木曽の走り屋
平安の末期。源平の合戦の様相が逆転した頃の話だそうである。
倶利伽羅峠の戦で平家の軍勢を退けて名を轟かせた勢いのまま、その妻である巴御前と大量に軍勢を引き連れ、度重なる戦で尽く荒廃した都へ上洛した源 義仲公が、皇位継承問題に首を突っ込んだり、部下の兵士達の略奪行為や自身の狼藉によって京の人々の怒りを買い、遂には同じ源氏の頼朝等によって粛清の憂き目に遭い、乳兄弟の今井 兼平と共に戦死した事は良く知られている。
これはそんな木曽殿が、まだ京都で豪勢を奮って居た時の逸話の一つである。
ある日の昼下がり、愛妻の巴の膝の上で昼寝をしていた義仲は、
「暇だ……。つまらん……。」
と不躾に呟くと、傍に控えていた幼馴染みで腹心の部下でもある兼平に突然話し掛けた。
「汝もそうは思わぬか?」
乳母の子として稚児の時から遊び相手として義仲に仕え、元服して正式に家臣となった後も主従を越えて彼を実の兄のように慕い、その性格をよく心得ていた兼平は、一瞬答えあぐねた。下手な返答をして兄者の機嫌を損なえば、その場で斬首も覚悟せねばならない。
兼平は言葉を慎重に選びながら答えた。
「つまらないかは我も存じませんが、我ら武人が戦が無くて暇を持て余して居る事は良い事で御座いましょう。」
「それはそうかも知れんが、我には面白くはないぞ。」
ぶっきらぼうにそう言い放って自分から背を向けるように寝返りを打った義仲を眺めて、兼平は思わず溜め息を吐いた。
その気になれば、学のある家臣や女房を集めて歌合わせや双六に興じたり、都で有名な楽士や舞手や役者を招いて即興で演じさせたりと、暇のつぶし方は無数にある筈だが、勧めてみた所で無駄であろう。不機嫌になって寝所へ引き籠もるのが目に見えている。
義仲は信州の野暮な田舎者で非常にアウトローであった以上に教養がなく、その上根っからのアウトドア派だった。だからこそ、インテリ系インドア派の極みのような都人の貴族達と反りが合う訳がなく、当然彼らが好む都の遊びや娯楽を楽しめなかった。
この後、義仲が都人の反感を買って対立したのも、偏には彼のこの様な本質的な性格上の孤立も大きかったと考えられる。兎に角彼は京の貴人達が興じる物事をとことん嫌い、一様に目の敵にしていた。
良くも悪くも、義仲は完全無垢に武人だったのだ。
「そうだ!」
何ら脈絡も無しにいきなり大声で叫びつつ義仲がガバッと飛び起きたので、兼平は些か吃驚し、まじまじと主君の顔を凝視した。
「四郎!今すぐに、庭へ車と牛飼童を集められるだけ集めろ!」
幼少の頃より事ある毎に見せてきた餓鬼大将特有の不敵な笑みを一瞥し、嫌な予感に駆られつつも、兼平は立ち上がり、即刻上司の望みを叶える為に京都中を縦横無尽に奔走した。
さて、東奔西走した兼平の働きのお陰で、寝殿造りの大きな義仲邸の、白砂が一面に敷かれた広く立派な庭園に、網代車や檳榔毛車等、様々な趣向を凝らした牛車が6台、義仲達の眼前に勢揃いした。
義仲は、巴や兼平等と共に縁側の一番見易い所にドカッと腰を下ろし、その筋骨隆々したがたいの良い身体を落ち着けると、薄水色の狩衣の袂を少し開けて扇子を取り出し、鷹揚に扇ぎ始める。
庭へ目を下ろせば、車夫や車の他にも、何か上様が面白い催し物をなさるらしい、と狩衣姿の将の者から薄汚い水干を着た下級の兵卒に致るまで、大勢の義仲軍の武士達が一堂に会して時の声を今か今かと色めき立って待って居た。壮観である。
一方、牛飼い達は、荒神とも呼ばれる暴れ者として有名な義仲が、自分達をどのような行為へ及ばせるのかと戦々恐々とし、皆一様に口を真一文字に締めている。
突如、数百人程に楕円形で囲まれた白い砂地に、群集を割るように1つの騎馬が躍り出た。深紅に輝く豪奢な布地を掛けられたその黒い荘厳な馬は、一番脚が速い馬として義仲に愛でられている稀代の駿馬である。
そして、その鞍に跨がった、金の錦が織り込まれた鮮やかな赤き狩衣装束姿で黒い烏帽子を被り、赤銅色の肌をした精悍な若武者は、先の流鏑馬の会で見事な腕前を披露したことで主人の義仲から並大抵でない喝采を受け、大層な褒賞を賜った某という18か9の若者である。
何をするのか、とざわめいてた観衆は、騎乗する若武者の登場で水を打った如く一気に静まり返った。
そして、義仲は徐に仁王立ちすると、扇で某を指して、
「走れ!」
と絶叫し、愛馬が駆け出すや否や、
「鞭を打て!」
と、牛飼童等に向かって激しく怒鳴った。
車夫達は勿論困惑した。しかし、時世柄権力者に逆らう事は叶わなかったので、戸惑いつつも牛に思い切り強く鞭を振った。
只でさえも目の前の赤い物に感化されて興奮状態に在った牛達は、鞭が打ち込まれた瞬間、まるで堰を切った鉄砲水のように、砂埃を巻き上げる牛車を牽いたまま、勢い良く猛然と飛び出していった。
某の騎乗は本当に見事であった。牛に追い付かれようとする刹那、グッと手綱を強く引いて鋭く方向転換をして辛くも難を逃れるのだ。そうして文字通り煙に巻かれた哀れな牛共は混乱し、ある物は転倒して自身の牽引する車の下敷きになり、ある物は横からの遠心力に耐えきれずに牛車が横転して崩壊しているのにも関わらず走り続けたり、更にはそれらに後続の車が玉突き衝突する等、とんでもない惨状を呈していた。
他方牛飼い達の方も、自身の牛が大怪我をし、大切な牛車も跡形も無く壊れていく様をまざまざと見せつけられて、泡を吹いて昏倒したり失神したりする者が続出し、それはまあ傍から見て気の毒としか言いようのない状態に陥っていた。
それらも含め、始めから終わりまで事のあらましを御覧じていた義仲は、兼平が注いだ酒の入った杯を片手に、
「良いぞ!もっとやれ!」
と大いに騒ぎ、部下達と一緒になってゲラゲラと大笑いしていた。その様子はまるで古の伝説に聞く大江山の酒呑童子その物であり、品のない事甚だしかったという。
この事はすぐに京都中へ広まり、噂に上る度に、
「また義仲か。」
「これだから、東方の田舎者は野蛮で風情を解しないから気に食わない。」
「酷い事をしたものだ。」
と、都の人々は大いに義仲を非難し、彼の他の所業と併せてその名を貶めるのに助力したと伝えられる。
終