2-7 狼
ガイドが言った。
「話は終わった?」
その声に、私とクロエはハッとした。
クロエは床に置いた黒ぶち眼鏡を拾い上げ、かけ直した。
よろめくように立ち上がったクロエを、へっぴり腰の私が支えた。
ガイドが口元に拳を当てて、フッと咳ばらいをした。
我々文科系女子の動きが滑稽なのだろう。遠慮がちに笑われてしまったようだ。
ガイドのアイスブルーの目は優しい。だから、恥ずかしいけれど、イヤな感じはしない。
私とクロエが手を携えてヨタヨタと教室のドアまで行くと、ガイドが言った。
「シキがカミオを動かす。もうすぐ決着がつく。さあ、結末を見に行こう」
私とクロエは頷きあった。
狼たちの存在、カミオの真意、クロエの居場所、球技大会。
何がどうなるのか。この目でこの耳で、確かめなければならない。
私たちは、ガイドに先導されて走り出した。
生徒用玄関で外履きに履き替えた。
私とクロエはガイドの後を追って、外に出た。
いつの間にか、空は黒雲に覆われ、昼間とは思えない暗さになっていた。
黒魔術が行われたにふさわしい状況だ。
玄関を出て左に曲がり、校舎を回り込むと、すぐに校庭に着く。
その校庭への入り際に、シキ、スポコン、ニク、ヒカル、カミオがいた。
シキは何事かを考えている風情で、木にもたれて、目を閉じていた。
カミオは制服のブレザーを脱ぎ、白シャツ一枚になって、腕まくりをしている。
ニクはしきりに肉を出していた。
ニクが地面に向けた両手のひらの先に、何かしらの生肉が、じゃかじゃか出てくるのだ。
スポコンがその肉をガシッと鷲づかみにする。
そして、ガンガン校庭に投げていた。
スポコンが遠投した肉は、正確に校庭の真ん中に集まった。
その肉に、狼たちが群がっていた。
肉が狼たちの飢えを満たし、他への被害を防いでいた。
ちょっと目を離した隙に、狼の数はまた増えたようだ。
校庭の真ん中に狼が何十匹もいる様子は、異様だった。
ニクは肩で息をしている。
スポコンの額には、汗が浮かんでいる。
お腹いっぱいになったら、狼はどこかへ消えてくれるのか。
狼を一か所に集めるだけでは、解決しない。
私が疑問に思った時、次が動き始めた。
シキが目を開いた。
「出切ったな。狼ども」
シキの眼光は鋭かった。
どこからともなく続々とやって来た狼たち。
いつまでも際限なく数を増やすものではなかったということだ。
シキは、すべての狼たちが出そろうのを、待っていた。
シキは、次のコマを進めるべき時機を、とらえたのだ。
シキは端的に命じた。
「ヒカル、やれ」
ガタイのいい、こわもてスキンヘッドのヒカルだ。
ヒカルは即座に、その場のみんなに背を向けた。
ヒカルの頭が光り始めた。
雲に覆われ、薄闇になっていた世界が明るく照らされた。
なるほど。
太陽が隠れた分、校庭は薄暗い。
まずは、フィールドの明度を上げるということか。
「ぐ…おおおお」
間近から聞こえてきた、突然のうなり声に驚いた。
カミオだった。
様子がおかしい。
よく見ると、いつもかけている眼鏡を外している。
カミオは、ネクタイもいくつかのボタンもはずしていた。
白シャツの胸元がはだけている。
カミオの呼吸が荒い。
私はドキンとした。
しどけない服装とあいまって、カミオは妙にあだっぽく見えた。
カミオは、ヒカルを見ながら己を抱くように腕を回し、うなった。
玉のような汗が、あごからしたたり落ちた。
数滴の汗は、のどから胸元に滑っていった。
カミオは苦痛をこらえるような、険しい表情をしていた。
歯を食いしばり、痛みに抗う姿は、いつもの『賢い文科系男子』という印象をくつがえす、肉食系の迫力をもっていた。
みんな、息をつめてカミオを見た。
「ぐおおおおお!」
変化は急激に訪れた。
カミオの灰色の髪の毛が、突然ブワッと広がったのだ。
重力に逆らい、手のひらを広げるように、ブワッと。
私はギョッとした。
まったく顔には出ないのだが。
立て続けに今度は、カミオの両腕や顔に、灰色の毛が、ブワブワブワッと生えてきた。
