8-15 三分間の奇跡
アニッシュは動悸激しくその場で跳び上がる。仰向け姿勢を空中で正し、中腰姿勢に転化。
懐の中で大事に持っていた黒い箱が突如振動したため、アニッシュの心臓は本気で止まりかけた。
「何だッ!? 地響き、ではない。キョウチョウの箱が震えているのか??」
黒い箱は縦幅十センチ、横幅五センチの携帯に便利な形となっている。
元々は、アニッシュの持ち物ではない。第四層でグレーテルに襲われた際、凶鳥が大事な物だからと言ってアニッシュに預けた品物である。よって使用法はさっぱり分からない。というか、箱かどうかもはっきりしない。
材質は木材でも金属でもない。未知の手触りがする。
独りでに震え始めるなど怪しさ満天だ。
アニッシュは凶鳥が魔族信仰のある禁忌の土地出身だと思い出し、黒い箱は人を呪い殺す呪術道具の類ではないかと背筋を凍らせる。
身に覚えがなければ怖がる事はないだろうが、アニッシュには後ろめたさがある。凶鳥を第九層に置き去りにしたという負い目がある。凶鳥の呪いが、遠隔式または時限式に発動したのではないだろうかとアニッシュは疑った。
それでも、黒い箱を投げ捨てないのはアニッシュが素直な子だからなのだろうか。一度預かった物を乱暴には扱えない。
「震え続けている。一体、どうすれば止まるのだ……あ、開けてしまった」
慌てたアニッシュは偶然、黒い箱を開放する。と言っても箱には中身がない。四角い水晶と奇妙な記号が並ぶ内壁が現れただけだ。
偶然は続く。アニッシュは震える箱を落とさないように両手で握る。その際、親指が奇妙な記号の一つを押し込んでしまう。
その記号は、異世界人にとって未知だった。受話器を取る動作の意匠、と言ってもちんぷんかんぷんな表情を見せるだろう。
==========
“アイテム詳細
●黒い携帯電話(『異世界渡り』実績達成済)”
==========
“『黒い携帯電話』、携帯業界の地位をスマートな奴に奪われつつある存在。
超軽量の携帯型端末。通話機能、メール機能を搭載しており、カメラ機能まである。これ以上何が必要なのかという高性能機。が、LIFEができないのは、合コンにおいてはそれだけではデメリットになる。
基地局のない異世界では当然ながら通信不能。
バッテリーが切れているため、そもそも使用不能”
“≪追記≫
電子機器でありながら、『異世界渡り』の実績解除がされているため、基地局やバッテリーがなくても通信可能である。ようするに、ライフラインのテレフォン。
使い方は通常の携帯電話と変わらない。とりあえず、電源ボタンを押せ。
ただし、通信は電話機能の場合、一回三分。メールの場合は送信または受信を一回と見なし、一通三百文字まで。
通信回数は一週間で一回増えていく。”
“現在の通話可能回数:一回”
==========
『お前ッ! いつまで待たせる気だ! 一週間ごとに連絡しろ!!』
黒い箱の中から声が響く。
「ひへぇっ、喋った!? キョウチョウかッ?!」
『……ん、お前誰だ??』
男の声だ。不自然にくぐもっている。凶鳥の声に酷く似ているが、手で持ち運べるサイズの箱に凶鳥が入っているはずがないとアニッシュは自分に言い含める。
「もしや……箱の中には魔族が封印されていたのか!? 余は、呪い殺されるっ?!」
『ちょっ、ちょっと待て。俺も混乱しているがお前も混乱するな。大事な三分が失われる。まずは名前を教えろ』
「キョウチョウッ、余は見捨てるつもりはなかったのだ。いや、従者の仕出かした事は主の責任、逃げるつもりはない。けれども、どう謝罪すれば良いのか余には分からない」
『ええいぃ、黙れ小僧! 名前を言え!』
箱の中の人が混乱し続けるアニッシュを叱り付けた。
滅亡しかけている国の王族とはいえ、赤の他人から叱咤される謂れはない。が、繰り返しになるが、アニッシュはひたすらに素直な少年なのだ。異世界的には不思議な話だが、あまり少年の個性を疑うものではない。
