16-2 悪魔の戦場
色彩に乏しい赤茶色の大地が広がる。
魔界と人類圏を隔てる山脈は険しく、標高はずば抜けて高い。が、ここの大地は比較的緩やかなものであり広々としている。活動中の火山がなければ土地として有効活用できたかもしれない。
所々に立ち並ぶ黒い岩石は、前回の噴火で流れた溶岩が冷えて固まったものだ。
所々に流れている赤い川は、火口から垂れ流れている溶岩だ。
硫黄臭が酷い。小さく地響きも足元から伝わる。
本来であれば長居したくない土地であるが、こんな世界の果てみたいな場所にも獣の種族は住んでいた。ただし、本来ここに住んでいたのは犬のような顔立ちの部族であって、鹿のような角を持つ部族ではない。
「溶岩川の向こう側。あそこが敵の本陣じゃ」
山羊魔王に従い続ける鹿の部族およそ一万が、戦場向きな広い台地である火山地帯を選び展開していた。
ジャルネが指差した赤い川の向こう側に、長方形の陣形を組んだ獣の戦士達が見える。一メートルほどの短槍の石突きを地面に突き立てて、体を直立させたまま微動だにしていない。戦が近いというのに独特の鬨の声は上がらず、静かなものである。
「正気とは思えないな。全員、山羊魔王に操られているんじゃないのか?」
「だとしても、わし等に選択できる戦術はない。そもそも自業自得じゃ。魔王に付き従った時点で、道具として扱われて死ぬ末路は目に見えておった」
「……他人事とは思えない言葉だなぁ」
敵陣から目線を外して、右手方向を見る。
静かな敵と異なって、鳴声や足音でうるさい巨大な集団が渦巻いていた。歪で無規則なキメラの大魔獣集団が集まっている。
車懸かりのような陣形になっているのは偶然だ。魔獣共は常に中央にいる淫魔王の移動に合わせて動いている。淫魔王が溶岩川の手前で止まったために戦列が大渋滞を起して行き場を失った結果、渦を形成したのだろう。
魔獣集団一万と比較すれば、隣にいる解放軍五百など慎ましい。
「最早、鹿の部族の命運は尽きた。戦闘にもならず虐殺される」
多少の哀れみが込められたジャルネの予言は的中するだろう。
魔獣の集団中央、大トカゲの背中――天蓋と柱が建てられて、御輿のようになっている――に座していた淫魔王は右腕を垂直に伸ばした後、ゆっくりと水平に倒し、長い指先で敵軍を示した。
合図を今か今かと待っていた魔獣の軍勢は即座に行動を開始する。
四足歩行の機動性に優れた馬の魔獣が溶岩川を跳び越えて、頭部の角を突き出して敵軍へと突進していく。それよりも早く、翼あるキメラが飛び上がって空から奇襲を仕掛けている。
人類という枠組みにいる凡夫な俺達は、口を半開きにして眺めるのみだ。
「淫魔王の奴。本当に山羊魔王と戦い始めたな」
「仮面は疑い深い。我がこの眼で淫魔王の心を読んだのだぞ」
ちなみに魔獣軍団ほどではないものの、解放軍も種族の数には富んでいる。各所から集まった有望な獣の戦士達に加えて、人間族の皐月や俺。さらには森の種族の族長まで参戦している。
飛行型の魔獣が敵陣の前方集団を襲撃して、戦闘が開始された。迎え撃つ仕草も見せず案山子のごとく棒立ちになっていた敵戦士は砂塵の向こう側で潰されてしまう。
「個人的に、エルフにはあまり良い思い出がないので。というか族長さんは山羊魔王と戦うな戦うなと言いながら付いてきたんですね」
「魔王同士の大戦となれば見届ける必要があるからな。結果は見えておるが、実際に目で見るのが肝要だ」
少し遅れて、陸上型の魔獣が巨体を生かした突撃で敵軍を引き倒し、深く分け入って行く。
かつて戦場では戦象が戦の決定打になっていたという。人数のみで大質量の同時投入を止める事が不可能だからだ。数の理論など、数を圧倒する巨大質量の前では踏み潰されるのみ。実際に俺達は、成すすべなく肉塊となっていく憐れな敵を目撃してしまっている。
