2ー8 君だけを見ている
カミオは狼たちを元の世界に還した。
校庭に立つのは、カミオだけだ。
垂れ込めていた暗雲が、風に吹かれてゆっくりと流れ始めた。
雲の切れ間から、明るい日差しがサーチライトのように校庭を照らした。
カミオも雲の動きと同じように、ゆっくりと歩き始めた。
厚い雲を割って伸びる光の帯たち。
校庭は見たこともない神秘的な様相を呈していた。
光の帯を横切って、カミオが私たちのところに戻ってきた。
カミオは、シキを通り過ぎ、ハイタッチしようとするヒカルを置き去りにして、まっすぐに歩いた。
カミオが歩く。
そのひと足ごとに、カミオの獣化は解けていった。
陽光に溶けるように、灰色の体毛は薄くなり、人肌が見えてきた。
狼にかみつかれたはずの腕に、不思議と傷はなかった。
顔の形が人の輪郭を取り戻し、鼻と唇が現れた。
とはいえ、すべて元通りにはなりきらず。
頬からあごにかけて生えている灰色の毛や、臀部に揺れるふさふさしたしっぽは、今もそのまま残っていた。
人にずいぶん近づいたとはいえ、いまだ人獣の姿で、カミオはその歩みを止めた。
クロエの前だ。
私はそっとクロエの側から離れた。
これまで完全に気配を消していた(!)ガイドが手招きをした。
私は、カミオとクロエを横から見る位置にいるガイドの隣に立った。
シキやニク、スポコン、ヒカルたちは、逆サイドにいた。
4人ともカミオとクロエに注目していた。
カミオは、ペロリと口の周りを舐めた。
その仕草が妙にはまるくらいに、カミオにはまだまだ獣らしさがあった。
クロエは、赤いタオルを頭に乗せたまま、目をまん丸にして、目の前に立つカミオを見上げていた。
灰色の毛並みが差し込む陽光を受け、輝く。
カミオが言った。
「赤ずきん、うまそうだな。食っちまうぞ」
いつものカミオの声だ。
しかし、声の主の様子はいつもとは違う。
獰猛な狼たちと戦った後の高揚が、カミオを包んでいた。
灰色の体毛が消えた肌は汗ばんでいる。
獲物を狙っているが如き視線を向ける。
声の響きに傲慢なほどの揺るがぬ意志がある。
トータルして、今のカミオには、不思議な色気があった。
血の気のなかったクロエの頬が、赤く染まった。
クロエは小さな声で返した。
「嘘つき」
オオカミの気配が残る顔で、カミオが笑った。
「俺は今、狼少年じゃない。狼男だから」
クロエは瞬間的に真っ赤になった。
クロエは即座に、足元に落としてしまっていた本を拾いあげた。
そして、本をガバッと口元に当てた。
クロエの顔の下半分は、本で隠れてしまった。
しかし、目元だけでも、クロエの顔の赤さは十分に見て取れるのであった。
カミオはまっすぐにクロエを見ていた。はたから見ても、気恥ずかしくなるほど、直線的だ。
カミオは言った。
「クロエが何かに悩んでいるのは分かってた。俺はクロエをずっと見ていたから」
私はハッとした。
さっき教室でカミオが言った言葉は、やはり。
カミオはまだらに差し込む日差しを受けながら、クロエだけを見て続けた。
「でも、クロエは俺には悩みを打ち明けない。俺も、仲良くなりたい人に限って、いらん嘘つくようなやり方しかできないひねくれ者だ。俺に悩みを聞かせてよ、なんて普通に言えたら、そもそもこんなじゃない」
私とニクは、結構な距離があるにもかかわらず、息ぴったりにお互い目を見合わせた。
私たちもこのところ、カミオから嘘みたいな冗談みたいなことをよく言われていた。
カミオは、私たちとも仲良くなりたいと思ってくれていたということなのか!
…なんだかちょっと照れる。
カミオは、少しばかり目を伏せた。
「でもさ、どうせクロエは聞かれたとしても、誰にも本心を言わないだろう。苦しんでパンクしそうな顔してんのに。クロエは誰のことも信じてない。本だけだ。クロエが向き合って、素直な顔を見せるのは本だけ」
カミオは腕を伸ばした。
クロエは反射的に身をすくめ、目をキュッと閉じた。
クロエが顔を隠す本の表面に、カミオは手を当てた。
カミオの爪は、いまだ獣のように鋭く伸びていた。
カミオは、青いブックカバーに爪を立てた。
そして、軽やかに腕を振るった。
ビリリッ
音を立てて、ブックカバーが破れた。
4本の爪に切り裂かれた青いブックカバーの下に、黒い表紙が見えた。
クロエは薄く目を開けた。動けたのはそこまで。
クロエは、傷を負った本を握りしめたままの姿で、固まっていた。
ふと気配を感じて、私は辺りを見回した。
…
…
…
なんと、校舎の窓から大勢の生徒たちが2人を見ていた!
