1-6 ありがとう、それは感謝の言葉
また、手足を縛られて砂の上に転がる。
今日はこうやって終わるものだと思っていたが……なんと食事が運ばれて来た。
しかも、今日は木製のお盆に上にパンと水の入ったコップがある。なんて人間らしい扱いなのか。もしかすると、俺は川で溺死してしまって、現在は天国にいるのかもしれない。ブラボー、納屋にしか見えない天国。
『夕飯だけど……食べられるかな』
目前に置かれた後、投げ捨てられたり砂を掛けられたりする事もない。
本当に食べて良いのか確認するように上を見る。線の細い体の少女が、おどおどしながらも俺を見下ろしていたので、目線がかちあった。
「これ……食べても良い、か?」
『何か言っているけど、人間族の言葉は分からないよ』
困っている顔の少女の正体は、妹の子だ。姉の長耳と違って、実に優しい。
返事の内容はさっぱり分からない。が、まともな食事に我慢できなくなって、パンに噛み付く。
鈍器のように硬いパンでも、水に浸せば多少は柔らかくなる。コップを意図的に倒してパンに掛けて、半分に切られた丸いパンを苦労して咀嚼した。
『噛む力もないなんて。今度持ってくる時は、切ってあげるね』
妹の子が何か呟いている。
俺は食事を一時中断して、緩くなった涙腺から涙を垂れ流しつつ、感謝の言葉を口にした。
「あり、がとう。……ありがとう」
『アリガトウって何? え、泣いている??』
妹の子は、俺の顔に脅えているが、俺を憎しみの篭った目で見てない。食事の礼は当然だが、少女の清んだ青い瞳に対して感謝を言いたかった。
『怖い仮面の人間族なのに、泣いている。……アリガトウ。感謝の言葉なんだ。そうなんだ。アリガトウって。きっとそう』
記憶のない俺にとって、妹の子の温かな表情は他人が見せた初めての笑顔だ。世界中のすべてから憎まれていないという確かな証拠だ。
雛鳥は初めて見た親鳥の顔や声を覚え、慕うという。
俺は人間なので幼鳥とは異なるが、妹の子に強く親しみを覚えた。
……それにしても。話はまったく異なるが、俺の仮面の柄って何なのだろう。
納屋に捕らわれて三日目。
初日よりは人間的な扱いを受けている。
第一村人、姉長耳の態度は相変わらずであるが、世話役に妹の子が参加してくれたのが幸いだった。一日一回であるが食事は出るし、監視付きでトイレにも行ける。
安定した生活を送れているが、この平穏こそが次の変化現れる予兆だったのだろう。
「朝は姉の方か。ハズレだ」
『死にかけからは脱したか。ならば、今日連れて行くぞ』
朝から首に縄を巻かれた俺は、これまで行った事のない場所へと連行される。
連行中は重罪人の護送のように厳重な扱いであり、前後を四人の男に囲まれながらの移動だ。姉長耳も同行しており、俺の縄を握っている。妹の子の姿は見えない。
……あ、このメンツ。悪い事が起きるぞ。
俺が連れて行かれようとしているのは、村の中央になる大樹の内部だ。
集落の中心に生え、集落全体を枝葉の影に隠す巨木。その根は、育ち過ぎて地面からはみ出してしまっている。
巨木の根の合間には、人の手によって作られた螺旋階段が存在する。階段は最終的に幹の中まで続いているらしい。
「木と共に生きているって事か。てか、これ何段あるんだ。軽くビルの五階分の上まで続いているぞ」
『さっさと歩け!』
位置エネルギーを高める苦行をこなしていく。首を引っ張られ、刃物を背中に突き付けられて脅されれば、豚だって階段を登る。
到着した先は、細密な絨毯が敷き詰められた、金と銀の調度品しか存在しない豪勢な一室である。大樹の内部でありながら高価な品々に囲まれている。金属の乱反射で目が痛い。
そんな趣味的な部屋の最奥に座っているのは、老人だ。
老人といっても、灰色の髪と色の褪せた目を持っているから高齢だと判断しているだけであるが。ルーペで見なければ肌のシワは確認できない。
村の住民は誰もが等しく美麗で、等しく作為的な程に若い印象だった。年寄りを見るのは今回が初めてである。
ふむ。醜き同胞や、一定年齢になった同胞を山に捨てる習慣のある集落ではなかったらしい。
『トレアよ。人間族の対処、苦労しているようであるな』
俺の手綱を預けた姉長耳が一歩進み出た後、膝を絨毯に付ける。ひたすらに冷徹なイメージしかない姉長耳が敬意を示す相手なので、老人が集落の権威者であるのは間違いない。
ちなみに、俺は入室した段階で両膝を床に付けるよう強制されている。
『里長の手を煩わせてしまい、まことに申し訳ございません』
『良い。頭を上げよ。汝から直接、その醜い仮面の人間族の経緯を聞きたい』
老いてなお栄え続ける美顔の老人が語り掛けると、姉長耳は立ち上がる。俺の知らない言語で長話を始めた。
『この人間族を発見したのは、私が森で狩りを終えて帰還している途中です。行き倒れており、瀕死の状態でした。隠れ里の傍だった事を考慮した結果、拘束して連れ帰りました』
古樹の皮のように硬化した長耳を、老人は傾けている。
『捕らえてから三日目になりますが、他の人間族は確認できておりません。警戒のため、皆には隠れ里の外内の行き来を禁じております』
『ふむ、良い判断だ。齢五十のエルフとしては優秀である。この調子で経験を積んでいくが良い』
『はっ!』