102
断りの言葉を入れたのは、半ば無意識だった。
彼女を逃すまいと手を、腕を、背までを包み込むように回す。それと同時に、上着は床に落ちてしまった。
彼女自身の香りがすぐ側で香って、小さなぬくもりが胸の中に収まって、漸く息が出来るような思いだった。けれど何故か、自分の心音が煩い。
は、と吐いた息は彼女の耳の側。ぴくりと体を揺らした『花』隊長の声が震えている。
「……なん、で……?」
その震えを可愛らしいと思った。声だけではない。今まで何回か思ったことがある。
「……フュンフが」
「……ひゅ、ふゅ、ふゅんふが?」
「言っていた。我の、汝に対する感情が解らぬと話したら、一回抱いてみろ、と」
「だ―――、だ、抱!?」
間近で聞く声がディルの鼓膜を激しく揺らす。このまま鼓膜を破られても、今は聞いていたい声。
この女の慌てぶりを見るに、ディルが考えていた意味合いとは違っていたように思える。
全く、世俗の言葉は難しい。
「な、なんでそんな」
「汝が『好き』と。……我に、言ったな。あの時、汝に言った心の動きは、嘘ではない」
違うと告げた言葉は、今になっては誤りだと気付く。
ディルの思う『可愛らしい』は、きっと『好き』なのだろう。けれどまさか彼女がディルに対してそう思っている訳はあるまい。思われていたら、少し、戸惑ってしまう。どう思われたいかなんて事も、少し考えただけでは分からないけれど。
「……それって、どういうこと?」
「『好き』が、解らぬ。花を慈しめどその様が枯れる時、我は残念に思えど……母を亡くした子のように、嘆き悲しむことは無い。先の戦争で、何人もの部下を亡くした。……それは花が枯れる時と同じく、残念に思えど涙が出てくることは無かった。それが戦争だからだ」
心が冷え切っている。
まるで人形のようだ。
正面切って言うことが出来ない者からそう陰で囁かれていても、ディルは今までは平気だった。
けれどもし、この『花』隊長から言われていたら、多分、苦しい。
「汝の『好き』を、否定は出来ぬ。我の『好き』は、まだ解らぬ。……こうして汝を抱いてみても、心臓の鼓動が数を増すばかりで他に変化がない」
「……えぇ……?」
動揺しているだろう彼女の顔が見たくなって、そっと体を離した。思った通り、彼女の顔は真っ赤に染まり上がっていて、混ざり子の証である中途半場に長い耳の先さえ顔色と同じになっていた。
こんなに近くで顔を見られて、触れられて、少し前までならそれでいい、と思っていた事柄が現実になっている。なのに、現実になったというのに、今はそれでは足りない。
もっと。
もっと、欲しい。
「『好き』同志は、共に居たいと望むものだと聞いた」
「……うん」
「我はそう望んだことが無い。望み、というものがそもそも解らぬ」
――この感情を抱くまでは。
「我は指令と命令を実行してきただけだった」
「……」
「望みと命令実行はどう違う?」
答えが出ないものを、彼女と共有してどうにかなる話でもないが。
けれど彼女は言葉を呑み込んで、一所懸命に考えてくれている様子だった。
望んでどうなる。これまでは全てを享受するか拒否するかだけだった。拒否の選択肢も、自分には殆ど与えられなかったというのに。
「我には、『ヒト』の気持ちが解らぬ。『月』と呼ばれるのも、或いは仕方のない事なのかもしれぬ」
「……それは、アタシと一緒にいられない……っていう……断りの言葉なの?」
似合わないまでにしおらしい声が聞こえた。ディルの胸が、跳ねる。
「解らぬ。……解らぬのだ」
理解出来ない事象だとしても、彼女の言葉でひとつだけ分かったことがある。
『一緒にいられない』ではない。出来得るのならば、『離したくない』。
自由意思は命令とは違う。自分で考えたままの行動をするのはディルにとって難しい。
けれど、彼女は自分の意思でディルに想いを伝えたのだ。だから、それに返すのはディルの意思でなくてはならない。
憂いた表情も、他の誰かには気安く見せていた笑顔も、こうして真っ赤になっている顔も。その全てを、欲しいと思ってしまうのが『望み』なのか。
絞り出した声が、いつもの冷静を保っていられなかった。感情につけられる名前が分からなくて、思わず目の前の存在に縋る。
縋られた方は「わ」と短い声を出したが構っていられない。今更胸が刺すような痛みを訴えて来た。
痛くて、苦しい。彼女から向けられる好意に、返せる言葉が出てこない。出来れば、彼女にとっての『嬉しい』を捧げたかった。
「何だ、この感覚は。解らぬ。何と言えばいい。この感覚に名前はあるのか」
「っ……」
「望む。何をだ。何を望めばいい。汝の言う『好き』とは――好き、とは、何だ?」
守りたいと思う。
可愛らしいと思う。
触れたいと思う。
けれど立場上互いにいつも側に居られる訳ではないと分かっている。感情が豊かだからこそ彼女の笑顔をいつも見られる訳は無いだろう。女である彼女を大切に思うのは、性差がある同じ騎士としては当然の事だ。彼女を嘘を吐かない人間だと知っているから信じることが出来る。
本を読んでも、答えは書いていなかった。
けれどそれは、ディル自身が『好き』を理解しようとしていなかったからかも知れない。他と違うと言い聞かせる事で保っていられた自分が自分でなくなってしまいそうで。
今のディルでなくなってしまっても、この女は変わらず好きと言ってくれるのだろうか?