サツキの隣には、サツキの友だちが2人ほど到着していた。
クロエの斜め上。
あそこの窓は、現在特等席だ。
よく見ると、職員室の窓から、先生たちも興味津々という顔でカミオとクロエを見ていた。
おいおい。
カミオはまったく周りを気にしていなかった。
クロエは周りを見る余裕などないだろう。
カミオは、クロエが口元に当てたままの本のブックカバーの傷を、少し首をかしげて見た。
その傷を人差し指でなでるように辿りながら、カミオは言った。
「本ならどうだ。クロエは、本になら打ち明ける。苦しいときに、願いを叶えてくれる本に出会ったらどうする? 切羽詰まったら、クロエはきっと悩みを打ち明ける。…本が相手なら」
カミオは、ブックカバーの裂け目に指を差し入れた。
鋭角に裂けたブックカバーの端を、カミオはつまんだ。
「今回のことは、俺にも責任がある。この本を入荷したのは俺だし、クロエが読むように仕向けたのも俺だ」
ザワッ…
一部のギャラリーがざわめいた。
黒魔術のくだりを知っている子たちだ。
なんか今、カミオが聞き捨てならないことを言ったぞ…‼︎
クロエも少しばかり、怪訝な顔をした。
カミオは、青いブックカバーをわずかにちぎり取って、自分の口元に当てた。
フッと息を吹いて、紙片を飛ばすと、カミオは言った。
「俺の書評を全部読んでくれているのはクロエだけだ。しかも、クロエはすぐ影響を受けて、俺のおすすめ本に手を出す。本に対するクロエの無防備っぷりは、特筆に値する」
カミオは目を細めて、クロエを見た。
あれは、獲物を狙う肉食獣の目だ。
「俺の勧めたあの本を、あんな顔して読むなんて…。かわいくて心配でならなかった俺の気持ちを、誰も知るまい。次は何の本を薦めてやろうか。例の本を読む時、クロエはどんな顔をするんだろう。それよりもあっちの本がいいのか。しかし、その顔を他の誰にも見せたくはない。見せてなるものか。いや、これは余談なのだが」
おいおい。
噛みしめるように語るカミオだが、話すほどに、ヤバさが増している。
おかしな脳内ホルモンが出ているに違いない。
ギャラリー、ドン引きである。
クロエも凍りついているぞ。
いやそれは、さっきからずっとか。
カミオ、それ以上はまずい。
いやもうすでに、いろいろアウトなのかもしれない。
どうにもこうにも、見ている方がハラハラしてしまうカミオの発言なのであった。
カミオは驚きのマイペースだ。
カミオは再び手を伸ばし、破れたブックカバーに触れた。
「クロエの趣味嗜好もつかんでいるつもりだ。俺、ドS寄りだから、悪くはないはず。…とはいえ、すまない。さっきは教室でいじめすぎてしまった」
あの時の話か!
私は思わずこぶしを握った。
カミオは、慈しむように、破れたブックカバーをなでながら、心もち申し訳なさそうに言った。
「いや、本当に、ただ普通に助けるつもりだったんだが。あまりにも本に対してばかり素直な君に腹が立ってしまって。俺の仕組んだ事とはいえ、本に嫉妬して、ついついいじわるをしてしまった。未熟だった」
おいおい。
本に嫉妬…。
いじわるって…。
私の思っていた以上に、カミオは変わり者だということが分かった。
ところで、何の話だ、これ。
オオカミ男が消え残るカミオは、別の意味で、いらん事もペラペラ言ってしまっているのに気づいているのだろうか。
クロエの顔は本に隠されている。
固まってしまっているが、当の本人は、どんな思いで聞いているのだろう。
カミオはわずかにあごを引いて、フウッと息を吐いた。
吐息とともに、少々行き過ぎた熱を逃がしたかのようであった。
それからカミオは、どこまでも優しい声で言った。
「クロエはかわいい。俺は君を見てた。一人じゃない。一人にしない。一緒に笑ったり泣いたりしたい」
まるで、赤ずきんちゃんをかどわかす、悪いオオカミ。
カミオは、先ほどまでのおかしな気配を一瞬にして消し去った。
今あるのは、ひたすら甘く柔らかくとろけるような空気感。
やばい。
無双の時のかっこよさが戻ってきた。
危険な残り香は、カミオを妙に魅力的にした。
カミオは、クロエがしがみついている本を、ガシッとつかんだ。
本、離してくれる?