そりゃもう、盛大に。
クロエの口がパカッと開いた。
まったく顔には出ないが、私もクロエと同じ気持ちだ。
私たちの驚きの中、カミオの鼻筋が伸び、口が裂けていった。
そして、顔中が灰色の毛に覆われていく中、口内に鋭い牙がのぞいた。
ヒカルの光に煌々と照らされ、カミオの灰色の毛並みが艶やかに輝いた。
いつの間にか臀部から灰色のしっぽが伸びて、ふさふさと揺れている。
制服のズボンとの兼ね合いは、一体どうなっているのだろう。
苦痛は去ったのか、カミオは静かに立っていた。
わずかに顎を上げ、息を整えている。
カミオは二足歩行のまま、獣になってしまった。
狼の顔だ。
しかし、その瞳には、カミオの知性と理性が宿っている。
まるで怖くない。
胸元の毛並みは白く柔らかそうにすら見える。
毛むくじゃらの手は、鋭い爪を有している。
上背はいつものカミオのまま。
ごく平均的な身長だし、筋肉もりもりになったわけでもなく。
白シャツも破れず。しっぽはあれど、制服のズボンはそのままで。
しかし、人間からはかけ離れてしまった。
美しき獣人。
それはそれは見事な。
「オオカミ男…」
クロエがそうつぶやいた。
カミオの変身は、転校生である私だけが初見だったわけではないようだ。
シキまで、物珍しそうな顔をしながらオオカミ男を見ていた。そうなることを知っていて、指揮しているであろうにもかかわらず。
オオカミ男カミオは、数回首を振った。
それから、自分の手を見下ろし、何度かグーパーを繰り返した。
カミオが校庭の狼たちに目を向けた。
狼たちも、警戒するように、カミオを見ていた。
カミオが、ふいに振り向いた。
クロエだ。
カミオはクロエを見たのだ。
私の隣で、クロエの体がぴょんと跳ねた。
そして、カミオはシキに顔を向けた。
シキは、ピューと小さく口笛を鳴らした。
それから、ニッと笑って、すぐさま命じた。
「カミオ、奴らを元いた世界に還してやれ。行け!」
カミオは、目を細めた。
不敵に笑い返したのだと伝わってきた。
オオカミ男カミオは、人外の速さで、校庭の真ん中目指して走り出したのであった。
「スポコン、ニク、退け」
シキの声がとんだ。
スポコンは、へなへなと膝をついたニクの腕をとって支えた。
ニクが荒い息の下で、ごめん、と申し訳なさそうに言うのが見えた。
スポコンは、体力ねえな、と答えて笑っていた。
スポコンは、シキの隣にある木の下にニクを座らせた。
そして、スポコン自身はシキの隣に仁王立ちをして、タフな眼差しを校庭に向けたのであった。
ニクが、少し離れたところにいる私に気がついた。
小さく手を振ってくれたので、私はホッとして、頷きを返した。
それから、ニクも私も、校庭のカミオに視線を移した。
カミオが校庭の真ん中に躍り出ると、狼たちが一斉にカミオを囲んだ。
がるるるるる!
狼たちは、牙をむき出しにし、姿勢を低くした。
もうどの狼たちも、肉なんかはそっちのけ。
臨戦態勢だ。
ぐるるるる!
数匹の狼が、カミオに襲いかかった!
噛みつこうと牙をむく狼よりも、カミオのスピードは速かった。
カミオは、灰色の毛に覆われた腕を振り回した。
「があ!」
狼数匹が、まとめて横なぎに振り払われた。
ぎゃん!
地面に投げ出された狼は、真っ黒に染まり、闇に溶けるように消えていった。
仲間を倒された狼たちはいきり立った。
前から後ろから、カミオに襲いかかった。
カミオは鋭い爪で狼たちをなぎ払っていった。
私たちは校庭の入り際に固まり、ハラハラしながらカミオを見守っていた。
クロエは、胸の前で手を組んで、祈るようにカミオを見ていた。
あれほど抱きしめていた黒魔術の本を、落としてしまったことに、気がついていない様子だ。
カミオはやはり頭がいいのだろう。
狼たちの動きを予測し、先手を取って動く様子だった。
そうはいっても、狼たちの数は多い。
カミオが狼に噛みつかれそうになる度に、私たちは震えた。
カミオにすっかり意識をとられている時だった。
バサッ
ん?
