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2015.09.14 一部修正
そんなある日のことだった。私が休憩時間にトイレへ行こうと廊下を歩いていたき、向こうから木内が駆けよってきた。二年生に上がったときに私達はそれぞれ別のクラスとなり、時おり廊下で会うと声をかける程度しか接触がなかった。
「なあ大郷。今ちょっといい?」
木内は何やら落ち着かぬようなそぶりで私を人通りの少ない渡り廊下へと連れて行った。
「どないしたんや」
私がそう言うと、木内は真剣な眼差しで私のことを見つめ、私の制服の袖を握った。私は思わず身をひいた。相変わらず汗臭くないだろうかなどとそんなことを心配した。彼女は俺のそんな狼狽には目もくれず、真剣な眼差しを私に向けたまま切り出した。
「なあ、大郷って、今好きな人おるん?」
私は耳を疑った。薮から棒どころか、薮から薙刀が飛び出してきて、滅多刺しにされたような心地だった。久しぶりに向かい合って話をできるということにただ喜んでいただけの私は、あまりに無防備だった。ひどく狼狽えた。
「なんやねん、急に」
私は慌てて目を逸し、突き放すように言った。狼狽を悟られまいとして、無関心なふりを装うことしかできなかった。
「だから、大郷って今好きな人おるん?」
木内は依然と真剣な眼差しで俺を見つめ、同じ質問を繰り返した。
「ちょっと待てや。なんで俺がお前に俺の好きな人言わなあかんねん」
私は少し苛ついた。無神経だと思った。少しは私の気持ちを察してくれてもよかろう、と思った。そして同時に、今「俺の好きな人はお前や」と言ってしまおうかという考えが何度も何度も頭をよぎった。今こそ告白する絶好のチャンスだと思った。目の前で真剣に私を見つめている木内の顔を見た。その髪の一本一本にまで触れられる、その美しい瞳が常に自分を見てくれるようになる、そんなことが頭の中に浮かんだ。
その時、彼女の首に一つのほくろのあるのが私の目にとまった。彼女の左首筋の、頬骨の少し下あたりに、ぽつんと消えてしまいそうだが、しかし決して自己主張を忘れずにそこにある小さなほくろだった。私は今までこのほくろに気づいたことがなかった。まるで、まだ見ぬ彼女の乳房の頂きを見たかの如き興奮が私を襲った。それはじっくり観察したくもあり、同時に絶対に見てはならないもののようだとも思われるのだった。見てはならないというその気持ちが、ますます私の目をそのほくろから離そうとはさせなかった。
しかし、一体、なぜ木内は唐突にこんなことを訊くのか。彼女の行動が理解できなかった。私の事が好きだから。それならなぜ直接訊くのか。しかし、彼女ならありうる。いやきっとそうに違いない。そうならば、今私から告白しないでどうするのか。激しく踊る心臓を抑え付けるように息を吸い込んだ。
「あんなあ、うちのクラスの子で、大郷が自分のことを好きやって言ってる子がおんねん。そやから、確かめようと思って」
彼女は黙り続けている私にしびれを切らせたのか、そう言った。予想だにしない答えに私はすっかり気がぬけてしまった。彼女の言ったことの意味を理解するのに少し時間が必要ですらあった。私の好きな人は目の前の木内なのだ。一体どこの誰がそんな間抜けたことを言っているのか。いい迷惑だと思った。
「なんやそれ。誰やねん、それ。言うてみろや」
「それはあかん。教えられへん」
「それやったら、俺も教えらへんな」
「お前にだけは」という言葉は飲み込んだ。彼女は不服そうな表情を見せたが、すぐに「まあええわ」と言った。そして、始業のチャイムが鳴った。
その後の授業はうわの空だった。木内がどうしてあんなことを訊いたのか、必死に考えた。やはり合点がいかなかった。彼女の言う通り、彼女のクラスの女生徒が自惚れてそういうことを吹聴しているのかもしれない。そしてその真偽を好奇心で確かめるために、訊いただけかもしれない。しかし、それをそのまま受け取っていいものかどうか、それが私の疑問点だった。やはりあれはさぐりだったのかもしれない。そんな考えがずっと頭を離れなかった。木内は私のことが実は好きなのではないか。あまりに自分に都合のいい考えであることはわかっていたが、それならばつじつまの合う気がした。
仮に彼女の言う通りに自惚れた噂があり、その真偽を好奇心ではなく、好きだからという理由で確かめたかったのかも知れない。仮に好奇心だったとしても、実際に好奇心だけで訊くだろうか。あるいは、彼女の言ったことは嘘で、ただ純粋に私の気持ちを確かめたかったのかもしれない。心臓を圧搾機にかけたかのような感覚が襲った。こう考えると、興奮してどうしようもなかった。鼓動は異様に早く脈打ち、頭は煮えたぎった。やはりあの場所で告白してしまったほうがよかったと思った。そしていますぐ告白しようかとまで思うのだった。
しかし、すぐにそれは「それにしても、なぜ、直接俺に訊いたんだろう。本当に好きならそんなことするだろうか」という考えに打ち破られた。物怖じせず誰とでも話のできる彼女のことであるから、直接確認しようという行動を取ることも考えられないではない。しかし、そこに好きという感情が入ったとき、はたして通常の彼女の行動規範が適用されうるか、わからなかった。
いつまでたっても結論はでなかった。仮定にたった議論は、いくら理詰でせめたところで、曖昧さは初期の仮定の曖昧さに比例する。
必死に答えを求め、思案にくれたが、ますます混乱するばかりだった。