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祝いから一夜明けた。
第一王子の生誕祝いは、一日で終わらない。朝から賓客棟の警護に回っている者や城下の警備に携わっていた者達は交代の時間だ。朝日が昇って暫くして、湯を持ってフュンフが執務室へとやって来た。
彼は一晩を外で明かした筈だが、振る舞いに変化は見られない。ただ肩や頭に乗っている水滴が雪の名残。
フュンフは執務机に居るディルの姿を見るなり、その表情を物憂げに変えた。
「……隊長」
ディルも一睡も出来なかった。眠れない事を分かっていて執務室にいたのだが。
机に肘をついて手を組み、それに額を乗せている。着ているものは昨日のままで、上着の無い礼服。
「フュンフか」
顔は上がらないが声だけは明瞭だ。フュンフは扉に鍵を閉めて、何か言いたげな様子で近付いてくる。
何を言うでもなく、紅茶の準備をした。持ってきた湯で淹れる紅茶は、ソルビットから貶されたもの。充分蒸らしてカップに注ぎ、砂糖を入れてソーサーと共に机に置く。
「……我が愚妹が、私と顔を合わせるなり噂を教えてきました。隊長、昨日……『花』隊長と何かあったのですか」
伝手がある者は情報が早い。ディルは寝不足のせいかそれとも考え事をし過ぎたせいか痛む頭を抱えながら顔を上げた。
ここまで頭が痛むのも初めてだ。とはいえ、聞かれれば答えない訳にもいかないだろう。
「色々あった」
「色々」
「……どう説明すればいいのか分からぬ」
それでも、と促されてディルは話し始める。
最初はアールキリア姫に言われたことを話すと、フュンフは目尻を吊り上げて「あの女狐は」と毒づいた。
次に、祝いの場を放置して城内の哨戒に回った事を話した。「そちらは後程詳しくお聞かせ願いましょう」……言わなければよかったと後悔した。
哨戒中に、『花』隊長を見つけた話をした。フュンフは何も言わなかった。
少し話した事。手を取ってワルツを踊った事。自分の感情を整理しながら話した事。――「好きだよ」と言われた事。
全てをフュンフは聞いていた。最後はずっと無言だったが、瞳はディルを見据えていたので聞き流していた訳では無いだろう。
ディルが話し終えると、フュンフはそこで漸く視線を逸らした。彷徨う視線がせわしなく部屋中を見渡している。そして唇を引き結ぶと、ディルにも届くほどの大きな溜息を漏らす。
「おめでとうございます」
「何がだ?」
「御二人とも婚約者候補として選ばれていたのに、と言いたいところではありますが……それで、隊長は何と返答を? さぞ『花』は喜んだでしょうね」
フュンフは『花』隊長の言葉をディルが受け入れたのだと思っていた。噂では『花』が失恋しただのなんだのと好き勝手に言いふらされていたが、この男が彼女の想いを拒む訳がないのだ。口ではどれだけ『分からない』と言っていても、無意識に彼女をずっと求めているから。
あの女が喜び勇んで暴走するのは目に見えていた。彼女がどれだけディルに片想いしているかは知っていた。伊達に長くディルの側に居て、副隊長をしていた時代の彼女の一時期の同僚ではない。
二人の恋路に手を貸さなかったのは、二人ともいい歳をした大人なのだから自分達でどうにかして欲しいと思っていたのが表向きで、その実あの小煩い彼女に易々と自分の命の恩人であるディルを渡したくなかったからだ。
けれど自分の性悪な質問に戻る返答を、フュンフは心待ちにしていた。甘い言葉で受け入れたのか、それともいつもの素っ気ない態度で了承したのか。そのどちらでも、暫くは『花』に向ける嫌味の材料が増えると思っていたから。
なのに。
「……汝とは、違うと」
「――は?」
血の気が引くのが分かった。瞬時に、噂の理由を理解した。
「あの者の言葉は、我とは違う。我は『好き』ではない。あのような穢れの無い『好き』が我に向けられているのなら、我の穢れた想いの名前は何なのだ。何故このような違いが生まれる? 触れたいと思っているのは我だけか。『触れたい』が『好き』なのか? 何故、我は、このような感情を抱く異物でしかないのだ」
ディルが自分の感情に思い悩んでいた事態は、フュンフが思っていたより根深いらしい。
フュンフは、ディルが昔にどういう生活を送っていたのか知らない。何故ここまで感情が希薄かつ無理解なのか、知ろうともしなかった。其処に居るディルが全てだと思っていたから、過去なんてどうでもよかったから。
今も知ろうとまでは思っていない。だけど、このままの状態が続くならきっと誰にとっても良くない事態になる。
「……だから、『花』の告白を断ったと?」
頭に手を当てて痛みを堪えている様子のディルだが、きっと『花』隊長の方が辛い思いをしている筈だった。
ずっと想いを秘めていた相手から、気持ちを伝えてそんな言葉を告げられては――泣いているかも知れない。
ディルには、自分の痛みだけを思い悩む時間など無いのだ。
「こく……はく?」
「あの方は、隊長に想いを伝えたのでしょう。けれど隊長は『違う』と言った。通常はですね、伝えられた想いを受け入れれば、想いが通じ合って互いを慈しみ合う『恋人』ということになるのですよ。隊長の返答では、通じていない事になりますね」
「……その場合、どうなる?」
