8-7 顔のない魔王
泥を吐くように、顔の穴から黒い世界を吐き出した。
ダンジョンの床が、水溜りのような黒い世界に浸食されていく。
塗り替えられた世界は魂を奪われてしまいそうな真っ黒さで、正視を憚られる。底なしの色に一度踏み込んでしまうと、二度と浮上できなくなってしまうという強迫観念。その生物的悪寒は、正しい。
怨嗟魔王は姿からして異常であるが、仮面を外した人間族の異常性が己を上回っていると直観したのだろう。黒い世界の嘔吐から、怨嗟魔王は避ける。
“Gaaaa……”
「…………死ね」
“GGッ、GAGAッ!!”
黒い世界の浸食面積は三畳未満。異世界の総面積と比較すれば大した面積ではない。ただ、異世界全土を埋没させるための第一歩としては十分だ。
腕を振り上げて突撃してくる魔王を沈めるにも十分だ。
「冥府に漂いし悪霊達、無念を晴らす機会をやろう」
死んでも死にきれない無念を持った悪霊達を冥府より呼び寄せる。黒い水溜りは墨汁のごとく不透明であるというのに、水面下に複数の気配が集まってくる。
とはいえ、肉体のない悪霊を何匹集めたところで、この世に対して物質的な干渉は不可能である。
「以前と同じく、海の中限定なら使用可能か。『同化』スキル発動」
だから、そこは俺のスキルで無理を通す。
「『動け死体』スキル発動。肉体を貸してやる。存分に恨みを晴らせ」
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“『同化』、己と他者との境界を曖昧化するスキル。
『魔』をすべて消費する事で捕らえた生物を体に吸収できる。
吸収した生物のレベルとパラメーターは加算されないが、スキルについては完全に受け継ぐ事が可能。
記憶については表層のものしか再現できないため、同化された人物を装っていても、中身は完全に別物である”
“≪追記≫
他者を己に同化するのではなく、己を他者に同化させる事も可能と言えば可能。
当然ながら、同化した分の質量の肉体が失われる。我が肉を与えよ、とは言うが自己犠牲半端無い”
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“『動け死体』、死霊を使う魂の冒涜者の悪行。
死者の魂を冥府より帰還させ、死体に戻し、生きる屍として蘇らせる。大前提として、生前の体が必要である。
断片化された魂が体に戻ったところで、生前の理性は取り戻せない。
冥府でも個を失わなかった悪霊が体に戻ったところで、生者の大敵にしかならない。
本スキルだけでは生きる屍を調伏できないので要注意。本スキル所持者よりもレベルが低ければ、自由に操作できる。複数の屍を操る場合、屍のレベルは合算して計算するべし。
屍は五体が欠落する事で死体に戻る。本スキルに防腐処置する効果はないので、屍が暴走しても放置しておけば時が解決してくれるだろう”
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『同化』も『動け死体』も、本来の用法からは程遠い効果と運用がなされようとしていた。
俺の下半身は足元の水溜りに沈み込む。
代わりに、水溜りすべてから真っ黒い腕が伸び上がり、接近していた怨嗟魔王の四足を掴み取る。強力な『力』を持つはずの怨嗟魔王が、トリモチに掛かったかのように固定される程の力強さだ。
いや、力強いなどという生優しさではない。魔王の筋肉を指で引き千切り、海の底へと奪っていっているのだ。怨嗟魔王の脚部は腐った血で染まり、悲鳴を上げた。
“GaaGAGGA!? 痛IIッ! 痛IIッ!”
黒い海の醜悪さの本領は、これからだ。
肉を奪った手腕が一本海底に消えると、二本に増えて浮上してくる。肉を得たのだからその分だけ増えるのは当然であるが、奪われる側としてはたまったものではない。
「早く、あの馬肉みたいな魔王から全部の肉を奪え。まだまだこの世界は広いぞ」
顔の穴から更に黒い泥を吐き出して世界を拡大する。
数を増やした腕に包まれて、怨嗟魔王の脚の本数は三本に減った。
このまま押し切れるのなら面倒がなくて良かったのだが、まあ、害虫と同じで魔王は簡単に死なない。
“――絶叫、振動、復讐、波動叫!”
真下に対して怨嗟魔王は四節魔法を放つ。イソギンチャクの触手みたいに増殖していた黒い手腕がまとめて弾けて飛ぶ。怨嗟魔王自身は魔法の反動を利用して、距離を離した。
「無駄な事を。……奪った肉の量は十分だ」
怨嗟魔王は、まともに着地できずに転倒している。数が減り、骨まで見えている脚では突撃攻撃は不可能だろう。そうなれば、遠距離からの魔法攻撃を主体としてくるはずである。
両腕を広げた怨嗟魔王は、予想通り遠距離から攻撃可能な魔法を詠唱する。
“GaaGAGAッ。――業火、疾走、火炎風!”
