彼女は異世界の定義をするか?
何で? どうして? 結局同じ景色じゃない! しかも10階に行くはずが1階に行くし!
いつの間にか扉が閉まっていたエレベーターの中で、スマホだけをずっと見ていた。するとガコン、という音と共にエレベーターが上っていった。
自分が何もしていないのに動くエレベーターの中で、また心臓の音が大きく耳の中で響いていた。
ポン、という軽い音と共に扉が開く。モニタには3という数字が表示されていた。
「あらあ、アユムちゃんじゃない」
隣の井村さんだった。パーマしてるようにしか見えない天然パーマが特徴の人……確か大学生だったはず。思わずエントランスに降りて異世界に行く方法を表示させたままのスマホを制服のポケットに隠した。
「こ、こんにちは」
「どしたのぉ? 今日は随分遅かったじゃない」
遅かった、という言葉でハッと辺りを見渡す。今は九月下旬だけど、陽もそんなに短くないはず。なのに既にあたりは暗かった。隠したスマホをまた取り出す。時間はエレベーターに入った時間より二時間後の時間を示していた。
「と、友達と話し込んじゃって、へへ」
「そおなの? ふふ、ならまた今度お茶でもしにいきましょ?」
「あ、はい。また今度!」
「じゃあ私はこれからバイトなのぉ。おやすみなさーい」
「は、はい! バイト頑張ってください!」
ほんわかとした笑顔の井村さんを乗せたエレベーターが下っていくのを、呆然と見つめていた。井村さんは普段はとても優しく、勉強を少し教えてもらったこともある。ただ、今日は何だかあの笑顔が自分を見透かされているようで、声が上ずってしまっていた。
また、失敗か……。
1と表示されたまま動かないモニタを見て落胆していた。今回は明らかな失敗だ。途中、女の人が乗り込んできた時は本当に異世界に行けたと思っていた。だけど、これが現実。目の間にはマンションのエレベーター。異世界への扉は開かなかったのだ。
……でも、これで落ち込んでいる場合ではない。
私の成績はとても悪いんだ。これを覆せる方法は異世界へ行くしかない!
そしてまた、持っているスマホとまたにらめっこする夜を過ごすこととなった。
*
翌日、諦めきれない私は早朝にまたエレベーターの方法を試してみた。だが、今回は早朝にも関わらず色んな人が乗り込んできて、降りもせずにただひたすらエレベーターに乗ってることの恥ずかしさが勝ってしまった。
昨日感じなかった恥ずかしさと共に登校をする事にした。恥ずかしい。自分がとてつもなく恥ずかしい!
「自分が恥ずかしい?」
「はい。なかなか異世界に行けない私がとてつもなく恥ずかしいです」
「馬鹿につける薬は持ってないぞ。ベッドなら勝手に使えよ」
「違いますぅ!」
ガタン、と音を立てて立ち上がる。ここは保健室。そう、また最初に試した方法で異世界に行こうとしている! ……訳ではない。
昨日の夜はまた布団の中でスマホとにらめっこしていた。普通に調べるならともかく、動画アプリで異世界に行く方法なんて検索してしまうほど。
それはともかく、何故保健室にいるかと言うと正直に言うとサボりである。今の授業は数学。担任の先生の授業だ。
「お前の担任の授業だけサボりに来るなよ」
「担任の先生怖い」
子犬のように頭を振る。自分は可愛いと思っているその行為を見ずに、先生は机に向かってひたすらパソコンに文字を打ち込んでいた。鋭い切れ長の目がパソコンのモニタを睨んで離さない。は、と気づいたように目を開きパソコンを閉じる。
「お前の担任に聞いたぞ。やばいんだってな」
保健室に入って来てからようやく振り向いた先生はククク、と肩で笑った。哀れむ事もしないその笑みに、声を荒げる。
「やばいと言う言葉では片付けられないほどやばいんです! だから異世界に行くんです!」
「すまんが全然分からん」
さもお手上げだと言う感じで先生は首を振る。何がお手上げだ。こちとら異世界にいきたくてもう二回も試してるんだ。全て失敗に終わったけど……。
再びパソコンを開き文字を打ち続けている先生を睨んでいたが、観念して窓側のベッドへと向かう。特等席と言わんばかりのこの窓側のベッドに腰掛け、スマホを取り出す。ブックマークしておいた異世界関連のサイトを開いた。何度見ても同じ文言のサイトに、大分飽き飽きして来ていた。
でも、見れば見るほど惹かれていく。何かの引力?