私の隣のクロエの頭の上に、何か赤い物が降って来た。
「え! え?」
クロエは驚いて慌てた。
おたおたするが、何度も言うけれど超文科系。
こういう時に、効果的に体を使うことができないのである。
「何!? これ、何? 何?」
「えっと。タオル?」
あたふたするクロエに代わり、隣にいる私がブツを確認をした。
クロエの頭の上に乗っかっている赤いもの。
よく見ると、フェイスタオルである。
ラメラメピンクのハートがついている、ド派手な赤いタオルであった。
「タオル」
「うん。タオル」
クロエは、頭から鎖骨の辺りまで垂れているタオルの端をやっと視認した。
「おーい。こっちだよ」
上方から聞き覚えのある女の子の声がした。
私とクロエは、声のする方を見上げた。
私たちのいるところから一番近い校舎の窓だ。
窓を開ける音にも気づかなかった。開いた窓から顔を出しているのは、サツキだった。
「クロエ、髪濡れてるから、それ貸したげる」
サツキは今日も、ピンク色の髪をきれいに巻いて、ツインテールにしていた。
サツキが、自分のフェイスタオルを、クロエに投げてくれたらしい。
おしゃれで華やかなサツキと、控え目文科系クロエ。
二人にはこれまで、接点らしい接点はなかったようであるが。
クロエはぽかんとしている。
サツキは言った。
「クロエ、何かやらかしたって聞いてさ」
「やらかした…。確かに私…」
女の子たちの間では、早くもそういう話題が回っているということか。
クロエは、少ししょんぼりしてうつむいた。
サツキは明るく言った。
「ね。私が言うのもあれだけど、クロエ。あんま気にすんな」
「え…」
「それだけ言いたくて、クロエに会いに来たんだけどさ。どこにいるんだか、けっこう探したよ」
クロエは驚いて数回まばたきをした。
「あの、私のこと、気持ち悪くないの?」
「ほら、私もこの間、バカやっちゃったばっかりだから」
バカみたいに指輪自慢して、それからニクと大ゲンカして、サヨナラしたの知ってるでしょ、とサツキはおどけた口調で言って、苦笑いをした。
「とにかく、そのタオル貸したげるから、髪を拭きなって」
クロエは目をぱちくりとした。
クロエが大混乱に陥った時、クラスメイトに紙コップを投げつけられて、濡れてしまった髪。
クロエは、頭にかぶさるタオルの両端を、両手でぎゅっと握った。
「ありがと…」
蚊のなくような声で、クロエは言った。
サツキは、どういたしまして、といたずらっぽく笑った。
先日、どつぼにはまったサツキが、クロエの心に声をかけてくれた。
クロエの目には、涙が浮かんでいた。
それは『孤独』とは反対の温度をもつ声。クロエを1人にはしない、という声だ。
私は、サツキの優しさを知った。
サツキは間違いなく、ニクの親友だった子なのだと、私は深く納得したのだった。
狼の牙が、初めてカミオの腕をとらえた。
カミオは噛みつかれ、傷を負った。
「ガァァ!」
痛みのためではない。
カミオは怒りのあまり、吠えたのだ。
カミオは噛みついて離れない狼の首をつかみ上げた。
狼はたまらず口を開けた。
カミオは自分の腕から引き剥がした狼を、激しく地に叩き落とした。狼は黒い煙となって消えた。
そこからのカミオは、知性も理性も先ほど狼と一緒に振り落としてしまったかのようだった。
熱くて冷たくて過激で峻烈で。
野性味あふれる、計算も容赦もない攻撃性。
それはカミオを余計に人間から遠ざけた。
クロエがゴクリと唾を飲んだ。
カミオからもっともっと目が離せなくなった。
恐るべき吸引力で、誰もが心を鷲掴みにされた。
見惚れた。
なんて美しい。
あっという間に、狼は数を減らしていった。
素晴らしい速さで、黒い煙が次々と立ち上った。
それは、狼があるべき世界へ戻っていった合図だ。
カミオ無双。
いよいよ決着がつこうとしていた。




