13-1 奇跡の無駄使い
泥のような思考力。
打ち砕かれた精神は正常動作を嫌い、考える機能は働かない。働きたくない。労働こそが悪。
「――魔界まで行商にきてくれるのは助かるけど、包帯一巻きが金貨五枚って暴利にも程がない?」
「適正価格で、あります。これでもお得意様価格で、あります」
「真水が同じ重さの金貨より高いってどうなのよ?」
「……魔界の水は危険が一杯で、あります。命を金貨はつり合わないで、あります」
傷が疼いて痒いというのに、手を動かす気さえ起こらない。
俺は、もう誰にも助けてもらえないのだ。魔王にまで堕ちてしまったのだから当然の罰なのだろうが、誰も助けてくれないから魔王に堕ちるしかなかったというのに。
この体たらくが罰だというのなら、甘んじて受け入れよう。
もう何も考えたくない。
もう何もしたくない。
もう何もかもが、どうでも良い。
「『お得意様割符』くれた時は便利に思ったけど、いや、実際便利だけど。輸送費が高過ぎ」
「魔界は割り増し価格、であります。他の業者はそもそも人外魔境で営業していないで、あります」
「あー分かった分かった。現金なんて重い荷物持っていないけど、漢方になりそうなモンスターの部位を集めてあるから。それとは別に、発見した貴金属類は丸焼けにした丘の上に埋めてある」
「金貨でのお支払いが商会推奨で、あります。それが会長方針で、現金でなければ低く見積もるで、あります」
「守銭奴め」
誰かと誰かの会話が耳に入ってくるが、どうでも良い。
魂の残りカスみたいな俺にとって肉体の外の出来事など知った事ではないのだ。もう生きている意味もないというのに、死ぬ事だけは勘弁だからと眠り続けている。
とはいえ、どうせ短い命である。何かの手違いでまだ生存しているものの、体の傷からは血が流れ続けている。
刺された腹と胸の傷が、再認させてくれた。
誰も俺を助けてくれない、と。
「もってけ泥棒!」
「……確かに、今後もオルドボ商会をご贔屓に、あります」
近場に誰かがいるらしいが、どうせ、助けてはくれないのだ。
辛い時に辛いといって救われない。大人でなくても経験的に理解できる世界の常識なのだ。地球だろうと異世界だろうと不偏の真理。ならば最初から助けを期待しなければ心にまでダメージを負わなくて済む。
……では何ゆえ常識に反し、魔王と化すまで赤の他人を助け続けたのか。
身を削って魔王と戦っていれば、醜い鳥であっても助けてくれると淡く期待していたのか。
一人が皆のためにがんばれば、皆が一人のためにがんばってくれると愚かな期待を抱いていたのか。
馬鹿な、それだけは違う。断固違う。
俺はそんな馬鹿みたいな妄想を期待して、戦っていた訳ではないはずだ。もっと冷めた気持ちで誰かを助けていたはずなのだ。
もう忘れてしまったし、どうでも良いのだが。
「心臓見えちゃっている……これは酷い。傷薬を通販してみたけれど、やっぱり駄目ね。君の傷は手遅れみたい。日本の病院でも処置できないぐらいに深い傷よ」
どうあっても俺は助からない。電池の切れた無線機に救助を呼び続ける遭難者は、死ぬのが定めだ。
「君、名前は? ねえ、聞いている」
エルフ共の集落に拾われる前からやり直したい。あの瞬間に立ち戻って、誰にも見付からず衰弱死してしまいたい。
そうすれば、俺はこんな悲しい気持ちに浸らずに済んだ。
「もうっ、名前も知らない奴に使いたくはないのだけど」
もう何も考えなくて済む。
もう何もしなくて済む。
もう何もか――。
「――誰かを助け損なうなんて二度とごめんなのよ、私。だから使ってあげる、『奇跡の葉』を」
お迎えが来たのだろうか。不気味な温かさが体を包み込んだ。
なんて面倒な人物を拾ってしまったのか。皐月はこのように後悔していた。
モンスターに捕食されかけていた死体スレスレの男を救助してから早くも三日。モンスターの巣となっていた洞窟を焼き討ちして奪い取り、男を運び込んで懇切丁寧な介護を続けている。
「傷はもう治っているでしょうに。親切を押し売ったのだから、せめて名前ぐらい喋ってよ」
人捜しという目的があって魔界くんだりまで遠征しているというのに、皐月にとっては停滞の日々だ。
しかも、所持していた貴重なアイテム『奇跡の葉』まで消費してしまった。
『奇跡の葉』とは異世界的にも破格の回復アイテムである。生きてさえいれば、どんな傷でもたちどころに回復してしまう貴重品だ。たった一枚の葉に軍事予算並みの値段が付くぐらいである。
その正体は世界樹の新芽であり、入手難度はかなり高い。
ある世界滅亡の危機以降、皐月の故郷では簡単に手に入るのだが。
ただ、異世界到着時には十枚以上を束にして持参していたというのに、強行軍での人捜しは危険が一杯だった。浪費を繰り返し――金策のために守銭奴に売った事もある――、気付いた時には残りが僅か一枚だけになっていた。
「……はぁ、一言も喋らないし。水も飲んでいない」
時間と貴重品を使っている割に、皐月の介護は報われていない。
介護対象の男が無言のまま横たわり、お礼の一言さえ口にしない所為だ。
いや、喋らないだけならばまだ許せた。無口な人間はいるものだ。仮面のデザインセンスも最悪であるが、ファッションについてどうこう指摘しようとは思わない。しかし、助けられておいて絶食を続け、衰弱しようとしている態度だけは許せない。
「君ねぇ。酷い目にあったのは想像できるけど、廃人気取っていて楽しい?」
皐月は鳥の仮面越しに男の瞳を覗き込む。ガンを垂れているとも言う。
「腹に刺されたような傷があったし、親しい人にでも裏切られたの?」
……若干、反応があったようにも思えるが、きっと皐月の気の所為だろう。男は思考力を手放して、十秒に一度の呼吸以外何も行っていないのである。
無気力ゆえの無反応。
皐月が仮面の奥にあるはずの瞳を覗き込んでも、男は目を逸らしさえしない。おそらく、腹を蹴り上げたとしても嗚咽一つ漏らさないのではなかろうか。
「ふふーん、今更そんな態度取るんだ」
超常アイテムにより体の傷は癒えていたかもしれない。が、精神的には一切回復していない。そして、水も飲まない絶食を続けていれば精神の病み具合に関わらずスタミナが尽きて死ぬ。
実に助け甲斐のない男だった。そんなに生きる気がないのであれば、望み通り死んでしまえと見捨てられても仕方がない。
皐月は洞窟の外へと向かう。
軽い体重の足音が洞窟内で反響して、遠ざかっていく。
男は出て行く背中を視界の端で眺めて、やはりな、と自虐的に笑おうとし――。
「え、出て行くと思って笑おうとした? 笑おうとしたよね!」
――くるり、と百八十度反転した女に釣られていた。
「ねぇ! 嘘廃人よね! 拗ねているだけなんでしょ、ねぇ!」