圧倒的な魔獣集団の活躍は、解放軍の緊張を高めながらも白けさせた。淫魔王の軍勢がどれだけ優秀でも素直に喜べない。敵でなかった事を喜んでも良いが、そもそも、淫魔王と解放軍の共同戦線にどれだけの意味があったのか分からない。
「もう淫魔王だけで良いんじゃないのか?」
魔獣は三分の一も戦場に到着していないというのに、敵軍は三分の一以上も損耗していた。開戦から五分と経過していない。どうやら、山羊魔王戦は強制勝利イベントだったらしい。
「これは勝ったな」
エルフの族長は耳のリングを揺らして振り向いてくる。青紫の眼で俺を見た後、溜息を吐くかのように呟いた。
「なんだ。言葉ほどに仮面のも楽観していないではないか。山羊魔王がどう出てくるか、内心では怯えておる」
……やっぱりエルフは危険な種族で間違いない。勝手に心の中を読んでくるプライバシー侵害の耳長め。可愛い顔しているからって近くから見詰められて嬉しがると思うな。
「色々とすまんが……ははっ、千も二千も歳の離れた我に見られたからといって照れるではない。始祖と末代の差ほどに歳離れておるぞ」
「本当に心を読んでいるのか」
「なるほど、仮面のを世話したのが頑固なトピューアの里か。それでその仮面では酷く冷遇されたのも仕方あるまい。我が実権を取り戻した後で正式に謝罪させ――」
半笑いしていたエルフの族長の言葉は続かない。
鋭い目付きとなりつつ長い髪を巻きながら背後へと振り向いて、魔法を行使したからである。
「――トール《根よ》、モフォタック《解呪せよ》、オドゥルグ《黄金樹の》ッ!」
エルフ語の精霊魔法は、姿を消しながら解放軍の本陣へと潜入してきた者を看破した。
地中から出てきた黄金の根のサークルが侵入者を囲い込む。黒煙が突風に吹き飛ばされるように、隠匿魔法が払われて姿があらわになる。
侵入者のこめかみには巻かれた山羊角。
三つ揃いのスーツを着込んだ伊達男であるが、間違いなく魔族だ。
「……やれやれ、私と戦う愚か者が少しでも減るようにと一考し、呪って解放した女が戦場にいるのでは意味がない」
「そなた、山羊魔王ッ?!」
『法螺吹き男』山羊魔王。
己を弱いと他種族に信じ込ませて、世界に干渉する事なく沈黙を続けてきた真性悪魔。
実際の実力は未知数であるが、少なくともこの瞬間、山羊魔王の接近に気付けたのはエルフの族長ただ一人であった。高レベルの魔法使いたる皐月ですら呆然としてしまっている。下手すれば、誰も気付かないまま全滅もありえたのでは――。
「ふ、袋叩きだッ!!」
――考えていては駄目だ。エルフの族長がこの場に居合わせたのは『運』が良かったとポジティブに受け入れるのも後回しにして、体を動かす。
山羊魔王は魔法を使える。左手にもパイプのような何かを所持している。が、それらを使わせる前に始末する。
俺が動いた。ナイフを『暗器』スキルで取り出して、山羊魔王の間合い内へと『暗影』で跳び込んだ。
ガフェインが動いた。大斧で山羊の脳天をかち割ろうと垂直に振り下ろした。
皐月も動いていた。魔法詠唱を開始して、ピンポイント攻撃を行った。
「挨拶がなっていないな。勇者職の一人や二人、いないのか?」
どれも通じなかった。
俺のナイフは皮膚一枚突破できず、ガフェインの大斧は髪一本断てず、皐月の魔法は服さえも燃やせない。『守』が圧倒的過ぎるのだ。
だが、そんな絶望は折り込み済み。
本番は、俺の『魔王殺し』を発動してからである。先の攻撃は油断を誘うための前座だ。
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“『魔王殺し』、魔界の厄介者を倒した偉業を証明するスキル。
相手が魔王の場合、攻撃で与えられる苦痛と恐怖が百倍に補正される。
