エピローグ
「美沙!」
美沙は、後ろから名前を呼ばれて振り返った。
そこには、翔が居た。首には、白い何かの手術痕のようなものが、点々と残っているのが見える。それを隠すためか、この季節でも翔は少し襟が高いシャツを着ていた。それでも、それを知っている美沙から見たら、一目瞭然だった。しかし美沙は、そこに視線をやることもなく、微笑んで翔が追いつくのを待った。
翔や他の仲間達は、何事も無かったようにきれいに記憶は消えていた。
ただ、自分達はバカンスに行くセレブ達の、大事なペット…超大型犬から猛獣に至るまで…を、世話する係だったのだと記憶しているようだった。
なので、噛み傷にしても、すっかり治っていたし、補償金も出たしで、騒ぎ立てることも無かった。
「ああ、ごめん。駅で見かけたもんだから。博正と、結婚するとか聞いたとこだったから、お祝いを言わなきゃって思ってさ。」
「ありがとう。」美沙は、微笑んで翔に並んで歩き出した。「ついこの間、お互いの親族の顔見世があったのよ。でも、結婚するのはまだ三年後よ?大学だけは、卒業しておこうって博正と話し合って。」
翔は、がっくりと肩を落とした。
「そっか…やっぱり本当だったか。最近美沙、結構色っぽくなっただろう?だから、博正と別れないかなーっと思ってたのにさあ。大学まで、同じところへ行っちゃって。」
美沙は赤くなって、戸惑ったように言った。
「え、あの…ありがとう。」
「こら!」
バシッと翔の頭にバインダーが落ちて来た。翔が、目を白黒させながら、頭を庇って後ろを振り返った。
「なんだよ!痛ってーな!」
「油断も隙も無いな。」博正だった。「オレ達は幼稚園の頃から婚約してんの。お前なんか、入って来れないよ。」
翔は、ぷうっと顔を膨らませた。
「なんだよ、いっつもいい所で出て来るんだから。相変らず鼻が利くな。」
博正は、ふふんと笑った。
「狼並にはね。」と、美沙を見た。「美沙、オレ今日仕事だ。研究室から呼ばれてて、帰るのが遅くなる。」
「じゃあご飯要らないね。でも、帰っては来るの?」
博正は、頷いた。
「帰るよ。でも」と、ちらっと翔を見た。「このまま行こうかと思ってたんだけど、美沙を家に送ってからにする。こいつが何するか分からないから。」
翔は、ショックを受けたように言った。
「え~?!もしかして、もう一緒に暮らしてるのか?」
博正は、べーっと舌を出して見せた。
「とっくに一緒に住んでるよ。オレは仕事してるしね。大学も一応行ってるけどさ。じゃあな!」
博正は、美沙の肩をがっつり抱いて、その場を後にした。
「もー美沙~!オレ、そういうの、気にしないから~!」
翔の声が、遠くから聴こえて来る。
博正は、それを振り返りもせずにふて腐れた顔で言った。
「最近、あいつらうるさいな。美沙美沙って、高校の頃は何にも言わなかったくせに。」
美沙は、苦笑しながら博正を見上げた。
「だから、それはアレのせいでしょう?ほら、メスだもの。仕方がないわ。博正だって、変化するようになってから、女の子にモテてたじゃないの。お互い様よ、お互い様。」
博正は、恨めしげに美沙を見た。
「最近、美沙、余裕だな。オレが他の女にちょっかい出すとか、思わないの?」
美沙は、ふふんと鼻で笑った。
「あら、そうなの?だったら私も、行って来るからいいけど。翔じゃなくても、誘って来る子はたくさん居るしね。」
「片っ端から噛んでやる。」
博正は、唸るように言った。美沙は、博正の背を撫でた。
「もう、困ったひと。分かってるんでしょ?私達は、唯一のペアだって、研究所の所長が言っていたじゃないの。他の相手とは、結婚出来ないのよ。人狼だから。」
博正は、はーっと息をついた。
「いっそ、今の研究やめちまおうかな。ヒトに戻ったら心配で仕事にも行けなくなりそうだよ。」
美沙は、首を振った。
「駄目よ。私達の子供のためにも、元へ戻らなきゃ。家族、欲しいでしょ?」
「欲しい!」博正は言った。「オレと美沙の子供が欲しいよ。」
「ね?だったら、がんばろう。」
今住んでいる、一戸建ての前に到着した。これは、研究所から支給されている一応社宅だった。
美沙は、博正の襟を直した。
「さ、じゃあ行ってらっしゃい。早く帰ってね。」
「うん、行って来るよ、美沙。」
博正が美沙に唇を寄せる。
すると、プーッと軽いクラクションの音がした。
急いでそちらを見ると、黒いセダンが近付いて来るところだった。
「なんだよ、みんな邪魔しやがって。」
博正が、不満げに言う。
運転席から、真司が顔を出した。
「なんだよ、ふて腐れた顔をしやがって。迎えに来てやったんだぞ?お前も今日呼ばれてるだろう。」
美沙は、屈んで真司の顔を覗き込んだ。
「真司さん、お久しぶりです。」
真司は微笑んだ。
