1-9 優しいエルフ、アイサ
老人やら失明やらがあったが、その日は無事に生存できた。夕暮れが近づいていたから、面倒事は明日に見送られたのか。それぐらいしか理由が思い付かない。
まだ痛む右目を押さえながら断言する。
「明日死ぬのか、クソッ」
根拠なく己の不幸な未来を予想しているが、状況証拠はある。
今夜は夕飯が出ない。水も僅かだ。俺の体力を消耗させたままにしておく算段だろう。
……まさか貝の砂抜きではないだろうな。俺を食っても絶対に美味くないぞ。
実際に今、犬歯を腕に突き立てて血を味わっているから確かな情報だ。己の血は甘味も酸味が足りず、まったく喉の渇きが潤わない。
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“実績達成ボーナススキル『吸血鬼化(強制)』、化物へと堕ちる受難の快楽。
本スキル発動時は夜間における活動能力が向上し、『力』『守』『速』は二割増の補正を受ける。また、赤外線を検知可能となる。反面、昼間は『力』『守』『速』が五割減の補正を受ける。
吸血により、一時的なパラメーターの強化、身体欠損部の復元が可能。
一方で、吸血の必要もないのに一定周期で生血を吸いたくなる衝動に駆られ、理性を失う。生血を得れば衝動は一時的に治まるが、依存性があるため少量摂取に留める必要があり。
吸血鬼化の進捗度は、直射日光に対する精神疾患で把握できる。
症状の深刻化は吸血量によるが、初期状態でも長時間の日光浴により深度ⅡからⅢ度の熱傷を負う。要するに、夜に生きろという状態”
“実績達成条件。
実績というよりも呪いという方が正しい。ある魔王に吸血された実績により、人間性を大きく失いかけている。スキルによるメリットよりもデメリットを憂慮すべき。
なお、実績達成のためには童貞、処女である必要がある。リア充、死霊化しろ”
“≪追記≫
強制スキルであるため、解除不能。解除したければ、呪いを授けた魔王を討伐する以外に方法はない”
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老人に襲い掛かろうとしてから、喉が渇いて渇いて仕方がない。思考の九割が生血を求める願望に奪われてしまっている。
最も近場にあった己の生血を五百CCは飲んでいると思うのだが、口寂しさを和らげる効果さえない。
まったく。
「クソ、ああ、クソ」
どこかに若くて、飲み易い生血がいないものか。
「こうやって今日を耐えても、明日死ぬのかよ。クソッ」
本当は網膜に浮かび上がっている邪魔臭い情報を精査したい。
強制解放された『個人ステータス表示』なるスキルや、スキル効果により判明した俺のステータスやパラメーターといった疑問符ばかりの単語が連なる、酷くゲームチックな情報の考察をしたい。
だが、『吸血鬼化』が収まらない状態で、建設的な思考が行えるはずがないだろ。
トレアの弟であるアイサは、綺麗どころの多い隠れ里でも可愛いと評判の子である。
評判されているのは、壊れ易いガラス細工のような精巧な美顔ではない。初夏の緑葉のように生命力を感じさせる笑顔こそが至高であり、アイサに微笑まれて笑顔にならない者はいない。
素直な性格をしているアイサは、これまでの人生で姉達の言い付けを破った事は一度もない。姉の期待に答えようと努力する姿さえも酷く健気で、可愛らしくある。
真ん中の姉が人間族の勇者と隠れ里を出て、そのまま消息不明になってからは、戦士としての訓練にも熱が入るようになった。レベル自体は低いものの、下地は出来上がりつつある。
エルフとして早熟するまで、もう数年。
今年は幼精の第二成長期、性別を決定付けるという意味でも大事な時期であるため、姉のトレアの過保護振りは容認されるべきものであった。
「えっ、あの人の食事は!?」
夕食時、アイサは配膳された兎肉をぽろりと皿に落として、疑問を口にする。
「今日は納屋に行くな。里長の命令があるから仕方が無いが、今日は殺さない。明日の出発ギリギリまで、絶対に近づくなよ。アイサ」
「……分かったよ。姉さん」
姉達を誇りに思っているアイサが、姉の愛を煩わしく思うはずがない。生えてこない親知らずのように、アイサは反抗期を忘れてこれまで成長したのだ。
……だからこそ。アイサは姉の言い付けを破って、密かと納屋に近づいたのであるが。
アイサは、恐ろしげな鳥の面を付けた人間に怯えていたが、不思議な事に嫌悪してはいなかった。
アイサは、真ん中の姉を連れて行った人間族の勇者は憎んでいたが、不思議な事に人間族全体を憎んではいなかった。
アイサは、鳥の仮面の人間族の「アリガトウ」という発音の単語の意味を察する賢い子であった。これは不思議ではない。
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“実績達成ボーナススキル『カワイイは正義』、蝶よ花よと愛でられるスキル。
他人がスキル所持者に抱く心象が一段階高く補正される。また、スキル所持者の主張が受け入れられる可能性が高まる。
デメリットとして、スキル所持者の他人に対する警戒心が一段階低くなってしまう。
本スキルを悪用した場合、詐欺し放題であるが、そんな悪い子にこのスキルは開眼しない”
“実績達成条件。
カワイイがすべて。
ゆえに、性別の制限はない”
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夕食を与えられずに餓えるのは可哀想だ。
こう他者を思いやれる程に良い子のアイサが、姉に見つからないように家を出てしまうのは仕方がない。精霊戦士となるべく訓練し会得した体術を悪用し、見張りがいる納屋に忍び込むのも仕方がないのである。
見張りの男達が薄気味悪い存在がいる納屋から遠ざかっていた幸運も掴み、アイサは夕食デリバリーを成功させる。
白い手に持っているのは皮袋の中身は、一口大に切ったパン。それと水入りの竹筒。
代わり映えのない献立で申し訳がないとアイサは、あうぅ、と唸っているが、そんな事はない。
「喜んでくれるかな?」
きっと鳥面男は、優しいエルフを歓迎するだろう。
まさか、パンや水だけではなく、メインディッシュたる生血が歩いて現れてくれるなどと考えもしなかったのだから、最高のサプライズとなるはずだ。
その生血は長寿で有名な森の種族、エルフである。
しかもエルフの中でも稀少な幼精であるのだから、歓喜せずにはいられない。
こんな豪勢な食事は、胃が受け付けない。謙虚なる心の持ち主であるのなら、最後の理性で耐えられるかもしれない。
ただしその場合は……仮面の男の第二の呪詛が発動するので、食べ残しの心配は必要ない。