もしそうでなくなったら、きっと今度こそ、ディルは壊れてしまうかも知れない。
「……ぃ、た、」
気が付けば、彼女に縋りついた腕に余分に力が入っていたらしい。か細い吐息に混じった声が不快を訴えていた。
焦って腕を外す。不快にさせたい訳ではない。傷付けたいなどと考えていない。これ以上失態を繰り返さないうちに、少し物理的な距離を置こうと半歩下がった。
彼女の前では、どうも普段通りの自分ではいられなくなる。ディルはその自覚がありながら、その理由さえも分からない。戸惑うなんて事象を、この女以外が与えて来ることなんて無かったけれど。
もう少し下がった方が良いか。そう思ったのも束の間、ディルの腕が引かれた。
「――?」
するはずのない油断をしていた。気付けば力は抜けていて、そのせいで躰が傾いでしまう。
体勢を整えて反撃することも余裕で出来る筈だった。しかし、引いて来た相手が『花』隊長だということでその気も失せる。
距離が近付く。たった一歩分の距離が縮まったと同時、彼女の顔で視界が埋まる。
唇に、唇が触れた。
「――……」
その行動を何と言うかは知っている。
ディルは『月』の神父を取り纏める者として、結婚式を執り行う事だってあった。その中で交わされる新郎新婦の口付けは、今まで何回も見てきて、何の感慨もなかった筈の行為。
直に触れる彼女の唇が、温かい。
一瞬だけ触れた唇の主は、間髪入れずにディルに抱き着いた。ディルがしたそれよりも力は弱かったが、離れない意思だけは感じられる。
「嫌なら、……嫌だって思うなら、お願いだから振り払って。そしたらアタシ、もう、しない」
口ではそう言いつつも、振り払われたくないとさえ感じさせるほどの力の入れようだ。
真っ赤な顔で、震えて、涙目になっている彼女に思うのはやはり『可愛らしい』だった。
嫌だ、なんて思いようがなかった。好意を伝えてきた離れたくないとさえ思う相手に、何処が触れようがきっと嬉しい。
一度では足りないと思わせられるほどに。
「っ、あ」
『花』隊長の顎を指で掬った。そして身を屈めて、今度はディルから顔を近づける。ちゅ、と音を立てた二度目の口付けは直ぐには終わらせない。
唇の形をなぞるように位置を変えながら、暫くの間重ねていた。秒数が増えるごとに、彼女の震えが大きくなっていく。いい加減止めないと倒れそうだ、と思ったディルが惜しみつつも唇を離す。
「……ああ」
もう、二度と手放せない。
「嫌、では、無い」
まだ分からなくても、この感情の名前が分かって、そして伝えることが出来たらきっと笑顔を浮かべてくれるのだろう。
ふにゃふにゃと力が抜けたように床に座り込む『花』隊長をそっと抱きかかえ、ソファに座らせてやった。ディルは彼女の前で膝を付き顔を覗き込む。
暫く休憩しないと、互いに執務に戻れなさそうだ。
「……あ、の、あの、その、ディル。……アタシね、その、えっと」
真っ赤な顔は変わらない。まるで地上で溺れているかのように、口を開けて荒く息をしているのも。
「どうした?」
呼びかけに応えると、彼女は目を閉じる。
「貴方が、好きです」
「聞いた」
「だから、……だから。あのね。もし、ディルさえ良ければ、なんだけど。」
まるで羽虫の音のような小さな声。
「……お付き合い、してください。その、今からどっか行く、とかいうんじゃなくて。これからずっと、恋人として、ディルの側に、いたいです」
普段の彼女であれば、このような切れ切れになる話し方はしない。何かしら言いにくい言葉なのかと思うが、聞いた側のディルは不快にならない内容だった。
『これからずっと』
『側に居たい』
聞き届けたディルは頷いて見せた。ディルの望みに限りなく近い提案だったから。
ディルの首が縦に振られるのを見た彼女の表情が、途端に花が綻んだ笑顔になった。ずっと窄んでいた蕾が漸く花開く。その瞬間を、漸く見ることが出来た。
「……嬉しい」
「そうか」
美しく可憐な『花』。その認識が途絶えた事は無い。例えどんな粗暴な振る舞いをしていたとしても、ディルにとって彼女は唯一の存在だった。
これで『花』隊長が自分だけのものになるとは露とも思っていない。公人としての彼女の能力はこの国には必要とされている。彼女を慕う者だって、ディルが独占することを快く思わないだろう。
でも、笑顔を見られるようになる。見たいとずっと思っていた笑顔が、これから傍に在る。
「恋人、というものが何を以て恋人と言うのか具体的には知らん。汝が思うようなことが出来る男ではない事は念頭に入れておけ」
「アタシが思う事? ……んん、アタシだって……恋人とか、そういうのとか、ディルが初めてだからよく分かんない。……でも、いいよ。アタシはアタシがディルにしたい事する。だからディルは、嫌なら嫌って言ってね。アタシも嫌なことは嫌って言う」
照れ笑い。陽気な彼女が見せていた笑顔は今、艶やかな微笑になる。
またひとつ、知らない笑顔を知った。
「誓おう」
彼女の手を取り、指先に唇を落とす。
「今日此の時より、我等は『恋人』だ」
「………えへへ」
「機嫌がよさそうだな」
そう言うディルだったが、ディル自身の口許も緩んでいる事に気づいていない。
無意識の反応。それを初めて見た『花』隊長が驚いて目を丸くする。今まで一度として見た事がない表情だ。
「そりゃそうでしょ。……だってアタシ」
驚いた顔は、直ぐに綻ぶ。
「……ディルのこと、大好きなんだから」
笑顔でそう言ってのけた彼女の顔を、ディルは生涯忘れることができないだろう。
ディルが今まで知らなかった充足感は、その時に初めて与えられた。