「名か? 呪い殺すための名なのか?! 良いだろう、余は逃げない。アニッシュ・カールド・ナキナが余の名前だ」
『アニッシュ、仮面付けた馬鹿はどこだ? 電話を代われ』
不思議と言えば、混乱しながらも意思疎通できている状況の方がよほど不思議だろう。二人はそれぞれ、世界レベルで異なる言語を喋っている。
「キョウチョウか。キョウチョウは……余が見捨てた」
『キョウチョウってあいつの事か? 見捨てたってどういう意味だ?』
「魔王に襲われて、キョウチョウを一人置き去りにしてしまった。唯一の階段も崩壊して助ける事もできない」
『あの馬鹿、どうして週刊で命の危機に瀕する』
「余は弱い己が許せない。余が弱いから、皆が犠牲になったのだ。弱い余が生き残るよりも、強いキョウチョウが生き残れば良かっ――」
いや、言語の差など『異世界渡り』実績を達成している携帯電話にとって障害にもならない。異世界を征く者がいちいち言葉で不自由していられないからである。
『ああ、それはない。あいつは強くないぞ』
実績達成携帯は今、邂逅しない二人の人間を引き合わせた。
「そんなはずはない。キョウチョウは魔族を恐れない!」
『あいつも一度、魔族共に怯えて動けなかったらしいぞ』
これは奇跡の出会いだ。立場も身分も世界も異なる二人には何の接点も存在しない。何かの間違いで接点ができたとして、それで何がなせる。
『化物が相手だ、怖くないはずがない。あんまり自分だけが弱いと決めつけるな』
「でも、余は余はっ」
『それでも己が許せないなら、あの馬鹿、不肖の親友を助けてやってくれないか。無理を言っているのは分かっているんだがな。俺には手出しできないから、頼む』
脆弱な少年を焚き付けるぐらいが限界のはずだ。少年に無謀な挑戦を懇願しても快諾するとは思えない。
「……やっぱり無理なのだ。余は今、迷宮の中でメイズナー、ミノタウロスに追われている。己の命さえ危うい」
仮に少年が快諾したとしても、力不足でモンスターに狩られるのがオチである。
『迷宮でミノタウロス? 窮地なのは分かるがベタな。地球では毛糸を伸ばして迷宮を攻略し、ミノタウロスを短剣で倒したらしいが』
「メイズナーは狭い場所を選んで逃げても追ってくる。迷宮を攻略できても――」
奇跡の時間は残り一分を切った。実に意味のない奇跡であった。
『えっ、メイズナーってミノタウロス。そんなに小さいのか??』
電話先の男の何気ない感想。アニッシュの返答も「えっ」という短い言葉で開始される。
「メイズナーは小さい? そんなはずは……でも、奴のスキルは確か……うまく誘導できれば――余はキョウチョウを助けられる??」
『すまないが時間切れだ。残り十秒で電話は切れる』
「最後に教えてくれ!」
『何だ?』
「そなたの名を!」
『紙屋優太郎、仮面馬鹿の親友をしている』
たった三分の会話の前後で、アニッシュの顔付きは明らかに変化した。一から十を得るかのごとく、少ない会話の中から目的と手段を見出したからだろう。
目的とは、見捨ててしまった凶鳥の救出。
手段とは――。
「最大の感謝を! 余にも優太郎のような友が欲し――」
ぶつり、と世界間の回線は途切れて、アニッシュの言葉はすべて優太郎に伝わらなかった。
喋らなくなった携帯電話を大事にしまって、アニッシュは深く息を吸う。涙で湿った目元を袖で乱暴に拭って、頬を叩く。
祖国ナキナを救いたい、という王族の義務感や責任感で地下迷宮に潜ったアニッシュ。少年が勇者に成れないと知りながらも迷宮と化物に挑むとすれば、その原動力は勇気以外にはありえない。贖罪の気持ちも含まれているだろうが、それだけで少年が巨大ミノタウロスに挑めるはずがない。
「余よ。やるぞ。仲間を失い、勇者にも成れなかった情けない余にも出来る事がある。……キョウチョウを救ってみせよう」
アニッシュは毛糸を持ち合わせていないので、ナイフで壁に長い一本の傷を付けながら目的地を探し始める。