数学の難しさ
僕は、嘘つきだとよく他人に言われる。何故だろうと顧みれど、全く見当もつかない。誤解を生じさせるような表現は用いないし、比較的丁寧な口調だと思う。
しかし、冷静にアナリシスする自分に非がないということは、なんとも言い難いな。
さて、僕は、本に嘘つきなのだろうか。
初めて嘘つきだと言ったのは誰だったか覚えがないが、僕が
「壁だって通れることができるんだ」と教室中に反響させた頃だから、小学生時だったか…。
それだとしても本当のことだし…。残念だが全く思いつかない。
若し、僕が嘘つきなのだとしたら、僕の存在は僕が認識し得る範囲内に在らないのかもしれない。
それはそれで少し興味がある、つまらなかった日常に一つの鉱脈が見つかった気がしたのはこの時なのかもしれない。
僕は、考えてみようと思う。
「何を」と言われても答えなどない。僕が考えるのはその
「何」にあるから…。
話しはかわるが、僕は数学というのが好きだ。
時に心をひき、時に滑稽で、愉快である。それは、人間そのものではないか。人間に性格があるように数学にだって性質があり、違いもある。他人に自分の心を理解して欲しい、仲良くしたいという人間らしい感情も数学にはあるんだと僕は思う。
夕顔の合弁花を楽しみながら感慨に耽るのも乙なものだ。
それにしても、数学だと聞いた途端に拒否反応がでる人を多々見掛けるが、なぜなのだろうと僕は考える。
ふと気付けば夕顔も萎んでいた頃合、辺りに轟くものは臓の定常波のみであり、虫の息さえも聞こえそうにない。
そんな景色描写を脳内から疾うに排除して一時経た程合に
「嗚呼、そうか、そうなのか?安易だからこそ複雑なのか」というある概念に至った訳である。 数学とは結局
「1+1=無限」を考えるものということだろう。我ながら表現が下手な上になんとトートロジーなのだろう。
しかし、今日に於いては正しいと言える。万人は、
「1+1=2」と認識しているが、
「1」にも与式にも条件がない以上、どの数学を用いても良いことになる。
もちろん算数では、答えは
「2」であるが数学まで拡張すれば答えは
「0」でもあるし
「1」でもある。将又
「10」若しくは
「無限」その場、その状況において自らが判断を下さなければならないのが数学の難しさなのだろう。
例えばそれが微分であればその点の傾きが解るからなんなのか、分数を分数で割るとどうして割る方が分母、分子が反対になるのか。
前者であればその点の傾きが分かればある方程式が導きだせる。
後者であれば、割るという作業を解答者は無意識的に難しくしてしまっている場合が多い。
丸いケーキを考えてみる。ただし、このケーキは生クリームも飾りもない半月型とする。
これがこのケーキの条件になり、数学的条件と言える。
そして、
「五人に均等にケーキを配るとすると一人分のケーキは丸いケーキの何分の一になるのか」という問いを付け足してみる。
答えは、
「10分の1」だが、ここには疑問は少ないと思われる。
しかし、この問いを五人でなく
「2分の1」とすると至極複雑になる。
答えは、
「1」だが、日本語として
「2分の1人」はおかしい。
だが、ここで視点を変えるとこうなる。
「二人の内一人にケーキを配るとすると一人分のケーキは」とすると一人に配るのと同義である。
つまり数学の難しさとは、
「考えることにあるのではないか」という仮説を立てることができる訳である。
考えることが好ましいと思うものには、安易であり、そうでないものには複雑という訳である。 では、数学が通用しないとしたら、面白いと思わないか?
プロローグなので堅く我ながら小説らしい表現も少ないと思います。次の章から、小説に仕立てていきますので、飽きずに読んで頂ければ本望です。