5-11 何も無い海中にて
アイサは……ふと、気付いた。
浮遊感が体を包み込んでいる。
薄ら寒い水中へと、いつの間にか落水してしまったようだ。死んでも可笑しくない重体だったので、もう助からないと思われて川に捨てられたのか。エルフらしくない埋葬であるが、呪われたエルフの墓など作らないだろう。
ただ、ここが川だとすると妙に深い。深過ぎて川底が見えないとアイサは怯える。
矢で片目を失ったため、アイサは半分になった視界で足下に広がる黒一色を眺める。
「ここは、どこ??」
黒いと言っても濃淡はある。底に近づく程に色合いは濃くなっており、水面はやや薄暗い程度に留まっている。水上は希望の光に溢れて輝かしいとは言い難いが、それでも光がたまに乱反射していた。
水中だというのに息苦しくない。
そんな些細な事実を忘れて、アイサは他に誰かいないのか探し始める。
底が無いのと同じように、周囲三百六十度に壁はない。見渡す限りを仄暗い水が満たしてしまっている。
魔界の森育ちであるアイサは知らなくて当然であるが、知っていたならば、この空間を海と表現しただろう。
「誰も、いないの?? キョウチョウはどうなったの?」
左を振り向く。
右へと首を旋回させる。
また左を見てしまう。
ここにはアイサの他に、誰もいない。己が一人ぼっちである事を認識して、アイサは酷く心細くなってしまった。
……実に可愛らしい反応である。
ゆっくりと海底に沈んでいる。その結末が自己消滅であると、正しく認識できていない者の反応だ。
海底には、何も無い。
正確には、世界にかつて存在したすべてが沈んでいる。が、絵の具を全色混ぜると黒になるのと同じ理由で、海底はコールタールのようにドス黒い。意味成すものが無いのだから、何も無いと表現しても間違いではない。
そして、朱に交じれば赤くなるというように、海底に落ちていく者からは何もかもが失われてしまう。
感情は黒く上書きされる。
記憶はハードディスクがゼロビットで上書きされるように消滅する。
魂さえもエントロピーの法則には逆らえず平均化されてしまい、レアリティのない無価値な物へと成り下がる。
そんな海底でも自己を保ち続けられる者は、海上に対する並々ならぬ恨みを怯えている悪霊だけだろう。堅い寝床で寝なくても苦い肝を舐めなくても忘れない、魂を陵辱された者達だけが、唯一の住民と成り得る。海面の上へと手を伸ばし、犠牲を求め続けるのだ。
「ひぃ、怖いのに……何もできないなんて……」
アイサは違うだろう。悪霊となる条件を満たしていない。
アイサのように、誰かを助けられたと安堵した上での水没ではすぐに消滅してしまう。それは冥府と言う名の異界における、極々一般的な現象だった。
「僕っていったい、何がしたくて生まれたのかな……」
たった十と五、六の人生だった。未練がない訳がない。
しかし、深度の深刻化と共に恐怖心すら黒く上書きされていく。体は既に動かない。
小さな魂一粒は、何も考えられなくなってしま――。
「絶対に許さないぞッ! アイサッ」
「――え?」
水面を突き破り、慌しく何者かが海へとダイブしてきた。
静寂が支配する暗い海だというのに、何者かは激しく海を粟立たせて潜水を続け、落ちていくアイサを掴んだ。
「あっ、いッ!? 痛ッ、痛いぃ!?」
……余りにも急いでいたからだろう。
掴もうとしたのは肩や腕のはずである。が、あろう事か、その者はアイサの長耳を握り締めた。
「もうッ、痛いよ! エルフの耳は繊細なのにっ、僕が何したっていうの!」
「文句大有りだ。ともかく、上に来い。説教してやる」
「千切れるッ。耳が、千切れるって」
「もう千切れている癖に痛がるなッ。勝手に全身穴だらけになっておいて! あーあー、女の顔は大事するべきなのに、片目まで失って。アイサは本当に馬鹿だ。大馬鹿だ」
馴れ馴れしい態度で叱咤してくる何者かの声は、青年のものだ。
アイサが知っている異性の中に、頭上の青年ほどに失礼な者は存在しない。
「女!? この僕が!」
「どこからどう見ても女だろ」
アイサは男を目指すべく姉に指導を受けた幼精エルフなのだ。女になる道もまだ残されているが、アイサは次姉を失って以降、身体能力で女に勝る男への道を目指していた。
アイサの名前を知っている者達は全員アイサの決意を知っているから、アイサを女と呼ぶ事だけは絶対にしない。
女と断じられて、アイサが気分を損ねるのは当然だ。
「可愛らしい顔で、柔らかい体付きで、胸だって……ああ、スマン」
「失礼な人!」
声を聞いただけでは、アイサは青年の正体に気付けない。
もしかすると聞いた事のある声質なのかもしれない。ただ、楽しげに会話をした事がない相手であるのは間違いない、とアイサは直感していた。
他人に対してマイナスな感情を持つ事が稀なアイサが、目元を非難の形に曲げて頭上を見上げる。
「ひぃっ、こ、怖い!」
「はいはい。そのリアクションは分かっていた」
青年の顔の上半分には、穴が空いていた。
穴の色は海底の黒さと同質だ。希望をもたらせる色など一切含まれていない。そもそも、顔に穴の空いている人間が動いている時点でホラーだ。
一目で化物と分かる面をした相手に襲われている。アイサは現状を判断する。
「助けて、姉さん! 僕、変な男に襲われている!」
「本当に失礼なエルフめ。こっちも重傷だから暴れるなよ」
青年は自己申告通り、全身に矢が刺さった容態だ。特に背中側が酷い。首にも一本刺さっているのが見受けられ、声の一部が漏れていた。
海水に黒い血を垂れ流しながらも、男はアイサの耳を引っ張っていく。
「もう嫌だ。怖い。キョウチョウ! 助けて!!」
「…………ん? 助けはしないが、祟っているつもりだ」
「助けてお願い! 怖くて仕方がないよ、キョウチョウ。僕を助け――ぇ?」
海を知らないアイサは、漁師を海に引きずり込み溺死させる妖怪を知らない。
