17-21 深まる疲労感
赤く血走った目をした魔物が跳ねる。
化物となって大幅に増強された『力』で地面を蹴って、上方からまだ怨嗟を発症していない正常な獲物の首筋へと喰らいつ――。
「『暗澹』発動ッ」
小さな体の怨嗟魔王にナキナの兵士達は翻弄されていたが、凶鳥を中心に展開された視界ゼロ音響ゼロの暗澹空間の内側に捕らえる事に成功する。
「――発火、発射、火球撃!」
スキルを発動させた凶鳥は至近距離から火球の魔法を放ち、怨嗟魔王を炎にて浄化する。
燃え落ちた黒こげの屍骸は、小動物のものであった。
「……動物にまで感染するのか」
第一発症者が発見された翌日。村民の中からは新たに三名の発症者が現れていた。
また、発症は人間族だけではなかった。山村で飼われていた猫や鶏、耕作用の牛も一頭、怨嗟魔王となって暴れたために討伐されている。凶鳥が倒した怨嗟魔王は、第一発症者が飼っていた猫だったものだ。
村民は誰もが恐怖に怯えているというのに、他人に寄り添おうとしない。寄り添った相手が次の怨嗟魔王となって襲いかかってくるかもしれないからである。家族でさえ信じられなくなる疑心暗鬼が既に始まっている。
未だに暴動が起きていない現状は、リセリの尽力の結果だ。
「凶鳥様はお先に王都にお戻りください。後はこの私が……」
「辛い役目なのに、いいのか?」
「この私以外では誰も納得してくれないでしょうから」
発症者増加により、山村は焼き払われる事が決定していた。ナキナの王様は心優しきアニッシュ王なので村民達もろもと灰にはしない方針であるが、村民は強制移動させられ、用意された隔離施設からは出られない生活が続くのだろう。ある意味、誰もが怖くなった村民にとってはありがたい話なのかもしれない。
山村中に油がまかれた。松明で点火される。
これまで生活を支えてくれた家々が燃え落ちていく様を、村民達は黙って見ていた。
「オラたちの……田んぼが」
「まだ収穫前の米が……ぁぁ……くっ」
水田の中でようやく頭を垂れ始めた稲が、火に巻かれてゆらゆらと揺れる。
何の進捗もなく疲れ果てて王都に帰った時、空はもう赤く染まっていた。山村が燃えていく光景を思い出して、憂鬱な気分が更に沈み込んでしまう。
怨嗟魔王について新しい情報は得られていなかった。
いちおう分かった事と言えば、人間の発症者は男、女、男と続き、性別による差はないだろうという事だろうか。
他にも魔王化の前には腹痛が強まる傾向があるのと、腹が内側から大きく膨らむという症状も共通点として見えてきた。が、被害者の増加によって得られる情報など、無力の結晶でしかない。
発症者達の生活の中に感染源が存在するというのに、無能にも何も分かっていないのだ。
「……不機嫌な顔は仮面で隠れているとはいえ。人にあたらないように、顔を洗ってさっぱりしてくるか」
魔王の姿が見えず、怒りの矛先を向ける先が分からず、感情が体内で澱み燻る。
こんな時には他人に会いたくないものであるが、通りの向こう側から背の小さい子が小さな歩幅で近づいてくる。
目の前で止まったので俺に用事があるのだろう。
「――まいど、ご利用ありがとうございます、であります」
違う。現れた少女は俺が呼んだ商売人だ。
「お客様。元気がない様子、であります」
「……そっちこそ。付き合いが少なくても分かるぐらいに、元気がなく見えるぞ」
前髪で片目を隠したヘンゼルは、虚ろな表情をしていた。前回会った時は、物静かな外見に反して商売に対する熱意を感じたものだ。道端に落ちていそうなガラクタにさえ値札を付けて売ろうとする気概があった。確か、俺も何か買わされた気がする。
だが、今のヘンゼルは別人のように消沈してしまっている。
「……幸せはお金で買える、であります」
金を稼がなければならない今は、不幸のど真ん中だと言っているのかもしれない。
ヘンゼルをアニッシュに紹介するために、倉庫……もとい玉座に案内する。ナキナで暇を持て余している人物は極小であるとはいえ、アニッシュほどに働いている人物もそうそういない。
