ伝えた『風』の二人が苦笑を浮かべる。
「……お前がそれだけ食べてるんなら、そのサンドイッチはさぞ美味いんだろう? どれ、俺もひとつご相伴に――」
紙袋を掠め取ろうとしたエンダ。しかしそれよりも先回りして、ディルが両手で紙袋を抱えて体の後ろに遠ざける。口にはそれまで持っていたサンドイッチが緊急避難として咥えられていた。
もごもごもごもごもご、と眉を顰めた険しい顔のディルが抗議するが、口にものを咥えては言葉が聞き取れる訳も無く。
「ブフォッ」
笑いのツボが浅いアールヴァリンが噴き出した。
「……………うん、まぁ……悪かった。もう横取りしないから……大丈夫だから………ほら……もう警戒するな……」
エンダは謝罪した。
まるで犬猫にでも諭しているような口調。その表情が哀れな何かを見ているようで、これもまたアールヴァリンの笑いを誘う。二人に背中を向けて腹を抱え始めたアールヴァリンは、今度は二人から見られる側になった。
横取りしない、の言葉を受けてディルが机に紙袋を戻す。口に咥えていたサンドイッチも手に戻った。
「……まぁ、その、そういう訳だから。次から次に面倒な話ばかり来るが、どうなってもいいように準備しておけよって事だ」
「戦争が始まれば我は敵の首を落とすのみ。その準備など、たかが知れている」
「お前、今は一応隊長なんだからよ……。いや、お前は良くてもあの嬢ちゃんは違うだろ」
「嬢ちゃん?」
嬢ちゃんという呼称が誰を指しているか分かりきったものだ。しかしディルは直ぐにピンと来る人物がいない。『花』隊長はディルの中では『嬢ちゃん』と呼ばれるような幼い存在ではないからだ。
マジかよ、とエンダの口から声が漏れた。惚れた女が女なら惚れられた男も男だな、と。
「お前さ、戦争じゃ命の危険があるってことくらいお前も分かってるよな」
「一応」
「朝に景気のいい言葉を交わして離れた相手が、昼に死体になって帰って来ることもあるんだ。……お前は違っても、嬢ちゃんは不安になってもおかしくないだろ。……ネリッタ様の事もあったんだからよ」
「………」
ネリッタ、という名前の持ち主がどんな存在だったか、以前より王城に仕えていれば忘れることが出来ないだろう。
ネリッタ・デルディス。先代『花』隊長であり、今代の『花』隊長を副隊長に起用し重用した人物。彼女をまるで娘であるかのように可愛がり、また彼女も彼を強く慕った。
彼の最期は呆気なかった。追撃戦に参加した彼は帝国の残党が落としてきた巨石の下敷きとなって死んだ。それも部下を助けるため、身を呈して守ったのだ。
あの時もしディルが追撃を仕掛ける事に反対していたら、彼は今も生きていたかもしれない。そして彼の死が、彼女の記憶に暗い影を落とすことも無かったろう。
「我は、ネリッタとは違う」
「そうは言うけど……不安ってのは理屈じゃ無いんだよ。お前が幾ら大丈夫って言っても、恋人の身を案じる乙女心ってのは汲んでやれ」
「我に多くを望むな、とあの者には伝えてある」
言っても泥沼に杭でも打ち込んでいるかのような反応しか返らない。これだから、とエンダが漏らしたがディルは気にも留めない。素知らぬ顔で再びサンドイッチを食し始めたディルは三つ目を平らげた。
「……こうも無頓着なこいつのどこが良かったんだ……なぁアールヴァリン」
「俺に言われてもな……。エンダ隊長、あまりココで時間使うのも良くないと思うが……そろそろ移動しないか?」
「そうだなー……。でもよ、ディル」
伝える事は伝えた。去り際のエンダは、ディルにたったひとつの助言を残す。
「近いうちに一回でも、あいつ連れてどっか行っとけ。こういうの、連合の方じゃ『デート』って言うらしいぜ」
「デート?」
「逢瀬の事だな。恋人同士なら望むだなんだって難しく考えなくても、一緒に居る時間があるだけで関係も深まることがあるからさ」
「……深まる関係とは、恋人以上の関係があるということかえ?」
「そこはお前が考える事だよ。あいつはお前が逢瀬に誘ったら絶対喜ぶと思うぜ」
アールヴァリンは呆れ顔だ。自分よりも年上の癖にどこまで恋愛沙汰に無関心なんだと顔に書いてある。
またも一人きりになったディルは、紙袋の中を覗き込んだ。まだ半分残っているが、これまで小食を貫いてきた胃袋はそれ以上収めるのを許してくれそうにない。液体以外で初めて満腹感を感じつつ、袋の口を折りたたんで机の端に置く。一度に食べきれるとは思ってなかったが、誰かに譲ろうという考えもさらさら無い。まだ食べられるようならこれは夕食になる。
腹が膨れたところで、再び書類に手を伸ばす。今日中に処理しなければならないものが多量に残っていた。
「…………」
エンダの言いたい事はよく分からない。執務中であれば同じ時間を過ごしていることもままあるのが隊長同士だ。会議の時間など最たる例。
しかし『デート』という聞き慣れない言葉を用いてまで、エンダがディルに逢瀬を進める理由は何となく理解した。
『花』隊長が喜ぶから。
その理由は、ディルの思考の海を一定方向に舵を取るのに充分で。
ディルは書類仕事を進めた。
休憩を終えて戻ってくるフュンフが見たのは、普段だったら積まれたままであるはずの書類が綺麗に片付いている執務机。そしてそれは、見慣れない紙袋がおいてある風景だった。




