12-15 悪霊魔王討伐
特に警戒していなかったため、ぶすりと腹の辺りを刺されてしまった。
信頼の厚い月桂花を警戒するつもりがなかった。それはある。月桂花の出自や関係性は分からないものの、悪霊魔王を崇拝している事ぐらい察せられる。酷く歪んだ情愛であるが、害がない限り放置できるものであった。
「……何のつもりだ、月桂花?」
悪霊魔王ともあろうものが、生者である月桂花に対して随分と寛容なものである。
すべては、ナイフごときで傷付くはずがないという自負があるからであったが。怪しい女たる月桂花が意外性なく怪しい行動に出たとしても慌てる事はない。
つまり、決して、月桂花を信頼していた訳ではないのだ。
ただ単純に月桂花を侮っていただけだ。
「はい、御影様が仰っていました。自分と似た魔王など許容できないと」
ナイフは柄の部分まで深く沈みこんでしまっている。内臓まで確実に達している。人間族ならば致命傷。
だが、魔王の体は外見と中身が一致しない。刃が刺さった程度でダメージを負うはずが――。
「ですので、遺品をお持ちしたと。この刃は人間族であった頃の悪霊魔王様の血を練り込み鍛錬したものだそうで」
「な、に?」
「悪霊魔王様の体に突き立てれば、そのお体は腐り落ちていきます。『耐毒』スキルは効果を発揮できません。医学的に言えば拒絶反応のようなものなので、人間族の体とって魔王の肉体は敵性細胞。悪霊魔王様は適切な免疫機能によって滅びるのです」
――命じるまでもなく、傍に控えていた赤と青の魔法使いが月桂花に襲い掛かった。
左右から迫る魔法を無効化しながら、月桂花は空へと逃れてしまう。
今更であるが刺さったナイフを捨てようとして、柄を掴んだ手が焼け爛れて掴めない。
「くッ、月桂花。お前、最初から企んでいたか!」
「いいえ、何時も変わらず、わたくしは悪霊魔王様を慕っております」
発言と行動が伴っていない。裏切っておいて嘘を言うとも思えないが、悪霊魔王を始末する事が忠誠の一部だと言いたいのだろうか。
「魔王様ってば、私が抜いてあげるでしょ」
赤い方の魔法使いが近づいてきて、腹部からナイフを取り除く。ナイフは空中に投じられ、火炎魔法で溶かされた。
「悪霊魔王様のお望みを叶えるのが私の幸せです。世界を滅ぼす大罪にも喜んで付き従います」
青い魔法使いが氷柱を大量精製して対空攻撃を開始する。が、魔法使い職としての実力は一歩、二歩、月桂花が上回る。赤い魔法使いが加わっても撃墜は難しいだろう。
状況は刻一刻と悪化してしまう。
悪霊魔王の巨体が、腐り始めた。
巨体を支える筋肉が筋切れる音があちこちから響く。すると連鎖的に、墓石魔王の行軍を受け止められなくなり、後方へと押されていく。
「悪霊魔王様。さあ、世界を滅ぼしましょう!」
「ええい、どうしたというのだ」
月桂花の裏切りは想像以上に致命的な事態をもたらそうとしている。だというのに、当の本人は浮遊したままなかなか離脱しようとしない。
願望と手段が決定的に食い違っている。
正気とは思えぬ月桂花であるが、月属性、幻惑魔法の使い手が催眠された訳でもないだろうに。意味不明な事態である。
とうとう、巨体の片腕が脱臼。重力に従って落ちていく。
重量物の落下音と、墓石魔王の汽笛が響く。
墓石魔王との拮抗状態は崩れた。稼働部位に胸を蹴り上げられてしまい、横倒しになる。うつ伏せている悪霊魔王の体の上を、墓石魔王の大重量が潰しながら行軍していく。
これは決定打だ。構築した体は潰された。この状態から巻き返すのは不可能――。
「――な訳ないッ! 物質化した体が破壊されたからどうしたというのだ。死を体現した悪霊魔王! 滅ぼせるものならば、滅ぼしてみろ。生物誕生以来、生きとし生きるもの死を克服できた者はなし! 我を滅ぼすという事はつまり、死を克服する事ぞ!」
踏み潰された巨体の『同化』を細胞単位で解除し、液状化させる。黒い体液が戦場に満ちて湖と化す。
