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2015.09.14 一部修正
「あの時はごめん」
私はたまらずにそう言った。これで恕されるとは思っていなかったが、謝らずにはいられなかった。
「うちな、来週、引っ越すねん」
木内は表情を変えることなく、そして私の言葉を敢えて無視するかのように、視線を遠くの川面に向けたまま、言った。彼女が何の感情の乱れも見せずに言うことが、私には、私への当てつけのように思えた。そして、それが全ての清算であり、私への実刑判決のように思えた。極刑だった。
重苦しい沈黙が続いた。
「うちな、大郷のこと、ずっと前から、小学校の頃から知ってたんやで。大郷はトンマやから知らんかったやろうけど」
突然、木内はそう言った。そして私の顔を見て微笑んだ。私は何と言葉を発して良いかわからず、ただ黙って彼女の顔を見つめた。
「覚えてへんやろけど。小学校の頃、近所の子らとで、違う小学校の女の子いじめたことあるやろ」
そう言って木内は、精一杯の意地悪な笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んだ。
「ああ。あれお前やったんか」
あの、私達に追い詰められ、真っ先に泣きだした、背の小さい少女のことを思い浮かべた。しかし、もうその顔をはっきりと思い出すことはできなかった。
「今まで知らんかったやろ。ほんまにマヌケやわ」
近くの空港から離陸した飛行機が轟音とともに過ぎて行った。
「もう、あんたはうちのこと泣かせてばっかりや」
突然、木内は叫んだ。涙が次から次へとその瞳から溢れていた。私はただ、その泣いているようで、笑っているような複雑な顔を見つめた。その顔はいくらばかりか、大人の女性の印象を帯びていた。それはもはや、初めて言葉を交わしたあの日、下足室で顔を摺り寄せるようにして私の顔を見つめていた少女のそれではなかった。
もう一度木内は繰り返した。
「あんたはうちを泣かせてばっかりや。小学校の時も、あの時も。うちを泣かせてばっかりや」
私は意を決した。
「俺な、お前のこと、ずっと好きやったんや。でも言われへんかった。怖かったんや。なんやしらんけど、お前が口聞いてくれへんようになると思ったら、こわあて言われへんかった」
私の言葉に木内は肩を大きく震わせた。
「あんたは阿呆や。なんで言わんかったんや。うち、ずっと待ってたのに。でも、もうあかん。もう終りや。すぐに私遠いとこ行くもん。もう終りや」
木内はそう言うと激しく泣きだした。肩を震わせ、声をあげて泣いた。
綺麗に手入れされた彼女の髪が絶え間なく揺れ、柔らかな香りが草の青い香と混ざりあった。彼女が私の前から消えていってしまう、という現実がひどく遠いことに感じられた。私は彼女を抱きしめることもできず、居たたまれずに空を見上げた。木内の泣き声は星達の瞬く広い空に広がり、そして消えていった。
「送ろか」
私はようやく泣きやんだ彼女にそう言った。彼女は首を横に振って拒んだ。
「一人で帰る。せやないと、また泣くもん」
そう言って無器用な作り笑顔を見せ、彼女は立ち上がった。私もそれにならった。そして再び二人の視線が重なった。木内はまた泣きだしそうになるのを必死に堪えているようだった。
私は手を差し出した。木内は驚いたように私の顔を見つめたが、やがて彼女は私の差しだした手にその手を重ねた。初めて触れた木内の手は、とても柔らかだった。何度も想像したどの手よりも柔らかく、そして繊細だった。
「大郷の手おっきいなあ」
「木内の手ちっちゃいなあ」
無理して二人とも笑った。
「もしな、もしも、うちらがまたどこかで逢えることがあったら、一緒にこの星、見てくれる?」
「ああ、見よう」
私達は空を見上げた。数え切れないくらいの星達が私達を見下ろしていた。
「約束やで」
「ああ、約束や」
木内は静かにその手をひいた。残された時を名残り惜しむかのように私達は見つめあった。初めてこれだけ強く彼女を見つめた気がした。そして初めて彼女に心を開いたような気がした。
やがて「ほなね」木内はそう言って小さく手を振ると、歩き出した。私はその背中を見つめ続けた。どんどん小さくなっていくその背中をただ黙って見送った。その小さくなった影はふとこちらを振り向いた。
「うち、あんたのこと好きやあ」
そう叫ぶと、彼女は暗闇の中へ溶けていった。私の右手に淡い感触だけを残して。