「さあ。気の長い者ならば、諦められずに想い続けるかも知れません。ですが、そうでないなら諦めて他の相手を見つけるかも知れませんね。あの方がどちらに属するかは……私では量りかねます」
彼女に向かって『お前が』『貴様が』と言っていた副隊長同期時代が懐かしくなる。あの頃から目障りで煩いとは思っていたが、今の状況では同情を禁じえなかった。
ずっと片想いしていたのを知っている。長い間、何年も。きっと彼女は今頃、ディルの迷惑にならないようにと諦めようとしている最中なのではないかとも考えられる。今まで黙っていたのは、ディルを困らせないようにと思ってのことだと分かっていたから。
「……『好き』とは、向ける相手を簡単に変更できるものなのか……?」
ディルの声が、震えていた。
フュンフはそこで初めて、いつもの白い肌よりも更に蒼白になったディルの顔を見る事になる。
「……隊長、そこまで思い悩まれるくらいでしたら――いっそ、『花』を抱いてしまえばいいものを」
力尽くででも、永遠に痕を刻み付けられるように。
抱く、の言葉にディルの指先が一番に反応した。けれど、ディルの表情は変わらない。
「……抱く……?」
フュンフが眩暈を覚える。絶対に分かっていない顔だった。
欲を抱えていながら、ここまでよく我慢できたものだ。このまま隊長に付き合っていたら眩暈と頭痛で昏倒しかねない。
両の手で自分の顔を覆うフュンフ。再び大きな溜息を吐いた後、不機嫌を押し隠した顔でディルに向き直った。
「隊長、礼服の上着が無いようにお見受けしますが」
「……礼服……ああ……、……昨日、あの者に」
「そうですか。では、あの方は今日にでも返しに来るでしょうね。義理堅いのは昔からです。……さて、あの方が来るでしょうか? それとも、副隊長であるソルが来るでしょうかね。……ソルが来たら、あの方は隊長を諦めたと判断できます」
「っ――」
「もし、あの方がいらっしゃった場合。……何を言うべきかを、考えておかないと……あの方はきっと、隊長に向けて二度と『好き』とは言わないでしょうな」
ディルは黙ってしまった。それから、何かを考えているように視線を巡らせる。
今だけは、その逡巡の時間が焦れったい。
「フュンフ」
「はっ」
漸く名を呼ばれた時、フュンフは力の籠った返事をしてしまう。
「……廊下で、待て。もし、来たのが『花』隊長であれば……中に。そうでない場合は……上着だけ受け取って、帰せ」
「畏まりました」
「考え事をしたい。……暫し、一人にしろ」
「そのように。……何かありましたら、お呼びください」
廊下に出たフュンフは、そのまま暫く来訪者を待つことになった。
都合よく追い払われてくれたのは有難い。ディルは立ち上がって、落ち着かないままに机の周りを歩いた。考え事をしている時は動いていると少しは楽だった。
ソルビットも。
フュンフも。
親は片方しか同じでは無いというのに、ディルに言う事は一緒だ。
何を言えばいい。
何を言えば最善だ。
全く分からない。焦燥感だけが募っていった。
「……――じゃねぇか、朝早くから――」
「――こそ、昨日は――疲れているだろうに――」
「別に疲れちゃ――。……そっちの隊長様は、この中かい」
堂々巡りの思考が解決しないうちに、廊下から声が聞こえて足を止めた。
聞き慣れて、聞き続けたいと思っていた声が聞こえて呼吸が上手く出来なくなった。
この声の持ち主が来ることを、祈るような思いで待っていた。
入室を窺う扉を叩く音が聞こえる。
暫く間が空いてしまった。
「入れ」と言う声が、自分で分かる程に震えた。
そして開かれる扉の向こうから、『花』隊長が姿を現す。
「……おはよう」
その声が、ディルに、「好き」と言った。
「風邪は、引いていないか」
扉が音を立てずに、フュンフの手によって閉められる。
自分でも、なんて馬鹿げた質問だろうと思った。簡単に風邪を引くような彼女では無いし、そうならないようにと上着を渡したのだ。目の前にいる彼女を見れば、その答えは出ているようなものなのに。
「お陰様で。……それで、これ、返しに来た」
『花』隊長が浮かべたのは、苦笑だった。力なく笑う眉が下がっている。
何も言わず上着を受け取れば、終わってしまう。彼女はディルに言った言葉を無かったこととして忘れ、諦め、二度とディルに同じことを言わなくなる。
受け取らなければいけない。その時には、彼女への感情を言語化出来たらそれが一番だ。
なのにディルの脳裏には、今の状況に相応しい言葉が全く出てこなかった。
何を言えばいい。同じように、好きだと言っていいのか。理解していない言葉なのに?
上着を受け取りたくなかった。もう少し、時間が欲しい。けれど一人で考えても、答えは出ない。
思考が再び堂々巡りを始める間に痺れを切らされてしまった。彼女が足を進め、側まで来て、ディルの胸に上着を押し付けた。受け取れ、と、言外の意思がディルの胸を貫く。
――いっそ、『花』を抱いてしまえばいいものを
フュンフの言葉が蘇った。言葉が出ないなら、行動で示すしかない。
伝えるべき言葉は見つからないが、偽れない衝動はある。
上着を持つ彼女の手に手を重ねた。すると彼女は、驚いたように目を見開く。
「……失礼、する」
叶うなら、二度と離したくなかった。