どうして人を殺してはいけないのか考えても仕方無い気がする
「どうして人を殺してはいけないの?」
こんな事を考えたり、学校の授業で議題になったりした人は多いかと思います。
私は思うのですが、こんな事を考えた所で殺人事件を減らしたり、人を殺そう、殺したいという衝動なりは抑えられないのではないでしょうか。
殺人事件の大部分は、ついかっとなって、だったと何かの文献で読んだ覚えがあります。
ついかっとなって、手元にあった包丁で刺してしまった。
ついかっとなって、花瓶を叩きつけた。
ついかっとなってやってしまったのが、世の殺人事件の理由の多くだったと思います。
これは私も経験があります。
居酒屋でバイトをしていた時の事です。
その頃は週末しかバイトをする時間がありませんでした。
新規開店したお店という事も重なり、お客さんが一番多い時間帯でのバイトで、ポテトフライとか天ぷらといった揚げ物と、串や焼き魚といった焼き物を担当しておりました。
正直、忙しさで目が回る程でした。
そんな頃の話です。
その時もお客さんが多く、注文が続けて入り、一人では捌ききれなくなってきました。
どうしようもなくなってきたので、ヘルプを頼みました。
そして助けに来てくれたのが社員のAさんです。
Aさんは続々と溜まったメニューをこなしていきます。
確かその時、私は焼き物をやっており、Aさんは揚げ物をやっていたと思います。
そのAさんが、材料がおいてある冷蔵庫を開け、「はぁ?」という言葉を口にしました。
忙しさで材料の補充が出来ていなかったからです。
手元の冷蔵庫の在庫が減ってきたら、大型冷蔵庫から補充しないといけません。
私はそれが出来ていませんでした。
全て私の責任です。
それに、Aさんにそれを直接責められた訳ではありません。
しかし、その時の私は焼き物だけでもテンパりそうで、Aさんの吐いた、責める感じを持った一言でもない言葉に、「はぁ、とは何だ、はぁ、とは!」とむかっ腹が立ちました。
一人では手が回らないからヘルプを頼んだのです。
勿論、無くなったら即補充するというマニュアルを、守れていない私が全て悪いです。
そんな時間があるなら注文をこなそう、と考えたのも間違いかもしれません。
でないと、ヘルプに入った方に迷惑をかけるからです。
事実、Aさんは困ってしまったのですから。
しかし、です。
そんな事は百も承知で、それでも、です。
注意された訳でもないですが、言い方ってもんに気をつけろよ、と思ったのです。
テンパリそうな時に、神経を逆なでする様に、「はぁ?」と真後ろで言われたら、ヤバイです。
手元に包丁がありましたので、もう少し激昂していたら、ブスッとしていたかもしれません。
ついかっとなってやってしまった、という殺人を犯した人の言い訳に、一人納得した記憶があります。
世の殺人事件は、ついかっとなって、だと思います。
人を一人殺したら死刑になるとしても、ついかっとなってやってしまうのです。
それは江戸時代を考えればわかります。
当時は人を一人殺したら死刑です。
それでも、やっぱり殺人は起きたのです。
ついかっとなって、起こるのです。
翻って、何故人を殺してはいけないか、です。
世の殺人事件の多くが理由がない、衝動的なモノであるとしたら、どれだけ人を殺してはいけないと結論が出た所で止めようがありません。
全ての人が、人を殺してはいけないんだな、と理解した所で、ついかっとなってしまったら、どんな事を行ってしまうのかはわからないのですから。
理解したらそれを完全に為せるとしたら、人生に苦労はありません。
手元に包丁があったらブスッとやってしまうかもしれないし、花瓶があったら頭に振り下ろしてしまうかもしれません。
階段脇だと突き落としてしまうかもしれないし、つい首を絞めてしまうかもしれません。
ついかっとなってやってしまうのに、事前にどれだけ人を殺してはいけないかを理解した所で、殺人は防ぎようがありません。
では、計画的な殺人には効果があるのでしょうか?
保険金を詐取する為、復讐で、快楽を求めて、お金の為に、人を殺そうとする思いを防げるのか?
無理っぽいと思います。
何故なら、露見する事によるリスクがどれだけ高い所で、それを為す事で得られるリターンが大きければ、為される可能性が高いからです。
ハイリスク、ハイリターンってやつです。
むしろ、リスクが高ければ高い程、他の人が簡単には殺人を選択しない状況であればある程、それが選択されるのかもしれません。
たとえば、共謀して殺人を犯せば全員死刑であったとします。
どれだけ端役だったとしても、死刑に処せられるとしたら、計画を防ぐ事が出来るでしょうか?
そんな端役で死刑にされたら堪らないと、警察に密告するでしょうか?
勿論、そうなる可能性は高くなるでしょうね。
暴力団など、そうなるでしょう。
しかし、世の人がそう考える様になれば成程、まさかするとは思わなかった、となるのです。
共謀して殺人を犯せば死刑になるのだから、誰かが密告するだろうと思ってしまうようになればなる程、共謀して殺人を犯す事で得られるリターンが高くなるのです。
いや、まあ、100の殺人の計画があって、90を防げる様になればそれで十分なので、良いのですけどね。
結論として、どうして人を殺してはいけないのかを考えても大して意味が無いかな、と思います。
結論が出てどうなるの? です。
どうして人を殺してはいけないのか、は関係なく、殺人は起こるのです。
理由などなく、起きてしまうのです。
どれだけ殺人が悪い事だと結論が出ても、つい起こしてしまうのです。
ついかっとなってやってしまうのですから、更生も無理です。
激昂して我を忘れて為してしまうのですから、同じ状況になれば再び犯してしまう可能性が高いです。
ついかっとなってしまうのは誰にでも起こりうるので、防ぎようもありません。
割に合わないと感じて殺人を選択しない。
その程度で十分です。
殺人に対する罰を重くすればそれで十分です。
その罰の根拠は?
それこそが人を殺してはいけない理由でしょうか。
でもこれって、人を殺してはいけない理由ではなくて、人を殺したら罰せられる理由ですよね。
そんなのどうでも宜しい。
はっきりとした理由など無くても、多くの人が漠然とそう思えば、罰はそうなります。
世間的に妥当だと判断されれば、特に問題になる事は無く、殺人を犯せば罰を受けるのです。
それが不文律です。
多くの人が妥当だと判断するから、不文律が法律になるのです。
世の多くの人が反発する事など、法として機能しません。
制裁は必要なのです。
まあ、人権意識の変化によって、そこの所は変わってゆくでしょう。
でも、その人権意識すら、多くの人が妥当だと思えなければ変わらないのです。
たとえば、死刑制度の廃止を訴える人は人権を問題視します。
冤罪を問題視すれば、自白のみの刑罰を止めればいい。
しかし、加害者の人権を尊重し、国家の殺人をやめろと言う死刑制度の廃止を訴える人は、加害者の人権だけが尊重されて、失われた被害者の人権は考えないのかという、世の多くの人の素朴な思いを変えられない。
世論に訴えられないから、世論を変えられないから、死刑は無くせない。
目には目を、歯に歯を。
人に死をもたらした者には死を。
良いか悪いかなど、どうでも良い。
人を殺したらアンタも死刑ね。
これで十分だと思います。