「美沙ちゃん、久しぶり。何だかしばらく見ないうちに綺麗になったね。見違えたよ。」
美沙は、笑った。
「何でも、あの薬のせいらしいです。ヒトに戻れたら、普通ですから。」
博正が、美沙の前に出て通せんぼした。
「駄目だ!真司までそんなことを言って!もう、美沙は絶対誰にも渡さないからな!」
真司は、肩をすくめて呆れたように言った。
「人狼同士で争おうなんて思ってないよ。お前の美沙ちゃんへの執着は分かってるつもりだからな。こんな道へ無理に引きずり込んだんだし。」
博正は、ふんと鼻を鳴らした。
「オレは間違ってない。」
言い切るところが、博正がまだ狂気を孕んでいるのを思わせる。
美沙は、博正の背を押した。
「さあ、行って来て。早く行って、早く帰って来てね。」
博正は、頷いた。
「じゃあ、行って来るよ。」
博正は、その助手席へと乗り込んだ。
二人は、美沙に見送られて、今は慣れた場所になってしまった、研究所へと向かったのだった。
「光は、順調に適応したようだ。オレ達ほどではないけどって、所長が言っていたよ。」
真司が言う。博正は、眉を寄せる。
「こんなものになりたいって言う、あいつの気持ちが分からない。オレ達がどれほど元に戻りたがっているか、知ってるくせに。」
真司は頷きながらも、段々に山深くなって来る道を見ながら、言った。
「だがオレは、あれほど頭部を損傷していた梓が障害を抱えたものの復帰した事実を目の当たりにして、あいつらの研究もあながち間違っていないのではないかと思っているんだ。」博正の視線を感じて、真司はちらとそちらに視線を向けた。「先に薬を投与していたら、死んでから12時間経っていても蘇生出来るんだぞ?あの技術は何だ。人類のため、と所長が言っていたが、その通りかと思えて来るんだ。」
「…全ての人類に対して、使う薬だったらね。」博正は、皮肉っぽく言った。「あんな薬なのに、世に出ていないのは一握りの金持ちと、高官だけに使われる薬だからだろう。オレ達平民は、せいぜい実験にしか使われないのさ。梓だって、実験の犠牲者にしたくなかったから、メンツのために治したんだ。人道的な考えの下じゃない。」
真司は、黙った。確かにそうなのだ…だがいつか、これが日の目を見ることが、ありさえしたら…。
急カーブが、目に入った。
「真司!スピード!曲がり切れない…、」
博正の声がする。
考え事をしていたからか。
真司は、急いでブレーキを踏みながらも、それが間に合わないことをもう、知っていた。
車は、ガードレールをぶち破って飛び、深い峡谷へと落下して行く。
「うう…」と真司と博正は唸った。「うわおおおお!!」
二頭の狼が、開いた窓から飛び出して転がる。
高い針葉樹の枝に何度も体をぶつけられ、それでも柔らかい狼の体は受身をとりながらも、傷を作って落ちて行く。
車は先に地面へと衝突し、大破して燃え上がった。
二人の体は、木の枝に散々に切り刻まれながらも、まだ命を残したまま、それでも瀕死の状態で地面へと落下した。
薄れて行く意識の中で、真司は思っていた…これぐらいでは、死なない。
研究所からは、すぐに回収部隊がやって来るだろう。
貴重な、自分たちの体は回収され、そうして12時間経過していない場合は、簡単に蘇生されるだろう。
狼になっているから、痛みにも苦しみにも、恐怖は感じない。
本当に、何も…。
しばらくして、あの人狼ゲームの部屋に響いた男声が言った。
「狼の状態で瀕死…?ヒトなら蘇生技術が開発されているが、狼ではな…。」
「では、どう致しましょうか?」
「まだ死んだわけでもないし、このまま放って置くよりない。なに、ここで観察をしようじゃないか。狼の細胞は、果たして自己再生がどこまで可能なのか…。」
「おもしろいですね。」
「おもしろい。」
「動物に応用できるかもしれませんしね。競走馬など、貴重な個体の存続に役に立つやも…。」
「あの薬がどこまで影響するのかもわかる。」
「早く計器を持って来い!」
二人の体は、冷たくなる中計器に繋がれて、ただ観察されていた。
家で待つ美沙には、そんなことは知る由も無かった。
そうしてただ時だけが、流れて行ったのだった。
最後までお付き合いありがとうございます。
ホラーを書こうと意気込んだはずだったのですが、私には人を理不尽にガンガン殺して行くのがとても精神的に重く…せっかくやめようと思っていたタバコの本数が激増し、このままでは精神的におかしくなるかもと、皆を本当に殺してしまうことが出来ませんでした。
ですがこのままハッピーエンドというわけにもいかない流れになってしまって、気が付くと自分でも望まない感じの終わり方に…。
やはり私には、緩い感じのお話しの方があっているのかなあと、思った制作期間でした。拙い文章にお付き合い、ありがとうございました。10/6