「怨嗟魔王対策で水掘りの拡張計画……承認。山村の国民の緊急保護作戦……承認。物資配給の陳情……承認。…………そこにいるのは、商人? なんだ、凶鳥。商人を連れてきたの……か。すまないが、先に『奇跡の葉』茶を飲ませてくれぬか。不眠七日目で意識が飛び始めたのだ」
隗より始めよ、とは言ったものだ。ナキナを守るため国民に無理強いするために王様自らが過労死しようとしている。
FPSでダメージを負うと画面の周囲が濃くなるのと同じ原理で、アニッシュの目の周囲が黒くなっている。回復アイテム入りのお茶を飲んで濃度が薄まるが、無理やり起き続ける限りスリップダメージを負い続けるのだろう。
「待たせた。そなたが塩を用意できる商人か?」
玉座に深く座り直したアニッシュが、ヘンゼルに問いかける。
「オルドボ商会所属、上級商のヘンゼル、であります。我が商会は値段次第でどのような商品でも揃えるのを使命にしている、であります」
「以前からそなたの商会には世話になっている。だが、今回用意してもらいたい塩はナキナ全軍を月単位で養える量となる。しかも早急にだ」
アニッシュの要求は、はっきり言って無茶苦茶である。
ナキナは東西を敵に囲まれて流通経路は残っていない。用意させるだけでも大変な塩を、急ぎ用意させようというのだ。独自の怪しげな販路を持つオルドボ商会であっても、断られる可能性は高い。
「値が張るのは当然、でありますが……即金で、更に金貨での支払いであればご用意できる、であります」
ヘンゼルは断らなかった。
「できるのか? ならば、金はすべて持っていくが良い」
玉座には前金の一部である大型の宝箱が置かれている。中には金貨が詰まっているが、その表面には異世界語でナキナ金貨と記述されている。
アニッシュは国の財産を使い果たすつもりなので金貨の枚数は揃えられそうだが、ナキナ国の金貨は同重量の金と比較し価値が劣ると言われる程に信用度がない。鋳造が悪く、凝った図が描かれている訳でもない。コレクターは皆無だ。
ヘンゼルの評価が気になるところであったが――、
「流通量の少ない金貨はレアリティがあるので喜ばれる、そういう事にしておくであります。明日には届けさせる、であります」
――ヘンゼルはまた断らず、商談は何故か成立した。
金貨を見詰めていた片目が閉じられている。ヘンゼルの態度は分かり辛いものの、かなり甘い査定だったのだろう。そのぐらい俺もアニッシュも理解していた。
「助かる。これでナキナはまだ少し、生き長らえた」
「……ただの商売、であります」
オルドボ商会に所属するヘンゼルが、ナキナに同情したのだ。片目が見えず内面も分からない少女であるが、悪い子ではないのだろう。
「違う……違う。商売は……公平でなければ、ならないのであります。少なくとも自分はそうでありたい、のであります」
ヘンゼルは当分ナキナに残るとの事だったので、宿舎になっている迎賓館へと案内する。
「ヘンゼル。国との商談を成立させた後なのに元気がない。何かあったのか?」
「何もない、であります」
商売以外では人付き合いをする気がないのか、話が繋がらない。
仕方がないので黙ったまま並んで街中を歩いていく。迎賓館が見えてくると、丁度、中から現れる皐月達四人の姿が見えた。何だかんだと集まって仲が良い魔法使い達である。
「凶鳥。戻ってきていたんだ。ヘンゼルも一緒?」
「兄さんが、背の小さい子を連れている」
アジサイの危険な戯言は無視し、四人一緒にどこへ向かおうとしているのか訊ねる。
「これから忙しくなりそうだし、今の内に汗を流してくるつもりよ。ナキナって銭湯がないから、川にでも行ってくる。覗いても良いけど、私だけを見――」
皐月が言葉を言い終わるより早く、ヘンゼルが動いていた。
川へ向かうといった皐月の服を掴み、片目を見開いて下から皐月を凝視する。
「な、何よ。ヘンゼル??」