また、攻撃しなくとも、魔王はスキル保持者を知覚しただけで言い知れぬ感覚に怯えて竦み、パラメーター全体が九十九パーセント減の補正を受ける”
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「『魔王殺し』発動ッ!」
「ムっ?」
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●山羊魔王
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“ステータス詳細
●力:666 → 6
●守:666 → 6
●速:666 → 6
●魔:65535/65535 → 655/655
●運:0”
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スキルは通じた。当然だ。山羊魔王が魔王に分類される限り『魔王殺し』は有効である。
両手で柄を押し込んでも動かなかったナイフに手応えが生じる。山羊魔王の下腹を突き刺す鋭利なナイフが沈降を開始する。
「驚いたぞ。救世主職のSランクスキルか。いや、この世界は既に死にかけで、私は座付き。この場に救世主がいるのがむしろ当然の状況であろうが、まったく創造主気取りの無駄な抵抗には――」
『魔王殺し』の竦み効果とは異なるニュアンスで山羊魔王が固まっている間に、ナイフは深く潜り込んで内臓を傷付ける事に成功する。
大斧も動作を開始して、山羊魔王の頭部は二つに断裂された。大戦果だ。
最後に、皐月の再度の魔法攻撃が山羊魔王を業火で焼き尽くす。これでトドメになるだろう。
バックステップで後退していた俺は、燃える山羊魔王の最後を見ていた。
「――吐気がする。ひ弱な人間族に夢を見せてから絶望させるのは、真性悪魔の領分であると思うが、君達もそう思うだろう?」
目を大きく見開いて山羊魔王を見ているが、だからこそ信じられない。生物ならば致命傷であるべき傷を負って、山羊魔王は普通に肩を竦めるだけだったからだ。
「随分とグロテスクな体になってしまった。セットした髪も台無しだ。――リバース・ボディ」
割れた頭のまま口を動かした山羊魔王は、炎の中から歩いて出てくる。その後、一言何か呟いたと思うと、割れた頭や腹の傷が復元してしまう。
俺は今日この瞬間まで、異世界にゲームのごとき回復手段はないと思っていた。定番のポーションや回復魔法という即効性ある方法はないと勘違いしていた。
そんなのは矮小な人間族の決めつけに過ぎなかったという事なのだろう。
古代より存在する真性悪魔ならば、短命な俺達では知りえない魔法や神秘を熟知し習得していたとしても決しておかしくはない。
「仮面のッ! 怯えるな! スキルは通じる。攻撃も通じておる!」
エルフの族長の檄のお陰で、力の差に火が消えていた心に闘志が戻る。
山羊魔王は斬って血を流した。ならば、斬って殺せない類の魔性ではない。回復が追い付かない程に攻撃していれば、いつかは倒せる。そう思わねばやっていられない。
「さて、この場で君達を全滅させるのは容易いが……なんだ、鹿の族長め。孫娘は生きているではないか」
「なっ、わしか??」
ただし、山羊魔王の方は死闘に付き合う気がないらしい。
何故かジャルネに注目した山羊魔王は、所持していた物を口に近づける。パイプを連ねただけのそれを武器には見えず、無害な楽器としか思えない。
「『正気度減少』発動。音色に狂いたまえ」
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“『正気度減少』、人としての正常性を失わせ、不具合動作を誘発させるスキル。
スキル効果範囲内にいるスキル所持者以外の全員に効果あり。
