10-1 叔母様からの手紙
深過ぎる夢を見る。
彼岸花のように咲き乱れる黒い腕達。
その黒い花園を踏み潰し、夢遊病者のように歩いていく巨大な影。
潰されて散乱する腕を捕食しようと泳ぎ現れる六頭犬の異形。
汚らしく笑いながら、手招きしてくる老ゴブリン。
ついでに、バンシーのような少女達が、奇声を上げながらダンスを踊る。
悪夢、なのだろう。どこをどう俯瞰しても悪夢の光景しか転がっていない。未練だらけの悪霊のみがおぼろげに自我を保ち、受肉のために手を伸ばしていく。が、ここには肉体を失った死人しかいないから、他者をどれだけ捕食しても無意味だ。底のない柄杓で水を汲むよりも空しい。
ただただ、悪霊が醜態を晒す黒い世界。悲惨だ。
けれども……何故だろう。妙に親しみを覚えてしまう。
酷く居心地が良い。黒い世界を見ていると、まるで温泉にでも浸かっているかのようにリラックスできてしまう。
もし、こんな世界が地上にも広がったならば、それはなんて素晴らしい世界なのだ。
汗を流す。髪が伸びる。そんな汚らしく代謝し、老廃物を作り続ける生者がいなくなった世界。きっと皆が俗物的な願いを捨て去っているので平和的だ。体を失うのだから血の繋がりがなくなって、皆平等になる。空しい共食いのみが発生するだけで、何の諍いも生じない。
だから、現世を侵食したくなってしまう。
生きとし生きる者共を黒い世界へと沈めたくて仕方がない。
「……俺は、狂っている」
まだ残っていた人間としての本能が悪夢に怯えた。瞬間、悪夢は遥か彼方へと遠ざかって消え失せる。悪夢は去り、無音の夢へと変わった。
今日はどうにか起床できそうであるが、きっと、次からは厳しいだろう。
だから俺は決意する。
「これからは一睡もできないな」
心地良い夢を見ていたはずなのに、寝汗でびっしょりと背中を濡らして起床した。
新しい朝だ。希望があると良い朝だ。
「おはようございます。凶鳥様」
「おはよう、月桂花」
「ご朝食はどうされますか」
「……いや、食欲がないからいらない。水だけ貰いたいが、俺が寝ている間に、何か変わった事は起きたか?」
先に起きていた月桂花へと訊ねてはいるが、朝一なのであまり期待していない。
コップに口だけ付けてから、月桂花の返事を待つ。
「はい、今朝未明、ドアの隙間に手紙が投函されたました。凶鳥様宛です」
そう言うと、月桂花は手紙をよこしてきた。
封蝋というのだったか、溶かした蝋の上から印を押して、手紙を封印してある。封筒の手触りも良い。見た目だけでも高貴な雰囲気である。
異世界会話はそこそこ可能であるが、文字が読めないので誰が差出人であるか不明だ。
「カルテ・カールネ・ナキナとあります」
「誰だ、そいつ?」
「この国の大臣の名前だったかと。ナキナというファミリーネームですので、恐らくはアニッシュ・カールド・ナキナの身内ですわ」
アニッシュには別れ際、準備できるまで待ってやると言ったというのに。昨日の今日で、随分とせっかちに接触してきたものである。
宣戦布告か、あるいは謝罪文か。速攻だったので後者だろうな、と予想しながら封を切って手紙を取り出した。
クルクルした字体に目を通した後、解読を諦めて月桂花に音読を頼む。
「拝啓、キョウチョウ様――」
珍しく、月桂花が一瞬真顔になった。
「――汝はカルテを最愛の妻とし、病める時も健やかなる時も愛する事を強要します。結婚式はナキナが金銭的に恵まれた際に改めて行う予定でありますが、婚姻届は法的に受理されているのでご覚悟を――以上です」
分かった。不幸の手紙だ。これ。
「アニッシュの身内はどうしてこんな怪文書を送ってきた」
「分かりかねます。ふふっ、凶鳥様を法律で縛っても今更、内縁の地位はわたくしのものだというのに」
「……朝から頭痛がしてきた。胃も痛い。とりあえず読まなかった事にしてしまおう」