「お勧めできない、であります。川は……水は……お、溺れる危険が、であります」
酷く必死に見えた。アニッシュとの商談中も失意を続けていたヘンゼルが、どうしてか皐月の行水を止めようとしている。
「大丈夫よ。流れの速い、深い場所には行かないし」
「流れの遅い所がむしろ危険、でありますっ。皐月は……そう、お得意様だから、でありますっ」
「一体何がどうしたのよ??」
俺はヘンゼルの所属を改めて思い出していた。
ヘンゼルは、オルドボ商会の商人。魔王連合の一柱、迷宮魔王の配下たる金眼のオーガ、オルドボの名を冠する商会の一味なのだ。だから、敵であるのはほぼ確定だ。
そして敵なのだから、ヘンゼルはナキナを襲っている別の敵の正体も知っているのか。
これは重大なヒントである。ナキナを襲う敵は、水と大いに関係がある。
「絶対に、水に入っては駄目、でありますっ!」
だが、ヘンゼルが敵であるという推測が正しいとしなら、ヘンゼルは何ゆえ皐月を止めようとしているのか。
やはり敵なのだから、皐月を止める事が魔王共の利益に繋がるのだろう。
あるいは……ヘンゼル個人が、皐月の身を案じているのだろうか。
「もうっ、分かったわよ。川は髪が荒れるし止めておく。アジサイ、氷出して。私が加熱してお風呂にするから。商売でもないのに必死になって、珍しい」
皐月はヘンゼルを信じた。付き合いの長さがそうさせたのだろう。きた道を引き返していく。
「ヘンゼル。お前……」
俺はまだヘンゼルを詳しく知らない。問いかけてみたが、少女は俯いたまま何も語らない。
ナキナの窮地を思えばヘンゼルを拘束し、尋問するべきだったのかもしれない。それでも、結局、俺は何もしていない。全部俺の想像で確信は得られていない。今はそういう事にしておきたい。
怨嗟魔王。感染源。ヘンゼル。水。
一度、情報を共有してまとめたい。紙に書いて整理するか、他の人間と意見交換をするのも良いだろう。
こういう時に一番役立つ男がいるのだが――、
「見つけた。ペーパー、お前も王都に戻っていたのか?」
「あ? ああ、流石に疲れたからな。風邪っぽくて、部屋で休ませてもらっていた」
――今日は頼れないらしい。
「体調不良っ?! まさか、腹は痛くなっていないだろうな?」
「いいや。スタミナが切れてダルいだけだ。オーク共がタフ過ぎだ。栄養を取って寝る」
怨嗟魔王に感染してしまった訳ではなさそうで、ひとまず安心する。治療する側にまで感染が広がったら、いよいよ末期だ。
「大学食堂の食事が懐かしい。レベル0の一般人にはきついぜ、まったく」
「……んん? 山羊魔王戦に参加していただろ?」
ペーパー・バイヤーはいつも変な事ばかり言うから困った男だ。
「さあな。俺は山羊魔王に攻撃していなかったからじゃないか?」
異世界の不可思議、経験値取得ルールを熟知していないので何とも言えない。ただ、ペーパー・バイヤーがレベル0だとするとこれまでの活躍が超人的過ぎて、やはり言葉が出てこない。
「悪魔の心臓はお前が用意したはず」
「心臓を止めれば経験値を取得できる。逆に言えば、心臓が動いている限り経験値は取得できない。覚えていないか?」
会話を続けるスタミナさえもう残っていなかったのだろう。眠い、疲れた、と言いながらペーパー・バイヤーは私室へと消えていく。
――酷く、疲れていた。
疲れて、倒れてしまいそうだった。
肌は痛み、視界は歪んでしまっている。幼児期に起きる成長痛みたいに全身が痛んで仕方がない。
それでも森を突き進んでいる理由は、彼女には、会って話をしなければならない相手がいるからだ。
彼女には大切がいる。目に入れても痛くない大切な子。親代わりに育てていたと言っても過言ではない子。
大切なあの子のためならば何だってできる。己を犠牲にしてしまう事など造作もない。あの子が望むのであれば世界だ敵に回してしまえるだろう。
だから、あの子に会って話をしなければならないのだ。
話をしなけれバ、ならナい。話……ヲ?
