1-4 悪食
現状でできそうな事を全部やり遂げてしまった気がする。
もっと考察するべき事柄が残されている気がするのに、体がもう動かない。
そして何より、俺が思っている以上に俺の心は参っていた。覚えのない事で仕打ちを受けるのは辛い。世界を呪い滅ぼせる魔王になれる血色の薬があるのなら、迷いなく飲み干してしまいそうで、そんな自分が嫌で嫌で、本当に参る。
少し不思議なのは、記憶喪失でアイデンティティーを失っているというのに、その事に対する不安はかなり薄いのだ。一度罹った病原菌に免疫が付くように、記憶を失う前にもアイデンティティーを喪失する経験があったために心が慣らされているような。
そんなはずはないから、俺は不気味だ。
「喉が渇いて、痛い」
これ以上の思考は気分を沈降させるだけなので、もうしたくない。続けたくても、腹が減り過ぎて考えがまとまらない。
錆びた釘しかない納屋の中に、口にできそうな物が落ちていないのは調査済みだ。体力消費を抑えるために寝てしまおう。
そう瞼を閉じた直後、ふとももに激痛が走る。
「痛ゥッ!!」
反射的に両脚を閉じて奇跡的に生け捕りにできたのは、毛むくじゃらで尻尾の長い小動物だった。
尻尾が脚の間に挟まり、逃げ出せずにちゅーちゅー鳴いている。長い前歯で俺の太股に噛み付いたのだろう。
「これ……鼠か。まだ俺は死んでない。齧るなよ」
意味記憶から参照できる鼠の姿と少し違う。一番の相違は、脚が六本ある事だ。まあ、広い世の中こんな鼠だっているだろう。
鼠と言えど、内臓も含めれば百グラム前後ある肉の塊だ。が、死に掛けていても鼠を食うのは避けたい。ペストとか病原菌とかが怖いし。
暴れる鼠の前歯が痛いので解放してやろうとして……急に、発症した眩暈に俺は襲われた。
「が――あ、なん、あァ!?」
頭痛も併発し、視界に赤いフィルターがかかる。
「あああッ! はぁ、はぁ、ははァっ」
そして、俺の両目越しに見える世界は、可視光から外れて赤外線にガチャリとシフトした。
両脚の間で暴れる小さな鼓動が、なんて赤い。ドクドクと動く心臓に牙を突き立てて直接血を啜れば、高純度の酒なんかよりも喉越しが熱いはずだ。
小動物を生きたまま捕食する嫌悪感。そんなものでは俺は止められない――。
==========
“実績達成ボーナススキル『吸血鬼化(強制)』、化物へと堕ちる受難の快楽。
本スキル発動時は夜間における活動能力が向上し、『力』『守』『速』は二割増の補正を受ける。また、赤外線を検知可能となる。反面、昼間は『力』『守』『速』が五割減の補正を受ける。
吸血により、一時的なパラメーターの強化、身体欠損部の復元が可能。
一方で、吸血の必要もないのに一定周期で生血を吸いたくなる衝動に駆られ、理性を失う。生血を得れば衝動は一時的に治まるが、依存性があるため少量摂取に留める必要があり。
吸血鬼化の進捗度は、直射日光に対する精神疾患で把握できる。
症状の深刻化は吸血量によるが、初期状態でも長時間の日光浴により深度ⅡからⅢ度の熱傷を負う。要するに、夜に生きろという状態”
==========
――少しの間、正気を失っていた。
息を吸い込み、俺は理性を少しだけ取り戻す。
体を丸めた体勢で、俺は鼠の背中に噛み付いて血を飲んでいた。痛みを発する程に渇いていた喉に、滑った液体が薬のようにまとわり付いて潤う。全身の細胞も、生血を得た事で活性化していく。
知的生命体の血ではないので苦味が強いが、死の恐怖に暴れる鼠の血もそう捨てたものではない。
生きた鼠を貪るなど人間的ではないはずだ。
けれども、長過ぎる犬歯で鼠の体を切り裂いて、体の半分以上をもぎ取って、口内に押し込んだ。血だけを飲みたいのに、量が少ないから毛や骨ごと飲み込むしかない。
グロテスクな内臓と頭と尻尾だけになってしまった鼠が、目前で息絶えている。
食欲が一切浮かばないというのに、小さな臓物がピクリと動く様に唾液を飲み込み、俺は大きく口を開いた。
十分後。
「どうなっているんだよ、俺ッ! 何なんだよ、俺ッ!!」
俺は、消化器官をまるごと体外に出てしまいそうな吐気に、奥歯を噛み締めて必死に耐えていた。
口内には未だに味や毛が残っている。水中に頭から突っ込んで、ゆすいで綺麗にして、十分前の惨事を無かった事にしてしまいたい。
だが、俺は耐えた。吐く事だけは意地でも耐えた。
食ってしまったのなら、もう取り返しが付かない。ならばせめて己の血や肉にしてやらないと、生きたまま血を吸われた鼠が可哀想だったからだ。喉の外まで浮上してきた胃酸の味を、奥へと付き返す。
涙と鼻水と血痕で、俺の顔は酷い有様だろうな。
「生きた鼠に喰らい付いて、生血に酔うなんて、まとな人間のする事じゃないだろッ」
せっかく小さな栄養は補給できたのに、その夜は一睡もできなかった。
バッドスキルの一つが発動しました。
『凶鳥面』は持続効果ですが、『吸血鬼化』は突発型です。