水面下で蠢くは数千、数万、数億、数兆の悪霊共だ。命あった者は誰だって現世に対する憧憬を抱いている。入口さえ開いてしまえば、無制限に溢れ出す。
黒い湖は指数関数的に広がって、世界の侵食を開始する。
「さあ、止めてみせろ! 生き物共!」
生物を煽る。
見苦しい生き物共を詰る。
どうせお前達はいつか死ぬ運命にある情けない魂だ。悪霊魔王を追い込む事は可能であっても、討伐し切るは絶対にできないのだ。
「――先輩。これが私達の成長の証です」
「――師匠。受け継いだ力を使うです。それが師匠の望みなのですから」
だというのに、黒い湖の傍に女が二人立っていた。
紫色のタイトスカート。スマートな体付きを撫でるように手を沿わした後、その女は呪文を唱える。
黄色い矢絣模様に黄色い袴。サイドテールを揺らして、その女は呪文を唱える。
「――創造、新生、生命、人類創生、人を生み出し世界を作り上げた泥こそは世界の始まりにして世界そのものとなろう。アース・エンド!」
「――浄化、雷鳴、来迎、天神雷神、神の顕現たる稲妻にまつろわぬ存在は焼き尽くされる事だろう。ゼウス・エンド!」
大地を元にしていながら、巨大で精巧な女性が全生命の母のような笑顔で悪霊魔王の黒い湖を両腕で抱え込んだ。もうこれ以上、死の世界は広がりようがなくなる。
成層圏の彼方より、あるいは木星圏より落下してきたかのような雷の束が視界全体を埋め尽くす。青と緑と黄、様々な色合いで発光する稲妻。最後には黄金色へと統一され、黒い湖を焼き尽くして蒸発させてしまう。
五節魔法の大規模攻撃。威力のみならず精度も高い。かなり高位の魔法使いが唱えた呪文で間違いなかった。
黒い湖は干上がってしまう。悪霊魔王の体もほとんど残っていない。
このままでは本当に討伐されてしまう。
「ま、まだだッ! まだ悪霊魔王は終わらぬ!!」
いや、一時的な出力に押されているだけだ。この規模の魔法攻撃は何度も続かない。今を耐えるだけで悪霊魔王は勝利できる。
生首になっていた悪霊魔王の頭から、人間体を脱出させる。
ズタボロにされた状態で土の上を転がって、ノロノロと立ち上がる。
視界を前へ向き直して歩き始めるが……目先に誰かが立っていた。
「……見苦しいな、お前」
黒いベネチアンマスクで顔の上半分を隠した男だ。黒い服装を偏愛しているのか、外套以外は靴もズボンも全部黒い。
声質から推察される年齢は二十歳丁度。中肉中背で身体的な特徴はほとんど見受けられない。首筋に見えるホクロも個人を特定するのには使えない。
「死を体現していると自称していた割には、お前自身が死を恐れているように見える」
面識はない。
ないが……酷く誰かに似ているような気がして心が揺さぶられた。
「悪霊魔王、お前は弱いな」
「ウルサイッ! 人間族ごときが、たった一人で何ができるッ!」
黒いマスク男はまだナイフを抜いていなかった。空手ではないが、武器を構えていない人間族一人ぐらい速攻で始末してしまおう。その後は戦場から離脱して、悪霊魔王の体を再生しなければ。
『暗影』『暗澹』。目前の黒いマスク男を殺せるスキルを発動しようと念じた。
「まったく、お前ごときに折るのは勿体無いが。まあ、月桂花に一本使っているから今更か」
黒いマスク男は、手に持つ物体を向けていた。
根元は太いが先は五本に分かれている。まるで人間族の手のように見えるが、毛むくじゃらなので獣の右手なのだろう。見た目は猟奇的なものではない。カラカラに乾いているので右手のみのミイラになってしまっている。
あまり丁寧には使われていないようで、親指、人差し指、の二本が真ん中から折れ曲がっていた。
「『モンキーカーズフィンガー(右の中指)』、目前の見苦しい奴の生命機能以外を停止させろ。スキルの使用も含めてだ」
前触れなく息ができなくなってしまった。体も動かず、念じたスキルも発現しない。ただ、黒いマスク男が持っていた右手のミイラの中指を折っただけで、俺は動けなくなってしまう。
黒いマスク男がナイフ片手に歩いてくる。ゾわり、と背筋に冷たさを感じるが汗一つかけない。