「…………ア、イ、サっ」
あの子に危機が迫っている。
恐るべき魔王の魔の手があの子に迫る前に、彼女は伝えなければならない。魔王の秘密を。人間を蝕む魔王の正体を。どのようにして魔王が人間に巣食うかを。
伝え終えるまでは、己を見失い、モンスターと化す事だけは許されない。精神力の勝負だった。
「ア、イ、サっ!」
早く、早く走らなければ。そう思って彼女は森林地帯でありながら走り始める。木々の合間を強化された筋力で駆け抜けていく。
腕をふると緩くなっていた皮膚がずり剥けてしまった。赤い筋肉の束が丸見えで、毛細血管がドクドクと伸縮している。生来のシミ一つない白い腕は見る影もない。
まるでモンスターの腕みたいであるが、彼女はまだモンスターではない。
魔界の奥にある仄暗い湖。そこから『運』良く逃げ出せて、ナキナに到着するまでもう少し。こんな目にあの子を遭わせてはなるまいと、彼女は急ぐ。
「アっ、アっ、あれ、ア……ァ?」
愛しいあの子の名前は……既に思い出せなくなってしまっているが関係ない。
愛らしいあの子をこの腕で殴り潰し、挽肉にしてしまいたい気持ちで一杯だが、そんな可哀想な真似は絶対にしない。
己と同じ目に遭わせてしまい、腹の底から体を蝕まれていく苦しみに狂う姿を思うだけで絶頂してしまいそうだ。内臓の痛みはに涙するあの子は、原因の分からぬ病にひたすらに怯えてくれるはずだった。
原因不明の病は苦痛を訴える先がない。
解消する術のない呪いにまで昇華した救済を求める声の事を、人は怨嗟と呼ぶ。
「あ、アアAぁ? Ga、GAAAッ」
彼女は魔王の正体を知って? 知って? 知っていたかもしれないが……もう分からない。
何故なら、彼女は既に人ではないからである。モンスターと言ってしまってかまわないだろう。
「GAAッ!! あァアッ!!」
走っていた理由さえ分からくなってしまった彼女。腹の内側からグチャグチャと蠢く痛みを己だけが感じているなど不公平だった。人類すべてが同じ痛みに苦しんでようやく平等。救済など二の次である。
彼女は……怨嗟魔王。
正確には、怨嗟魔王がエルフの体を改造して作り上げた、E型魔王城の三七号。怨嗟魔王の居城である。
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“『世界をこの手で支配する』、世界を思うままに支配する悪の王権。
支配地域の環境をスキル所持者の生態に適した形に置換する。目に見える形で現れる場合、それは城としての形態を取る。
スキル所持者の種族、経験によって変貌後の世界は千差万別である。スキル効果も同様であり、地上に深海を作り上げる、言葉を発すると即死する、血の雨が降る、水がすべて酒に変わる、と把握は困難”
“実績達成条件。
Sランク魔王として世界に仇なす”
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素体となったエルフの名前は……当然、覚えていない。