無感情で無表情であるのに、月桂花が微笑んでいる。反面、手紙を掴む指は微動だにしていない。手紙を持たせたままにしていると微笑むのを止めなさそうなので、取り上げて封筒の中に戻した。
目元を押さえるように凶鳥面を抑えていると、部屋の外から勢い良くドアが開かれる。
「おはようっ、キョウチョウ! 宿舎の台所を借りて森料理作ってみたから、食べてみてよ」
アイサが大皿に盛り付けた鳥の丸焼きを片手に入室してきた。
きっと今朝方狩猟してきたばかりなのだろう。森料理という癖に、ベジタブルな要素が皆無で豪快な料理だ。香草の臭いが恐ろしい速度で室内に充満していく。
朝から酷く元気の良い笑顔でアイサは詰め寄ってきた。エルフの民族服の上からエプロンとは新しい。
「へぇ、美味そうだ、なぁ……」
とても食欲がないと言い出せる雰囲気ではなさそうだ。
下腹を摩りながら街中を歩く。怪文書を送りつけてきたナキナの大臣に抗議しにいく前に、一度、異世界の正式な街というものを見ておこうと思ったのだ。
ナキナの王都は、とても寂れた雰囲気で満ちた場所であった。人々に活気はない、明日を安心して暮せていない証拠か。誰もが俯いているから、フード付きのコートを着込んだだけで凶鳥面の俺が普通に歩けてしまう。
浮浪者が通路の壁に寄り添い、怠惰にも死体のように眠っている。
反対に荷車を押す人間は疲労の表情である。
誰もが他人を気にしている余裕などなさそうだ。
……唯一の例外は、街の広場で道行く者達に声をかけている兵士だろう。遠くから声を聞く限り、冒険者を軍に勧誘しているようである。ダンジョンの上にあった街が壊滅した事で、生き残りや、一時的に街を離れていた冒険者がナキナの王都に集まっているらしい。
「さあ、冒険者達。知人や友人を殺された者もいるはずだ。仇が討ちたければ義勇兵として志願してくれないか。冒険者の矜持を忘れず金銭目的でも、もちろんオーケーだ」
まだ距離はあるが、声をかけられて顔を見られては騒動になる。
急ぎ広場を後にした。
「金を貰って魔王連合と戦えるのなら得かもな。嫌ならこの国から逃げれば良いだけだし、参加してみるか、二人とも?」
「異議ないデス」
「冒険者だと身分保障も難しいから、悪くないんじゃないかな」
街中をぶら付く怪しいフードの男から一定距離を保ち、一般人に変装している忍者職の中年は歩いていた。三区画ほど歩いてから、別方向から横切る他人のフリをした忍者職に耳打ちする。
「ターゲットは広場から王城へと向かっている」
「了解。尾行はこちらが引き受ける。予定通り一旦遠ざかれ」
ナキナの諜報部隊、忍者衆だ。
頭目がヘマしたばかりであるが、ナキナに従事している忍者衆は優秀である。直接戦闘能力では騎士団が秀でるだろうが、尾行や情報収集といった裏方の仕事について忍者衆を超える者達はいない。
下手にスキルを用いず、演技のみで完全に民衆と同化して無個性化に成功している。魔法的な要素がないのが逆に、『魔』に敏感な魔法使い職に対する隠蔽工作になっているのだ。
寂れているとはいえ数十人と道行く人がいる往来で、変装している忍者職を発見するのは難しい。仮面の男本人も、また、仮面の男が連れている二人の女性も、尾行に気付いた様子はない。
忍者衆が命じられた任務は、監視と尾行のみだ。仮面の男の居場所を報告し続けるだけの、そう難度の高くない仕事である。
……このまま何事もなければ、任務は成功していただろう。
「あはっ、ワタシにも教えてくれないかしら。誰を尾行しているの?」
中年の忍者職は、突然背中に降りかかった呼び声に反応している暇はない。呼び声とほぼ同時に、口内に侵入してきた異物に体の占有権を奪われ、悶絶してしまう。暴れる手足はだらりと弛緩していく。
周囲に多少のうめき声は聞こえただろう。が、寂れた街の人々は誰も気にしない。
「侵攻前の偵察だけのつもりだったのに、怪しい人物を尾行していてとても気になるわ。若様のついでに、少しちょっかいかけてしまいましょうか」