喉奥から声を発してしまいたい。一体、何を叫ぼうとしているのか分からないが、鋭い角度の刃に衝動が生じて仕方がない。
涙を流したくて仕方がない。
刃が心臓を貫く瞬間が長くて長くて仕方がない。
心が色んな物を吐き出したくて、まだ、嫌だ。助けて、仕方がない。
悪霊魔王は、我は、俺は――。
「――『暗殺』発動。そんなに見苦しいのなら、魔界で死んでおけよお前。カカカっ」
――こんなにも寂しい死に方、したくなかったのだろうな。
太陽が昇り朝を迎えた頃、悪霊魔王は討伐された。悪霊を束ねたような巨体は綺麗に消え去り、死体一つ残らず抹殺された。
ナキナは国境の半分を失いつつも防衛に成功したのだ。侵攻部隊たる死霊の軍勢は壊滅。後に現れた墓石魔王も魔界へと引き返す。失った人命は多かれど、たった一国のみで魔王連合に対抗したナキナは力を示したのである。
とはいえ、一時の勝利だ。
魔王連合は新たな軍勢をナキナへと差し向けるだろう。危機は終わらない。
異世界はいつまでも救われない。
鳥の名を騙っていた男も、救われ――――。
「あー、もう。魔界に入って早数週間。あの馬鹿探して三千里……よりは少ないかもしれないけど! もう森は嫌っ!」
とある魔界の森林地帯。
冒険者にしては随分と軽装な人間族の女が、硬い藪をかきわけながら歩いていた。どうやら人探しをしている様子であるが、捗っていないらしく機嫌が悪い。
そもそも、人探しをしたいのであれば魔界ではなく、人類生存圏を捜索するべきなのだ。事実、一ヶ月前まで女と一緒に行動していた二人は人類国家へと向かっている。
「あの駄目エルフ。森が怖いのがまだ治っていないなんて役に立たない。アジサイは自分勝手だし」
たった一人で、しかも女の身で魔界を歩くなど命知らずにも程がある。
魔界は百歩以内に必ずモンスターとエンカウントする危険地帯なのだ。
たとえば丁度、木々の向こう側に猫科系のモンスターが見えてしまっている。まだ女に気付いていないのは、狩ってきたばかりの獲物にかじりついているからだろう。ムシャムシャしている間にゆっくりと、後退していかなければ――。
「――炎上、炭化、火炎撃。消えろ、私は犬派だ」
――この女、モンスター以上に危険だった。エンカウントした途端に魔法をぶっ放すなどモンスター以上の危険人物だ。
事実として、女は魔界に入ってからいくつも山を焼いている。
赤い袴は悪魔の証拠。歩く自然破壊に新たな魔王の登場を予感したモンスターの多くが巣穴に引き篭もる。炭と化した猫科モンスターは腹が減っていただけなのに、可哀想な被害者である。
「鳥でも狩っていたのか。供養のために私が食べてあげないと――」
魔界に入って相当苦労したのだろう。モンスターの獲物を横取りするサバイバリティを持つ女は、木々の合間を抜け、雑草に隠されていた場所へと到達する。
「――げ、鳥じゃなくて死体だし!」
腹と胸に重傷を負った死体が倒れていた。
猫科モンスターはまだ食事を開始したばかりだったらしく人間としての外見は保たれていたものの、立派な死体だからといって正視して気持ち良いものではない。
「まったく、君って不幸な人間ね。炎の魔法使いに命を救われるまで待てなかったの?」
発見してしまったからには埋葬が必要だろう。列車にはねられた死体を探し出した少年物語と異なり陰鬱な気分しかしないものの、だからといって見なかった事にもできない。
とはいえ、ここは魔界。地面に埋めてもすぐに掘り返されてしまう。
「はぁ。――炎上、炭化――」
つまり、土葬ではなく火葬が最も適切な埋葬手段な訳である。女の得意手段とも合致している、が――。
「――タ、す…………け……て」
――死体が涙を一筋流した事で女は魔法詠唱を中断する。
「げ、死んでいなかったの、君!」
死んでいなければいないで手当の手間がある。
女、炎の魔法使い、皐月は安堵と落胆が混ざった表情を見せた。
……ようやく登場してくれましたね、赤い子。