スキルを受けると一時的狂気に陥り、多弁、退行、幻覚などに悩まされる事になる。数分から数時間、戦闘復帰は不可能となるだろう。
『運』や精神耐性スキルにより対抗は可能である”
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山羊魔王が用いたパイプは楽器だった。
特に酷い音色ではなかったが、それは俺の個人的感想に過ぎない。多くの戦士達にとっては酷い音だったらしく、倒れ込む者や膝を抱え込む者が続出する。溶岩川へと跳び込む者さえも存在した。
更に、大斧が振られて俺の横腹を掠める。
「なっ、ガフェイン!?」
「ううううう、グオオオオオオ?!!」
合唱魔王戦では頼りになった熊の戦士が完全に正気を失った白目で、近場にいた俺へと襲いかかってきていた。これでは野生の熊と変わらない。
「ク……笛を使って、スキルの効果範囲を広げおったのか」
「『破産』スキル発動。ふう、落ち着いた」
山羊魔王のスキルにレジストできたのは、見える範囲では皐月とエルフの族長だけだ。
まだ子供のジャルネは……当然、気絶してビクビクと震えている。
「さて、我が麗しい花嫁よ。ここでは騒がしい。相応しい場所にて初夜を迎えようぞ」
「…………はっ??」
笛を吹いた山羊魔王も頭がイカれていたらしく、狂った発言をしながらジャルネへと近づいていく。
止めようとするが、再度、熊の斧が俺へと襲いかかる。邪魔なのでガラ空きの脇腹を強く蹴ってガフェインを倒そうとしたのだが、無駄に耐久性ある熊の毛皮には通じない。
「『変幻自在』発動。さあ、鳥となって愛の巣へと飛んで帰ろう」
大きな鷲へと姿を変えた山羊魔王は、ジャルネを羽の中に収めて空へと飛び立っていく。
「おい、ちょっと待て。山羊魔王! お前、ジャルネはまだ子供だ!? おっと、ガフェインあぶねぇ」
「安心しろ。私は幼女であろうと気にしない」
「ロリコン魔王がァあああッ!?」
山羊魔王は強大な力を見せつけながらも、戦わずに戦場から去っていく。たった一度のスキルで崩壊しかけている解放軍にとってはありがたい話かもしれないが、さらわれるジャルネにとっては悲惨な話だった。
「安心したまえ。私の代わりは用意してある。君達相手では役不足も甚だしいが、淫魔王の子供相手ならば良い勝負となるだろう」
敵大将の山羊魔王の登場で解放軍は大混乱であるものの、本来の主戦場は溶岩川を越えた先にある平野部だ。
魔獣は快進撃を続けて、鹿の部族は数を減らし続けて五千を割る。ただ立っているだけだったので簡単に死んでいった。
残った五千もすぐに巨体の行軍にもまれて消えてしまう。
……こう思われた頃であった。
「あ、ぁぁ。俺達は……本当に魔族に還ってしまっ……ギ、ギガガ、ギャハ!」
棒立ちのまま、反撃らしい反撃をしていなかった鹿の戦士達。彼等彼女等は、初めて動いた。
その挙動は口を歪める。笑窪を作る。たったそれだけだ。
ただし、体の方には大きな変化がある。最初に皮膚がずり剥けて、服と共に足元に落ちていく。
象徴たる鹿の角も季節が終わったかのように根元から落ちてしまう。代わりに、禍々しい曲線を持つ山羊の角が生えてきた。
漆喰のような黒い肌。
腰から伸びる一対の蝙蝠の羽。
赤く血走った目からは白い領域が消失。
彼等彼女等は生物としての特性は単純化された。その代わり、古代の頃みたいに神秘に近くなった。
真性には程遠いものの、姿形は完全に悪魔族のそれと変わらない。
「ギャギャ、きゃギャギャ!」
生まれ変わった黒い悪魔が、一直線に突進してきたキメラの首を抱え込んで力任せに引き千切る。
「キャキャキャッ! 楽し、楽シイイィィ!!」
一方的だった虐殺が、ようやく戦闘らしくなる。
一万の魔獣と五千の悪魔の殺し合い。古き時代にも起こらなかった異形の殺戮戦場が、血で彩られる。




