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2015.09.14 一部修正
ひとしきり泣いて、トイレを出た。ぽたぽたと落ちる雫はもう汗か涙かわからなくなっていた。柔道着でそれをぬぐい、人気の少ない廊下を体育館に向けてとぼとぼと歩き出した。
「大郷?」
廊下の先の人影が声をかけてきた。木内だった。
「柔道着着てるとなんや、めっちゃ強そうやんか」
木内は、さきほどまで私が便器を抱えて泣いていたことなど知る由もない。私は自分の弱さを悟られるまいとして、胸をはってみせた。柔道着からはだけた薄い胸板のことを思い、慌てて襟を整えそれを隠した。木内は笑って、
「でもあかんなあ。まだ白帯やもん」
「阿呆。始めたばっかりで、黒帯なんか取れるはずないやろ」
木内は私の姿を興味深そうに見つめた。
「それにしても、すごい汗やなあ」
そう言って近付くと、私の柔道着の裾を触って「ぐしゅぐしゅになってるで」と言った。
「汗臭いからあんまり触んなよ」
私がそう言うと、木内は、柔道着を触った指を鼻元に寄せた。
「うわ。ほんまや。くさあ」
私は慌てた。まさかと思いつつも、臭いと言われ、自分がひどく不潔な存在に思われた。本当に、自分から悪臭のようなものが放たれているように思われ、その場から逃げ出したくなった。
よほど、私の狼狽ぶりが滑稽だったのか、木内は大笑いして、
「嘘やって。嘘。そんな顔せんでも」
そう言ってまた笑うのだった。
「なんや、びっくりさせんなや」
「ごめんやって。まだ練習あんの? 頑張りや」
「おう。俺はこう見えても、めちゃくちゃ強いからなあ。あんな稽古、屁でもないわ」
そう言って私はわざとらしく大きく胸を叩いて見せた。
「ところで、それ何やねん」
続けざまに私は木内が手に持っていた黒い大きなケースを指して訊いた。
「ああ、これ? クラリネット。これから練習あんねん」
「おう、そしたら、ちょっくら俺に一曲吹いて見せてくれや」
私がにやにやしながら言うと、
「もう、あんたと一緒でうちもクラリネット白帯なんやから。まだ聴かせられへんわ」
と木内は頬を膨らませて言った。そして二人で笑った。
「俺、もう行かなあかんわ。お前も練習頑張れよ」
私はそう言い残して、さっきまでとは打って変わり、力強く駆け出した。背中に「あんたも頑張りやあ」という木内の声が返ってきた。角を曲がったところで私は、立ち止まり、袖を鼻にもっていった。やはり何も匂いはしなかった。
この日から、稽古の合間の休憩には、外の空気を吸って来ると言ってはこの廊下を行ったり来たりした。また、木内に会えるかもしれないという期待があったが、一度も会うことはなかった。しかし、ある時窓ごしにクラリネットを不器用な手つきで練習している木内の姿が見えることに気づいた。隣の校舎だったので、音は聴こえて来なかったが、私の頭の中には一度も聴いたことのないはずのクラリネットの美しい音色が響くのだった。
それは苛酷な稽古の合間の、ひとときのやすらぎであった。しかしそれと同時に、それは苦悩の素でもあった。
ただ眺めているだけでは、物足りなかった。話をしたかった。言葉でじゃれあいたかった。木内のことを考えると心臓の萎縮するような奇妙な心地がした。初めて感じるこの奇妙な感覚を私はそれが何か理解できず戸惑った。それは、きまって木内のことを考えるときだけに顕れた。私はその不明の病状に不安と戸惑いを抱きながらも、早く二学期が始まらないかと、木内とまた話のできる日が来ないものかと、願うのだった。