地下でありながら、灼熱の竜巻が天井まで立ち昇る。蛇行しながら高速に接近する。
「誰かある。魔法戦の時間だぞ」
内包したものを焼き尽くす火炎旋風が目前に迫る。
膨大な熱を空気越しにも感じられるようになり、気の早い髪先が焦げ臭く燃えだした時。
俺の傍、黒い水溜りの中から参上して来たのは……だらりと伸びた長髪だ。海の中から現れたのであれば当たり前だが、髪が青白い地肌に張り付いている。悪霊なので生き生きとはしていない。
「――凍結、崩壊、氷結撃」
長髪を顔に張り付かせた女性が、凍えた声で三節呪文を唱えた。
火炎旋風は属性を反転させ、炎から氷の柱へと変化する。指先でつつくまでもなく、怨嗟魔王の魔法は粉々に崩れた。
「氷属性の魔法使いか。さあ、いけ」
「…………ぁざご?」
女性はぼぅーっと虚空を眺めるように俺の顔を見た後、鼻を動かし臭いを嗅ぎ始まる。何か考えるように小首をかしげたと思うと、突然、俺の首を絞める。
「ぁざご。ぁあ? ぁぁぁぁあああ」
「悪霊に知能指数は期待できないか。魔法を唱えられるのなら構わん」
女性の生前のレベルは俺よりも数段高いのだろう。『動け死体』ではまったく調伏できていないが、問題はない。
女性の頭を鷲掴み、無理やり怨嗟魔王を視界に入れさせる。
「暴れろ。あれは恨みの対象だ。お前の敵だ。お前の魔法を持って、この世界に生きる物すべてを凍らせてしまえ」
「ぁ、ああああ?! ――静寂、氷塵、八寒、絶対凍土!!」
女性は暴走を開始した。彼女が知る最大の魔法を持って、世界の凍り付けを開始する。
ホールは冷凍庫のように冷え込んだ。ありとあらゆる箇所に霜が生じる。怨嗟魔王も例外ではなく、体の大部分を瞬間凍結させられて醜悪な氷像と成り果てる。
“GaGa……Ga”
「お前は飽きた。……冥府に飲み込め!」
顔の穴から黒い世界を吐き出しながら命じた。
既に階段下のホール数十平方メートルは俺の世界だ。黒い腕が数百本生えているショッキングな世界であるが、そんな気色悪いものが俺の世界だと思うと爆笑したくて仕方がない。
黒い腕達は、凍死しかけている怨嗟魔王に尋常な死に方を選ばせない。体を掴んでひっぱり、自分達が沈む黒い世界へと招き入れた。
“Gaaa、GHaaぁぁああははっ!”
異様な風貌の魔王は、完全に沈む前に意味深な言葉を残す。
“これで、苦しい生がようやく終わ――”
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“レベルアップ詳細
●ケンタウロスを一体討伐しました。経験値を二十五入手し、レベルが1あがりました”
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“●レベル:7 → 8(New)”
“ステータス更新情報
●力:17 → 21(New)
●守:10 → 13(New)
●速:19 → 24(New)
●魔:0/8 → 0/12(New)
●運:1005 = 5 + 1000”
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「ケンタウロスだと? 魔王を討伐したとはポップアップしないのか。獲得経験値も少ない。……怨嗟魔王の本体は別にいる?」
怨嗟魔王はモンスターとしては強かったが、常軌を逸したモンスターではなかった。今回の戦闘では見えない特殊性が、怨嗟魔王にはあるのだろう。
「……興味はない。どうせ、世界はすべて黒い海と化す」
だが、一介の魔王についてあれこれ悩む必要性は既にない。
俺はこのダンジョンを皮切りに、異世界の住民すべてを始末するつもりでいるのだ。今日より、魔王も狩られる側の可哀想な存在だ。
「今日より俺が唯一の魔王だ。悪霊共、いくぞ」
まずは、生物の多そうな上層に攻め込もう。
ホール全体に満ちた黒い海の中に下半身を浸したまま、歩く速度で階段を目指す。
最初に出遭う不運な生き物は、アニッシュだと個人的に面白いなと密かに期待する。捕えたスズナの目の前でアニッシュを黒い手腕に解体する。ふむ、実に魔王らしい。
……ただ、悪事は思い通りにはいかないものである。
階段から何者かが下りてきた。外套では隠せない華奢な体付き、おそらく女。少女かもしれない。
外套のフードが取り払われる。まだ幼い顔付きでありながら、美人としては完成の域にある顔が出てくる。
階段下には、真っ黒い海と無数の腕、顔のない怪物。誰もが共感する冥府の光景が広がっている。恐怖そのものだ。ゆえに、フードが取り払われた顔の表情は酷いもので――、
『キョウチョウ!! やっと、やっと逢えた!』
――満面の笑みと、純真な生物にしか流せない涙に頬が濡れて……ん?
「んんっ?」
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“ステータス詳細
●運:1505 = 5 + 1500”
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ちなみに、目の前の彼女。長い耳も特徴的で、どう考えてもエルフ耳なのだが、冥府を前にした笑顔と比べれば実に些細だろう。
「んんんっ??」
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“スキルの封印が解除されました
スキル更新詳細
●実績達成ボーナススキル『エンカウント率上昇(強制)』”
“『エンカウント率上昇(強制)』、己が遭いたくない相手と邂逅できるスキル。
百回出歩いて一回出遭えるのが通常状態だとした場合、スキル補正により十~五十回まで上昇する。出遭いたくなければ、家で引き篭もり生活を送る他ない。
強制スキルであるため、解除不能”
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ヒロイン不在が続きましたが、お待たせしました