「『奇跡の葉』がここにあれば綺麗に回復できたが……地球に全部残されているのか。さて、このまま引き上げても肉体が壊れたままだ。さて――」
だからアイサが、海に沈む死者を海上へと引き上げる正体不明の青年の異常さに気付けるはずが無い。
ただし、男がアイサを救おうと悩んでいる事には何故か気付けた。
「――目玉は……そうだな。元々エルフの物だ。これでも代わりに使ってみろ」
そして、男が宝石を取り出す。
そのままアイサの喪失した片目へと近づけた瞬間、宝石が義眼として定着し、視力が回復する。蘇った網膜の上に、ステータス更新情報がポップアップしているので間違いない。
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“ステータスが更新されました
ステータス更新詳細
●実績達成ボーナススキル『鑑定』を取得しました”
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“『鑑定』、世を見透かした者のみが取得するつまらないスキル。
『魔』を1消費する事で目視した生物や物体の鑑定が可能。
対象が生物の場合、ステータスを確認可能。
対象が物体の場合、一般常識レベルの情報や価値を確認可能。
最上級のレアスキルに相当するが、俗世界を捨てた『隠者』に職業を変更する事が取得条件であるため、何かに活用された例はない”
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「体は、代用品が必要だが……この海には、在る。魂だけが消えた力が、数多く残されている。『耐毒』スキルが使えるぐらいに混じっている俺なら、使えるか?」
目を治しただけでは満足しない青年は、アイサの体に触れる。
矢傷へと這わしてくる黒い指の感触にアイサは身をよじるが……意識的に体を硬直させて耐えた。
「受け入れろ。俺にではなく、アイサに定着させる」
青年は指先を傷穴へと差し込んでいく。
激痛が襲われる事をアイサは覚悟していたのに、真逆に痛みが収束していく。
「……亡者よ、俺に従え。『同化』発動」
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“『同化』、己と他者との境界を曖昧化するスキル。
『魔』をすべて消費する事で捕らえた生物を体に吸収できる。
吸収した生物のレベルとパラメーターは加算されないが、スキルについては完全に受け継ぐ事が可能。
記憶については表層のものしか再現できないため、同化された人物を装っていても、中身は完全に別物である”
“≪追記≫
他者を己に同化するのではなく、己を他者に同化させる事も可能と言えば可能。
当然ながら、同化した分の質量の肉体が失われる。我が肉を与えよ、とは言うが自己犠牲半端無い”
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あっと言う間に、アイサの体の傷がすべて塞がる。
青年は頬の肉が削げているのに、達成感ある笑窪を作ってアイサの回復を祝った。
「さて、やる事やったし、そろそろ時化た海から出るぞ。ここは親和性が高過ぎる」
「……どうして、僕を助けくれるの?」
「助けている訳じゃない。祟っているだけだ。俺の祟りを救助と曲解するのは勝手だが」
アイサの名前を知っておきながら、アイサを男志望の幼精と知らない人物。
祟りと助けるを履き違えて、誰かを助け続ける人物。
「えっ、まさかっ! 貴方がキョウチョウ」
薄々、青年の正体に気付いていたアイサは男の名前を口にしたが、青年は何も答えずに海面へとアイサを引き上げるのみだ。
アイサは治ったばかりの目をぱちくりさせて、青年の顔を直視する。
仮面で顔を隠していたキョウチョウの正体は、顔の無い青年だった。仮面が外れたというのに、謎は深まるばかりである。
何故か言葉が通じるこの海でならば、意思疎通により青年の正体を探れる。が、もう海面は近い。こんな魂が脅かされる海から一秒でも早く出て行きたいという青年の意思は妨げられない。
しかし……スキルを用いれば、あるいは――。
「モ、『鑑定』発動!」
アイサは実績達成したばかりのスキルを青年に対して用いた。
それは、何も無い穴の奥底を覗き込む愚行だ。一つ間違えれば復活したばかりの目が砕けてしまう危険な行為である。それはアイサも分かっている。
けれども、アイサは己の目を大事にするよりも、青年の正体を知る事を優先した。青年の理解者となる将来を、宝石の瞳で幻視したかった。
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“●レベル:Void《空》
“ステータス詳細
●力:Void 守:Void 速:Void
●魔:Void
●運:Void”
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結局、視えたものは何も無い。幻と言われる『鑑定』スキルを阻む『正体不明(?)』スキルを青年が所持していたのだから当然だ。
……ただ、ほんの一瞬だけ。
それは青年の身にステータス更新が発生し、『正体不明(?)』の隠匿にラグが生じたのかもしれない。
あるいは、この破壊と暴力に塗れた世界を憂う創造主が、アイサに知らせようとしたのかもしれない。
青年の正体を知ったアイサは驚きながらも、ある種納得してしまった。
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“職業詳細
×アサ??(Sランク)(封印中)
●救世主(初心者)(非表示)
●死霊使――”
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「救世主職ぅっ!?」




