やらぬ善よりやる偽善、再考
反証として、犬や猫の出産シーンを思いました。
犬や猫の出産時には、変な気を回さず、黙って見守る。
変に手を出すと、落ち着かなくて難産になってしまったり、育児放棄とかの可能性もある、のでしたか。
この場合、善は何もやらない事。
やる偽善と嘯き、手を出すのは間違いです。
でも、何もやらないといって、実際には見守っている訳です。
必要とあれば手助け出来る様、待機しているのです。
なぜかと言えば、状況は常に変わるからです。
赤ん坊が呼吸をしていなく、このままでは死ぬのが確実な場合などです。
この時は、人工呼吸をするなりして、助ける事が出来ます。
助かる命を、やらないのが善だと言って見捨てるのは、果たして善でしょうか?
それが自然だから、というのは、野生の中でだけ通用する言葉でしょう。
私が嫌いなのは、思考の停止です。
状況は常に変化し続け、環境は変わり続けるからです。
何が正しくて、何が間違っているのかは、常に己に問いかけ、考え続けないと、正解には辿り着けないと思うのです。
しかし、何が正解かなんて、最後まで分からないのかも知れません。
正解だと思う、と信じるしかないのかも知れません。
今日はこれが正解と思っても、明日になればやっぱり違うかも、と悩むのが我々です。
そうではありますが、やらぬ善よりやる偽善と言う、その意識そのモノが受け付けないのかもしれません。
善と偽善の違いは何か?
状況が変わったら、行動を変えるのか?
それを判断する材料は何か?
やらぬ善よりやる偽善って、思考を停止した人の言葉に聞こえるんですね。
変わり続ける現実を前に、「こうだ!」と決め付けるその心が、何だか偏った思想を感じるんですね。
宗教にはまった人の様に感じるんです。
安楽死だって、状況によっては認められています。
絶え間ない激痛に襲われるとか、尊厳を守る為、とかです。
何が善で、何が偽善なのか、という難しい問題を、軽々しく言い切るのが嫌いなのです。
まあ、それについて、こうやって軽々しく述べている私が言う事ではない、かもしれませんが……




