1-5 妹エルフ
最悪の気分で迎えた朝は、やっぱり最悪な朝だった。
消化不良を起した胃が雑巾のように絞られている。腹の痛みは我慢できる限界を超えていた。手足を縛られたまま地面に転がっている俺がトイレに行けるはずもなく。……これ以上、みなまで語るつもりはない。
『臭いぞ、人間族!』
施錠が解かれ、扉が開かれた音がしたので目だけ動かして確認する。
金髪の美女が立っていた。昨日パンをくれた耳長女だろう。俺を見下ろす青い瞳に浮かぶ、真っ黒い憎悪の色を覚えている。
『姉さん。この臭いって?』
『人間族、口元が赤い……六本鼠の尻尾? お前は、何を食ったッ!』
『姉さん??』
『アイサ。入るな! 穢れる』
ふと、二人分の声が聞こえて来る。
どうも、今回、長耳女は一人で現れた訳ではなさそうだ。耳長女よりもハスキーな声の子が扉の外にいるらしい。
二人目の存在は少し気になるが、体調が悪過ぎて頭を動かす気分になれない。
『オークみたいな臭いがするけど、姉さんが捕らえたのって人間族だったような――』
だが、長耳女の背中に隠れていた二人目の方が動いてくれた事により、位置関係的に目が合った。
二人目の他人の耳も長かった。ついでに美人だ。
ただ、同じ美人であるが、長髪長身の耳長女とは少し異なる。肩口で切り揃えられた後ろ髪と、少し低い背という特徴で見分けるのは可能だ。年齢的にもニ、三歳は若いだろう。
二人目は、緑色のワンピースの下にタイツのようなズボンを穿いている。
『ひぃッ』
こう色々と観察していると、二人目は朝食と思しきトレーを地面に落としてしまった。俺の目線が不躾過ぎたからか、小さく悲鳴を上げたのだ。
『と、鳥っ!?』
顔立ちは中性的で、怯えた声質はやや低い。
おそらく、二人目の性別も女だろう。こんなに可愛い子が男で嬉しがる性癖はない。
『こ、怖いっ!? 何で鳥が? 人??』
『見るな。アイサが気にする相手じゃない』
二人目改め耳長少女は二歩も後退していく。
手で目線を隠して俺の顔を恐れているようだが、俺が付けている仮面はそんなに怖い絵柄なのだろうか。そうであって欲しい。
『アイサは水を運んできてくれ。それと、何人か男手を。あ、エーウッド達が良い。川に放り込んでこいつを洗わないと、とてもじゃないが里長を呼べない』
『分かったよ。でも、姉さんは大丈夫なの。その人間族、怖い顔しているのに』
『ただの仮面だ。魔法効果がないのは分かっている。桶はそこにあるから、早く行きな』
その後、新たに二人の美形な男が納屋に現れた。
新たな二人も整った顔と金髪、長い耳という特徴を持っている。どうやら、俺を捕らえている集団の共通項であるらしい。うらやましい限りである。
……となれば、全員が長耳となると長耳女に対して、長耳という個人識別は不適切なのだろうか。安直過ぎるネーミングであった。
とりあえず、長耳女の事を姉、少女の事を妹という仮称で呼ぼう。
俺の心の中で使うあだ名なので、本当の姉妹である必要はない。そもそも、何度も使う程に長い付き合いになるとは思えない。
妹が運んできた桶の中身を、姉が倒れている俺に容赦なく叩き付ける。
桶の中身の正体は、痛い程に冷たい水だった。血や汚物で悪臭を発する俺を洗おうとしているだけなのだろうが、消耗した体に対しては一種の拷問になってしまっている。冷水に体温を奪われて、歯茎が振動し始める。
『やはり、川に運ばないと無理だな。エーウッド、クレイユ、頼む』
二人組みの男が俺を押さえつけてきたが、俺に暴れられるだけの体力はないので過剰な処置だろう。
頭と背中を固定されている内に、長耳姉が俺の首にロープを巻き付けてくる。
ネクタイ――ってなんだっけ――さえ結び慣れていない俺としては息苦しい。犬のような扱いであるが、長耳姉はロープを引っ張り、俺を犬のように歩かせる。
こうして、俺は納屋の外を初めて目撃する。
外の世界は……清涼な大気が充満していた。
中央に極太の大樹が存在し、百メートル四方に広がる枝葉に守られるように集落が形成されている。
幹に板を打ち込んで作られた螺旋階段。
枝と枝の間に通された空中回廊。
蔦と苔で覆われた中央の御神木。
どれも自然と調和しており、素直に圧倒された。
高い場所ほど高価となるマンションのように、大樹の上にいけばいく程に家屋の作りは細かくなっている。地面の上に直接家を建築している住民は少数派であり、建物の多くは単純な作りをした倉庫だ。俺を捕らえていた納屋も、雑な作りの板張り建築の一つだ。
緑の中に住んでいる彼等は、俺が想像した通り、一様に耳が長い。また、顔の造形は個性があっても黄金比を遵守しており、集落内では美形しか歩いていない。
景色と村民に圧倒されて、つい、呆けてしまっていた。
というか動きたくないのだが、首のロープを引かれて渋々と歩き始める。姉女がロープを引いて俺を急かしたのだ。歩くだけでもしんどいのに、どこに連れて行こうというのか、ねぇ?
緑の集落から少し歩かされた先には、小川が流れていた。幅は二メートルもないが、深さは腰ぐらいまでありそうだ。
姉女は躊躇わず、弱り切った俺を川に落とす。異臭を発する俺に触れるのを嫌ってか、川辺に立たせた後に背中を蹴られてしまった。
『臭い人間族、さっさと入れ!』
絶賛衰弱中の俺は、当然の帰結として水を飲んで溺れ始める。首のロープがなければ川底に沈みながら下流へと流されていただろうが、ロープのお陰で窒息しながらその場に留まっていられる。
しばらく流水で全身を洗われた後は、天日での乾燥だ。
妙に日光で乾燥し易い体質の俺は、午前中の柔らかな太陽でも簡単に渇いていく。
特に、今日は昨日よりも乾燥体質が強まっている。ほんの、鼠一匹の血液量分ぐらい。たらふく水を飲んだ直後だというのに、喉が渇き始めていた。
そうやって洗浄が済んだ後、戻されたのはやっぱり納屋だ。汚してしまった内部は綺麗に掃除されて、消臭のためかハーブがまかれている。
良し、緑黄色野菜だ。後で食べておこう。
この物語の良心が登場です。
荒んだ主人公の心のか細い支えになるでしょう。