カミオの無声音の問いかけは、どこまでも穏やかで。
しかし、有無を言わさぬ強固な響きまで含みこんでいて。
クロエの手の力が緩むと、カミオはすかさず、本をひっぱり上げた。
隠されていたクロエの顔が、陽に照らされた。
クロエは、あどけない表情で、潤む瞳をカミオに向けていた。
カミオは、それはそれはうれしそうに笑った。
カミオは本をぽとりと落とした。
カミオは、スッとひざまずいた。
フサフサのしっぽも、地面に舞い降りた。
サーチライトの陽光が、カミオにスポットライトを当てる。
カミオは深く息を吸った。
そして、まっすぐクロエを見上げて、言った。
「俺の世界にいるのは、君だけだ。君しか見えない。君だけを見ている」
クロエは目を見張った。
そして、小さくつぶやいた。
「暗黒の恋人たち…第8章」
「そう。クロエの好きな本だ。俺は、このセリフを言った男と同じ気持ちでいる」
クロエの肩が、ビクッと上がった。
見開かれた目にみるみる涙がせり上がってくる。
私はその本を知らないが、間違いなく、クロエはカミオの思いを理解したようだ。
カミオは笑みを消し、乞うように言った。
「俺はクロエが好きです。どうか、俺とつきあってください」
カミオの瞳に現れている。
それは、愛おしい者を見る目。
切ない思いがあふれていて。
きっと、クロエも、その本気を感じ、信じるだろう。
本だけを信じてきたクロエ。
あなたが本当に求めていたものは。
ギャラリーは固唾を飲んで見守った。
クロエは、頭に乗っていた赤いタオルを手元に引き寄せた。
震える手でタオルを握り、黒ぶちメガネの下から涙をぬぐった。
クロエはタオルの下から、小さな声で問いかけた。
「私…。高校生にもなって、本気で、黒魔術とかする、クズだよ?」
カミオのリターンは速かった。
「俺、高校生にもなって、好きな女の子に、黒魔術の本を読ませて、影からその姿を見てるようなクズなんだ」
クロエは絶句した。
ざわめくギャラリーの声。
私の耳に届くのは、あまたの同じ感想。
お似合い…だ。
周囲がざわめく中、校舎二階の窓からハヤオが顔を出した。
「返事、待てないよ!」
いたずらっぽい笑顔のハヤオが、クロエの返事を急かした。
言葉を失っていたクロエは、ハヤオの声に背中を押されたかのように、慌てて言った。
「は、はい…よろしくお願いします!」
その瞬間。
校舎の窓という窓から、大歓声が上がった。
ワーッと鳴る喜びの音。
ドッと響いて、校舎の窓をビリビリとさせて。
口々にお祝いが発せられ、口笛と拍手喝采の嵐が巻き起こった。
それはすべての鬱屈を吹き飛ばすようなエネルギーをはらむ風、声、リズム。
天の雲は流れ、嘘のような晴天が戻ってきた。
クロエはタオルを口元に当て、真っ赤な顔で校舎を見上げていた。
カミオはいつの間にか、完全に人に戻っていた。
灰色の髪の毛はやや乱れている。
顔にも体にも他に灰色の毛はない。
しっぽも消えた。
カミオは、どこからともなく取り出した銀縁メガネを装着。
いつも通りのカミオになって立ち上がった。
変身が解けても、メガネの奥のカミオの目には、クロエに対する愛おしさがあふれていた。
私は、怒涛の展開に、ただただ目を見張るばかりだった。
限界まで追い詰められていたはずの孤独なクロエに、恋人(怖いくらいの理解者)ができた。
最後はやっぱり、祭り、なのか…
そうだ、ここはハテナ学園だった。
なんだろう。私は胸がいっぱいになり。
ホッとした…
みんながひとしきり大騒ぎした後。
シキが大きな声で言った。
「終了、解散!」
ところで。
「カミオって…」
私がつぶやくと、隣に立つガイドが勘よく答えた。
「ナヅケのつけたアダ名。シルコ、今さらだ」
今、気づきました。ちょっと気まずい。