「……お前は異世界をどう定義する?」
「どういう事?」
「何がどうあって異世界なのかって事」
先生は相変わらずパソコンのモニタを睨みつけるように見ている。しかも同じ姿勢で、ずっと。何をやっているのか気になり、近づいてみた。それに気づいたのか、先生はパタンとパソコンを閉じてしまった。
「俺は今ここにいる世界も異世界だとは思うが」
先生は突然振り向き、鋭い目で私を見た。驚いた。私の話がそれほど興味がないそぶりを見せていたのに。
しかし、その鋭い切れ長の目が私の答えを待っているようで、慌てて口を開く。
「私、は……」
「私は?」
「……やっぱり、絢爛豪華なお城と綺麗なドレスに身を包んだお貴族様のいる世界ですね」
私は自分が思っている事をはっきりと告げた。そう、こんな嫌な事ばかりの世界じゃない。中世の貴族か王族になって、贅沢ばかりの生活を送りたい。
すると、先生は眉間を皺を寄せ、まるで獣を追い払うように手を振る。これは良く見るもう会話したくない、あっちいけのサインだ。このサインを出すと先生は何を言っても聞いても答えてくれない。まるで自分が邪魔者扱いされたようで膨れながらベッドに戻ると、ベッドに放り投げたままのスマホを取る。ベッドに腰掛け、表示されたままのサイトのリンクを辿る。するとある駅名が目に入った。
きさらぎ駅。
初めて見る駅名だ。こんなありがちな駅名、本当に異世界の話か? と疑問を持ちながら見続けていくときさらぎ駅とはやはり異世界の駅のようだ。しかもこれはかなり有名な話らしい。なんだそれ。早く教えてくれよ。
どうやら異世界に行った人が掲示板で実況形式のように書いていくみたいで、とてもリアリティに溢れていた。今までの方法の体験談も見て来たが、ここまでリアルで、しかも長いのはなかった。その書いた人物の書き込みが無くなっている。もうそれは異世界に行ったまま元の世界に帰って来なくなる……本当ならそれは私の望んだ事。ともかく、ここまでワクワクするような体験談はない。
電車に乗って気づいたら知らない駅に着いていた。降りてみると遠くから太鼓や笛の音がする。駅のホームが古臭い。乗っていた電車には人がいないし、駅のホームにも人がいない……自分の想像する明らかな異世界ではないが、見ているうちに自分も、そのきさらぎ駅に行けるんだと錯覚してきてしまう。
よし、きさらぎ駅、行ってみよう! というか行く!
ベッドから立ち上がり、一応持ってきていたカバンを持つ。もうそうと決まったら行動したくてたまらない。授業なんて知るもんか。このまま異世界に行って帰ってこないからな!
*
「行きました、どうしますか」
『後五回、そうすれば身に染みて分かってくるだろう』
「それまで見ていろと」
『ここまで来れば止めることはない』
「今戻すと相違が発生してしまうということですか」
『そう。あくまでお前の仕事は正しく戻す事だ』
「分かりました。また報告します」
面倒な役割を引き受けてしまった、と電話を切った男はため息をつく。パソコンを開く。IDとパスワードを入れ、とあるページを開いた。メールをチェックする。何もない。これでいいんだ、とパソコンを閉じた。
これを繰り返せばいずれは望んだ結果になると、あの男は言う。しかし、私はそうは思わない。
私は私の仕事をこなしていけばいい。気付かれず、ずっと。